B.Y.L.M.
ACT9-scene8
「っ、はぁ、はー……っ、は、…」
どれほど足掻きもがいても、カイトが添えた手から逃げることだけはなく、がくぽは青年から少年へと変わりきった。
全身を汗で濡らし、肩で息をしながらも、やはり手は寝具を掴み、カイトにくるまれるままだ。
言っても、以前、南王が掛けたものよりはずっと、時間は短い。おそらくこれは、付属物の有無の差だ。
以前の昼の姿には、角や翼、あるいは爪や牙といった、夜の少年にはまるでない付属物が多くあった。
今は違う。夜も昼も、年齢以外に差はない。つくり変えなければいけないものが減った結果、――少なくともがくぽとしては、痛みは激減したし、掛かる時間も減ったしで、負担はずいぶん軽くなったのだという。
かてて加えて、これをがくぽに課した相手が、カイトだ。
「…ふ、ふふ……っ」
――責任を免れるつもりは、毛頭ない。
が、そこはしばらくあまり考えないようにしようと、カイトは若干遠い目で、先の、別れる間際の青年の発言にそっと、蓋をした。
これが、青年がカイトを慮ったうえで、気を軽くしようとして言ってくれたことなら、良かった。
しかしここまで夫婦として暮らせばカイトにも、読み難い夫の考えがある程度、わかるようになってきていた。
本気だ。この場合。
どうしてこういうことばかりと、カイトは地団駄を踏みながら喚きたい。
こういうときには意味を『根』と替えた足はさっぱり動いてくれないので、まず地団駄を踏めないというのが、我がことながらほんとうに腹立たしい。
「は…っ」
複雑な胸中を持て余し気味のカイトの前で、少年がようやく、息を整えきる。添えた手の下から、拳が抜けた。
『帰ってきた』ということだ。もう大丈夫という。
安堵は覚えたものの、カイトは油断しなかった。日が沈みきり、薄暗いなかにじっと、夜の夫を見つめる。
まず、少女とも見紛う幼い美貌だ。汗みずくであり、疲れた色も多少はあるが、変わらない――
これはほんとうの意味で、変わらない。夜の姿には、『昼』に刻んだカイトの印がなかった。カイトが力を及ぼしたという、呪いを掛けた証でもあるもの。
なぜなら掛けた呪いは、『がくぽ』のすべてを歪めるものではないからだ。
あくまでも『昼間のがくぽ』にのみ影響するものであり、夜となると『効力が切れる』。
がくぽの過去の記憶を辿り、カイトが目にして聞いたまま再現した南王の呪いが、そういうものだったからだ。
そうした理由、そうせざるを得なかった理由は、自らが呪いを掛けるにあたり、改めて『がくぽ』に触れてみて、カイトもよくよく理解したが――
とにかく、夜の少年に変わりはない。以前ままだ。少女とも見紛うほどの美貌に、成長途中の体。
それでもひとつ、大きく変わったことがあるとするなら、背に負っていた、翼の内包された瘤がなくなったことだ。
昼の青年からも、南王の力を無理やり取りつけたものでしかなかった翼が失われたことを考えれば、至極当然のことではあるが――
「がくぽ、体は」
「……」
無事を案じて呼びかけたカイトに、変わったばかりの自らの体を検めていたがくぽは、うっそりと顔を向けた。
無愛想な、気難しい年頃の少年の表情だ。
否、いつもよりわずかに不機嫌かもしれないから、こうなる直前の、青年の軽口に憤っているのかもしれない。こうであってもまったき自分自身であればこそ、抱く思いは激しくなる。
体の変容とともに日も沈み、室内はずいぶん暗くなった。
そのなかで懸命に見つめるカイトから、がくぽはふいと、顔を逸らした。
「♪、――♪」
「んっ、!」
うたが、ふたつ――まず、照明に灯が入る。すべての照明に灯っても、まずは小さくあえかに、徐々に徐々に育って部屋を明るくしていく、やさしい灯だ。
ほとんど同時に水を含む風が起こり、がくぽとカイトの体に巻きついた。
消えたあとには直前の名残りをきれいに拭い去られ、ふわりと乾いて心地よい体がふたつ、ある。
そうやってカイトも含めて最低限の支度を整えたうえで、がくぽは再び、寝台脇の床に跪く。略式ながらも、騎士礼を取った。
「ただいま戻りました――カイト様」
「ああ、おかえり、がくぽ――愛おしい、私の夫」
抱えているものはあれ、まずは律儀に挨拶して寄越す少年に、カイトはまた寝台の縁へと身を乗りだした。少年の額にそっと、くちびるを触れさせる。
