B.Y.L.M.
ACT9-scene9
「まあ、――そうだ、な。そう考えると、この状況は、よろしくない。な?」
「そうです。まったくもって、よろしくありません」
ようやく納得した様子のカイトに、がくぽは堂々、胸を張って言いきった。
カイトは突きだされていた拳を取り、くちびるを寄せた。軽く、薬指の付け根に当てる。
力を振るう前に確かめるしぐさだから、まだ刻まれるものはない。
「………やはり、なあ……」
そうやって夜の少年の具合を読み、確かめ、しかしカイトがすぐに刻むことはなかった。
くちびるを触れさせたまま眉をひそめ、上目に夫を窺う。
やってくれと言うならやるにやぶさかではないのだが、ひとつ、必ず断っておかねばならないことがある。
「――言っておくが、贔屓ではないぞ?贔屓ではないが……まったく同じものはやれないからな?『おまえ』は『難い』」
「『かたい』?」
どういう意味かと眉をひそめたがくぽに、カイトは再び目を伏せ、間近の拳を見た。
皮膚、肉、筋、血の管、骨、――そういったものであり、そういったものの、さらに奥深くだ。
本来、呪いによってつくられただけの、偽りの存在であるはずの『昼』をカイトが取り戻せた理由であり、南王がそうやると思いついた当初の、根本の望みから考えると、道理の通らない呪いのかたち――
そこに共通する、理由だ。
がくぽのなかには生来、『歪み』があった。
――それを『歪み』と称するのは、カイトには少々、抵抗がある。
それでももっともわかりやすく言うなら、『歪み』だ。
最弱種たる人間を父親に、種も不明ながら最強を誇る南王の血を掛け合わせた、その弊害であり、これこそがまさに正しく、『体質』というものだろう。
夜と昼とで『がくぽ』の性質、ないし特質、本質は、大きく変わる。
それはカイトの薬指に刻まれた『指輪』を見ても、明らかだ。
呪いがあっても『ひとつ』でしかない、『ひとり』でしかないはずのものが刻んだ力が、夜昼で同じかたちを取らなかった。
意図もせず、否、意図もしないからこそ刺草と藤蔓と、ふたつの紋様にはっきりと分かたれた。
夜と昼、抱える力の質がまるで違うことの、なによりの証だ。
カイトはこれまで、夜の少年と昼の青年とが、たびたび意見が合わず衝突することを、単に年齢差のためだと考えてきた。
しかしこれを見るに、おそらく違う。決して、それだけではない。
確かに年齢差により、さらに顕著となった面は否めなかろうが、もとより夜と昼とでは、考え方がまるで変わるのだ。
思考傾向を左右する、本質的な性質が変わればこそ――
「昼はやわらかい。柔軟性に富む。受容力が高い。ために、不慣れな私でも労なく『触れる』ことができた。対して、夜は難い。とにかく『かたい』。外からの干渉を受け付けず、撥ねつけ、容れない――『おまえ』は少し、誇っていいぞ。あの南王ですら、『夜』に手出しはできず、あんな中途半端なことを為さざるを得なかった」
「え……」
がくぽは瞳を見開き、固まった。次いで慌てたように、カイトに取られた拳へ目をやる。
ああいった『体質』を抱えていたというのに、がくぽはそこまで考えたことはなかったようだ。
否、概ね誰でも、そういうものだ。どうしてか肝心要のものほど、ひとにそうと指摘されてようやく気づく。
あのとき――南王が呪いを掛けた、初めだ。
南王は呪うつもりではなく、『がくぽ』をただ、『育てる』だけのつもりだった。
夜も昼もない。ただ『幼い末の子』を、だ。
自分で自分の身を守れるだけの年齢に、早く育てようと意図しただけだったのだ。
しかし失敗した。
末の子は『夜』と『昼』とがあまりにきっぱりと分かれており、しかも『昼』なら容易く触れられるものが、『夜』への干渉はことごとくが弾かれた。
どうあっても触れられない。さまざまに試したが、すべて失敗に終わった。
ならば諦めればいいが、南王にとって、そう容易く諦められる理由ではなかったようだ。
――トが、イクサ渡りのあの死にたがりが、ようやく望みしものを!!
