B.Y.L.M.

ACT9-scene6

本物のそれではない。刺青だ。

やわらかな動きで伸びるため蔦様に映る緑の茎が、薬指の付け根をひと巡りして始まり、手の甲と手のひらとを伝い、前腕から上腕へ、さらに奥へ――

どこまでどの程度伸びているか、全型はあとで鏡を確認しなければわからないが、がくぽに、夫の体にしなだれるように、絡みつき、巻きついている。

きれいに意匠化され、一見わかりにくいものの、これは勿忘草だ。

確か剣に刻まれたのも、空を覆う結界に絡んでいたのも、同じ紋様だった。

茎と葉の特徴が、草花に親しむがくぽには読み取れる。剣に刻まれていた花のかたちも、そうだった。

勿忘草――あまり草花に馴染んでこなかったカイトにとっても、生国でもっとも馴染みがあったといい、嫁いできてからは、幾度も世話となったという、同胞。

それをカイトは自らの、『王の花』としての印章と為したようだ。

それが、がくぽにも刻まれた。

左の薬指に始まり、あるいは終わって、カイトへと繋ぐ――

高らかに、憚ることなく、力強く所有を宣言してのける、派手に華やかに激しい、花の独占欲の証だ。

みっともない、きっと呆れられるとは思っても、がくぽはどうしても表情が緩んだ。にやついて、堪えられない。

「代わりに、これをくださったでしょうこちらのほうがよほど粋というものですし、あんなはりぼてめいた見せかけよりずっと、箔がついたと思いませんか?」

「ぉ、まえ、は」

カイトがひくりと、しゃくり上げた。言葉がそれ以上、続かない。

がくぽは構わず、未だ涙を残すカイトをちらりと見上げ、肩を竦めた。

「あれだったのでしょう道理でごてごてと、趣味が悪い。要りませんよ、あんなもの。手入れだって面倒なんですし」

「おまえ、は……」

今度こそ完全に、カイトはそこで絶句した。おそらく『おまえというやつは』というのが、正解だとは窺えるのだが。

しかし告げたがくぽの言葉に、一片の嘘もなかった。

誤魔化しも、慰めもだ。本心から、まるで偽ることなく、がくぽはそう思っていた。

カイトがどう思っていたにしろ、がくぽが自らであると認識していたものは、『今』、欠けることもなくすべて揃っている。

すべて、取り戻してもらえた。

始まりが、あれ――南王のしわざであると考えれば、やはり複雑なものは過らざるを得ない。

であっても、いつであったと認識もできないうちに掛けられ、そうとは知らないまま付き合い続けた呪いだった。

がくぽのなかではすでに、そういうものとして自我が形成されてしまっている。今さら違うと言われても、そちらのほうがよほどに困るのだ。

よほどに困るし、自らのうち、もっとも大事なものを拒まれ、決して赦されない罪を負わされたかのような心地すら、ある。

それをカイトは――カイトが、取り戻してくれた。

カイトだ。もっとも愛おしむ妻であると同時に、花たる。

花であれば、呪いによってつくられた『昼』の存在は、受け入れ難いという程度で済む話ではなかったはずだ。

必要ないものは、必要ない。

その大原則に、疑いの挟みようはずもない大前提に、まさか逆らった。

まさか逆らって押しきり、挙句、どうやったかは知らないが、同じ呪いを得てがくぽに掛け直し、その手でまた、『がくぽ』を歪め、偽ってくれた。

『がくぽ』を認め、容れて、赦してくれたのだ。

そのうえで刻まれた、左の手に始まる、あるいは終わる、刺青だ――

『これは私のものであれば、今後、誰ひとりとして触れることを赦さない』という。

なんという独占欲であり、所有欲であり、独善ぶりだ。

苛烈で短絡的であり、あまりに激しく強い、『花』の愛だ。

がくぽはこれからまたしばらく、夜と昼との成長差によって、日の出と日の入りの一日二回、体が捏ねられ、無理やりにつくり変えられる痛みを味わうことだろう。

以前はそのことに、どれほど失望し、絶望したか知れない。

しかし今は違う。カイトが望んで求め、手ずから植えつけて与えるそれなのだと思うだけで、――

「ああ、どうしよう。昂奮する……愉しみで仕方ない」

「…っく、ぅ………」

とうとう、カイトの瞳から溢れる涙が止まった。

くっと眉根を寄せ、渋面となったカイトは、頭痛を堪えるように額に手を当てる。

泣きじゃくったせいでなく、息が荒い。歯を軋らせて懸命に、呑みこんでいる気配がある。

まあ確かに――少しばかり迂闊だったと、がくぽも認めざるを得ない。

あまりにもときめいて、ときめきすぎて、内に秘めておくつもりが堪えきれず、もっともろくでもないところの心情をこぼしてしまった。

きっとカイトは呆れただろう。呆れ果てただろう。幻滅もしたかもしれない。

それでもいいと、がくぽは思えた。

赦された――その実感が、こうして左の手から絡みつく茎葉を見ていると、忘れようもなく、奥深くにまで刻まれていく。

「そうですね。呆れましたかいえ、まあ、呆れたことでしょうね。――謝りましょうか?」

「っ!」

多少の反省はこめつつも軽く告げると、カイトははっとして顔を上げた。額からも手を離し、まじまじとがくぽを見る。

顔が腫れぼったい。ひどく泣いたからだ。ここまで泣かせた――

泣いてくれたのだ。がくぽのために、がくぽを想って。

「ん。あー………」

そこでがくぽはふと、思い出したことがあった。それでようやく、懐いていたカイトの膝から頭を離し、体を起こす。

まずは軽く、体の状態を検めた。すると左の胸、ちょうど心の臓があるあたりにも、腕から続く茎葉が巻きついていることがわかった。

下はそこで伸び止まりのようだが、上にはまだ続いているような見え方だから、もしかしたらうなじあたりまで伸びているのかもしれない。やはり鏡を見なければ、全型は不明であるようだ。