大人しく受けたがくぽは、ふわりと雰囲気を和ませ――
しかしいつもならそのまま、なし崩しとなるものが、今日は違った。ふっと、瞳の花色が翳り、うつむく。
「がくぽ?」
もしかして体の具合のどこか、悪いところでも出たのか。
すぐさま案じる声を掛けたカイトを、がくぽはまた、うっそりと顔を上げ、見た。ありありとした不満と不平とが、瞳のなかに隠されず、ある。
「どうし――」
「もう、耐えられません」
重ねて訊こうとしたカイトを遮り、少年は低く抑えても、強い調子で言いきった。
もはや忍耐しきれぬという夫の宣告に、カイトはぎくりとして、くちびるを引き結ぶ。どれだろうかと、咄嗟に考えた。
普段であれば、そんなことはしない。変容の終わった直後の少年がこう言いだしたなら、夜と昼の成長を分けるという、この呪いについてだと、まず思う。
しかし今日は、直前の青年の発言があった。
あれは――たとえ事実であったとしても、否、事実であればこそ、気難しい年頃の少年にとって、明らかにされるに耐え難い内情であったはずだ。
わかるから、カイトは咄嗟にどちらかと悩んだ。
どちらであれ、そういった混乱を引き起こす根本こそが、カイトが与えた呪いだ。
どのみち最終的には、カイトへ還る。
揺らぐ瞳でただ見つめるカイトへ、がくぽはすっと、拳を突きだした。左の拳だ。
「……?」
これがなんであるのかと、意図が掴めずにただ瞬くカイトに、少年はさらにぐいっと、拳を寄せた。手首を折り、指の付け根をこそ見ろと、促すしぐさだ。
ともに、叫ぶ。まるで駄々っ子のように。
「なんで消えるんですか!!」
「え?」
やはり意図が掴めず、カイトはきょとんとして、突きつけられた拳と、少年の顔とを見比べた。
なにかおかしな、『消して』しまったものがあるというのだろうか。見た限りではひたすらなめらかでうつくしい、抜けるように白い肌だ。ことに瑕疵もなく、――
「印です!どうして『夜』になると消えるんですか?!まるで、片鱗も残らない!なんでですか!!」
「ああ…」
地団駄を踏むような勢いで詰られ、カイトはようやく理解して頷いた。
つまり少年が言っているのは『昼』の身に刻まれた、左半面から左の薬指までを彩る、刺青様の印のことだ。
確かにあれは、昼の青年にこそ無視しようもなくはっきりくっきりと刻まれているが、夜の少年の肌はまるで汚していない。まっさらに、きれいだ。
そうとはいえ『消える』理由など、今さら説明の必要もないはずだ。先にも言った通りだからだ。
「なんでもなにも――私が呪いを掛けたのは、おまえの『昼』の面にだけだ。『夜』のおまえには『触れて』いないのだから」
『触れた』証である印など、夜に浮かぼうはずもない。
こんなことは今さらカイトが説くまでもなく、幼いころから呪術に親しんできたがくぽのほうこそ、詳しいはずだった。カイトが自らの身に掛けた呪いが、どういったものであるかも含めてだ。
なにを憤っているかは理解したが、どうしてそれで憤るのかがわからない。
どこか呆然と答えたカイトに、少年はこっくりと頷いた。得心したというしぐさだ。なにを得心したか。
「贔屓ですね!!」
「ひっ……ぃ、きっ?!」
選ばれる言葉だ――選ぶ言葉だ。よりによって。
愕然と見つめたカイトに、がくぽはぶすっとふくれ、――つまりは非常に子供っぽい、幼い様子で、こっくりと頷いた。
「そうです。贔屓でしょう?だってあれはなにより、婚姻の、誓いの指輪でこそあるのに――『昼』には与えて『夜』にはくれないなど、贔屓です。どちらも『俺』なのに……どちらもあなたの夫だというのに、カイト様は『昼』ばかり贔屓する。『俺』もあなたの夫であるというのに、違いますか!」
「え、………えええ……っ」
言いたいことはわからないではないが、言い方だ。あまりに子供っぽい、幼い論理の振り回し方をする。
そう、確かに、夜の少年の見た形は変わらなかった。
しかし言動は、変わった。『背伸び』を止めたのだ。
あのあと、自ら払った呪いを再び夫に掛けるという非道を、カイトが行ったあとからだ。
――ほんとうにうしなわれるのは、『おまえ』だ、がくぽ。
昼の青年から変わって戻った夜の少年へ、カイトは説いた。
夜も昼も、どちらも夫は理解していなかったからだ。カイトの行いによってほんとうにうしなわれるものが、なにであるかを。