が、ますますもって――ますますもって、漲り、滾らずにはおれない。

がくぽは跪き、略式の騎士の礼を取ると、揺らぐ瞳で見つめるカイトへ微笑みかけた。

「確か、お話があるということでしたよね私に伝えたいことがあると、そう、おっしゃっていた。大変長らくお待たせし、恐縮というものですが――神威がくぽ、カイト様の御前へ、ただいま帰着致しまして御座います。ので、どうぞ、なんなりと。なんでもおっしゃってください、こころおきなく」

「ぃ……っ、まっ?!」

促されたカイトが、引きつった声を上げる。体が仰け反り、逃げを打った。しかし足が自由にならないカイトは、逃げるにしても限界がひどく近い。

わかっているから、さすがにがくぽのこころも多少の痛みを覚えた。

だとしても引くことはなく、がくぽはにこにこと微笑んだまま、ずいと乗りだしてカイトに身を寄せた。

その状態でとてもわかりやすく、視線をちらりと動かしてみせる。西の方――日の沈むほうだ。

「そろそろ、夕刻ですねえ……あとちょっとで、日が沈む」

「――っ!!」

カイトが、はっとする。

日の出と日の入り、がくぽに掛けられた呪いは、これを境と定め、行われる――昔も今もだ。

がくぽはさらにずいと身を寄せ、仰け反るカイトに伸し掛かるような体勢となった。もちろんカイトが後ろに倒れて痛い思いをすることがないよう、さりげなく手を添え、支えることは忘れない。

言い方を変えれば、これ以上の逃げ道を塞いだという。

それでやはりにっこりと、『にっこり』としか言えない笑みを、がくぽはカイトへ向ける。

「お待たせしたうえにこのような、時間がないというのも、まさに私の至らなさゆえにて、言い訳のしようもないことですが――しかし、今、すに、おっしゃっていただけませんと、………明日の朝まで、持ち越し、なんですよ、ねええ………」

「ぉ、まえ、おま、……っ!」

ほとんど脅迫だ。カイトの瞳が、再び潤んだ。

ただし先とは、意味が違う。赤らむ頬も目もとも、先とはまるで、意味が違う。

がくぽは陶然と、そんなカイトに見入った。カイトはますます、肌を染めていく。瞳は潤み、熱を浮かべて揺らいだ。

「わ、――わかって、いるだろう、がくぽ。おまえ、私が、なにを…」

「カイト様を抱き上げて屋敷に入ったなら、まずは浴室へ運び、汚れを落として――乾かして、寝室へ運び、長椅子に置いたなら、お茶の支度に、それから…」

「――っ!!」

がくぽが並べた手順は、単に日が沈むというだけでなく、その前にがくぽが、昼の青年姿であるときにやりこなしておかなければいけないことだった。

すべてがすべてではないが、途中途中のいくつかが、夜の少年では未だこなすに難儀する。

つまり時間がないから早く言えと、手を替え品を替えで脅したということだが。

カイトはますます瞳を潤ませ、歪め――

ふいと想いが募り溢れ、その両の手が、がくぽの首に伸びた。まるで蔓か蔦かが巻きつくときのような艶やかな動きで絡むと、伸し掛かる夫をさらに強く、引き寄せる。

がくぽは素直に寄ったが、互いの楽を優先し、青草の上にカイトを押し倒す格好となった。

間近に見合って、戦慄くカイトのくちびるが、開く。

「愛している、がくぽ――おまえもまた、……否、『おまえたち』こそが私の、もっとも愛する夫だ」

待ち望んだ――がくぽだけでもなく、カイトにとっても待ち望んだ告白であり、瞬間だった。

凝然とカイトを見つめ、噛みしめ、やがてがくぽはくっと、くちびるを引き結んだ。

苦渋に歪む顔をカイトの肩口にきつく埋め、吐きだす。

「かつてなく、自分が呪われてならないっ……っどうしてもっと早く、目を覚まさないんだ。ほんとうにもう、時間がないじゃあ、ないか。これだけの昂奮を、わずかも発散できないまま、まさか明日の日の出まで持ち越しだなんて………ああもう、とっとと成長すればいいのに、夜め――」

――そこまで見届けて、南王は姿を揺らがせた。

否、決して見届けたかったわけではない。が、掻き飛ばされた首が再びついて、落とさず移動できるまでになるには、さすがに相応の時間が要りようだ。

いかに南王が人智を超えていようとも、首が完全に掻き飛ばされようものなら、拾って乗せたらそれで終わりとはいかない。

「あーあー………」

揺らがせつつも堪えきれず、南王のくちびるからは慨嘆が漏れる。

二度目だ。子のいのちの、ふたつを喪ってしまった。せっかく永遠にも近い自らの身の内へと、すくい容れたものを――

「次は、もう少しう、策を練らねば――否しかし、まずはト…」

ぼやきつつ、南王は天を仰ぐ。

入るには難儀した結界だが、南王が出て行くと示すと、大喜びで開いた。息子夫婦の、否、息子の嫁の、義理の親へ対する考えが、よくよくわかる仕様というものではないか。

「あーあー………」

ひたすらぼやきつつ、南王の姿は揺らぎ、消えた。もちろん息子夫婦の見送りはなかった。