――おまえが成長すれば、おとなとなれば、『彼』にはまた、会える。しばらく待てば、必ず会う日がくる。けれど『おまえ』は違う。そうだろう?誰も、おとなから子供に戻ることはない。子供の時代は、二度とは還らないのだから。
それは、ごく当たりまえのことではあった。
誰もがそうだ。子供の時代を経て、大人となる。
子供は成長すれば必ず大人となるが、大人から子供に『成長する』ことはない。ひどく当たりまえであり、まさに今さらな話だ。
だからカイトは、待てば良かっただけの話だったのだ。
子供の時代は短く、決して還らない。
わかっていた。
今日、うしなったものには、いずれ先で会うことができる。
それも、わかっていた。
今日、うしなったものこそ取り返すことが容易いものであり、子供の時代こそ、決して取り返しのつかないものであるのだと。
すべて、わかっていた。
わかっていて、待てなかった。
――だから、がくぽ……ほんとうにうしなわれるのは『おまえ』だ。私がほんとうにおまえからうばってしまったものは、『おまえ』のほうだ、がくぽ。
そう言って、カイトはまた少し、泣いた。ここで泣きたくなどなかったが、やはり自らが悔やまれて、涙が堪えきれなかったのだ。
夜の少年はそんなカイトをしばらく眺めていたが、やがておずおずと抱きしめると、ぽつりとこぼした。
――けれど、カイト様。俺はあなたに、『俺』を愛してほしかった………俺は、『これ』で、『俺』であれば……
――もしも正しい『俺』ただひとつを、あなたがどれほど愛し、慈しんでくださったとしても………、きっと俺はずっとわだかまり、生きた……
それからだ。
少しずつ、すこしずつ、夜の少年は『背伸び』を止めた。
すべてではない。気難しい年頃であれば、つけたい格好というものは、張り通したい意地というものは、どうしてもある。
それでも以前よりはずいぶん、肩肘張ることを止めた。カイトに子供っぽく我が儘を言い、甘えることもする。
たとえ昼の青年を望んだところで、カイトが少年の夫にも早く大人となれと願っているわけではないのだと、知ったからだろう。
むしろ子供のときには子供であっていいと、子供であってくれと、祈るように願い、愛おしんでくれているのだと。
それこそがなによりいちばんに、大人の側の、もはや決して戻れない側からの、手前勝手な望みの最たるものであったのだが――
「そもそも俺たちはカイト様にきちんと、指輪をひとつずつ、贈ってやったでしょう。夜からと昼からと」
「ああ…」
すらすらと、少年は述べ立てていく。
こうなってひとつ、利点というか、効能というかがあったとすれば、夜の少年もまた、よく話すようになったということだ。
なんとか大人として見られたいと背伸びしていた時分には、考え過ぎて言葉が詰まった。
しかし子供としてのびやかに振る舞うなら、甘えても良いと言うなら、さほどに言葉の不自由はない――
そういえば過去に遡ったとき、父親と会話する昼のがくぽも、同じころの年でありながらよく話した。
遠慮なく振る舞っていいなら、子供として思う存分、甘えるなら、気難しい年頃であったとしても、少年が言葉に詰まることはないのだろう。
将来にはきっと、昼の青年と同じく舌禍の塊となるかもしれず、――
しかしカイトは、ここの予測に関しては一旦、保留としていた。
可能性はあっても、『先は見通せない』。
呪いを掛けるためとはいえ、夫に深く触れたことで、カイトは予測のつかない、待つ愉しみを得た。
ともあれ、切れぎれでもなく、詰まりもしないので、少年がなにを求めているか、カイトにはすぐ、答えが与えられるようになった。
促され、カイトは自分の左の手を見る。左の手、薬指だ。
その付け根にあるのは、金属製の指輪ではない。がくぽが自らの力でもって刻んだ印――絡み合う、刺草と、藤蔓だ。それが指輪のように、薬指の付け根をぐるりと巡っている。
夜の少年が刺草を、昼の青年が藤蔓を、カイトの指に、それぞれの時間にそれぞれ与えた。
絡み合い環を描くふたつは始まりも終わりもなく、上もなく下もなく、平等に、公平に、カイトの薬指を彩り、巻き絡んでいる。
それぞれの特性と特徴とをよく表しながら、どちらも先んぜず、後に回らない。
譲らない、けれど夜昼ともに――