あのとき、がくぽを守ろうとするきょうだいに、そう叫んでいた。南王ともあろうものが、悲痛な声であり、叫びだった。
それだけの思いでもって、南王は自らの子を歪めると決意していたのだ。
それで、諦めきれないものの、しかしそのときには手立てがなかった南王だ。
最終的にはもういいと、いわば、自棄を起こした。
とにかく『昼』だけでもと、ああいったかたちの『術』にし、結果、中途半端なそれは『呪い』と成った――
それによって息子が得る苦痛を、耐え続けなければいけない労苦を、人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた南王は、問題と捉えられなかったのだ。
問題となるものが違う南王は自棄を起こしても、幾年を経ようとも、末の子への干渉を諦めていなかった。望みの根本となったであろうものが、意味を失ってからもだ。
一度目に首を掻き飛ばした際に、がくぽが掛けられた新たな呪いなどがそれだった。削った背の傷を、癒えないよう止めたという、あれだ。
かつてなく激しく厳しい戦いによって消耗したことで、南王はあのときようやく、『夜』に触れる機会を得た。戦いの最中、追いつめられ、首を掻き飛ばされる間際ですら、訪れた絶好の機会を見逃さなかったのだ。
それで南王は咄嗟に末の子の背を削り、傷を留める呪いを施したうえで、翼のたね――とでも言うべきもの――を植えつけた。
そう、本題は翼だ。
傷を癒さないよう図ったのはただ、癒えて皮膚で覆われてしまえば、『夜』はもはや、南王の力を分けたものでしかない翼の発芽を赦さないと知っていたからだ。
そのために息子が耐えなければいけない苦痛も、南王はやはり、問題と捉えられなかった。
ただ望むまま、望むから、末の子に『力』を、最弱なる末の子に南王の子としてふさわしいだけの力をと、それだけ――
ひとの国に潜入させるため、一時的に止めた幼いころからの呪いを、南方に帰ってからも止め続けていたのも、同じ理由だった。
夜と昼と、体をつくり変えるために体を捏ねる際、同時にそれまでに受けた傷もまた、捏ねて埋め、治してしまう。そして治してしまえば、せっかく与えた翼は芽吹くことができない。
もちろんカイトは、そうとは知らない。
力足らずであったということもある。飢餓は埋まりきっていなかったし、いかに力強き『王の花』とはいえ、花としては咲き染め、未熟も過ぎる若輩に過ぎなかった。
だからカイトはあの日、ただ惨たらしい傷に衝撃を受け、傷を傷として留め続けるという、はっきり目に見えてわかった呪い『だけ』を、払ってしまった。
背を削って埋められ、発芽しかけていた翼のたねはそのまま、幼いころに掛けられ、一時的に止められていただけの呪いもまた、そのままに。
すでに翼を得ていた『昼』は、残ったたねも同化吸収して済ませてしまい、問題とはならなかった。
が、夜の少年の身のうちに残ったたねといえば、なまじ南王という、人智を超えた力をもととするために消えられもせず、しかし『夜』の『かたさ』を超えられもしないまま膿んで、苦しむこととなった。
夫に『それ』があるのが厭だという、漠然とした感覚を、『花』たる本能の警鐘を、もっと早くにカイトが突き詰めていたなら――
今回のことでたまさか、すべての呪いを跳ねのけられ、翼のたねも消えてなくなった。
それでも、夜の少年が痛み苦しんだ責任の一端は、カイトにもある。昼の青年の、明かすに明かせなかった懊悩もだ。
少なくともカイトは、そう考えている。
『知らなかったから仕方がない』のではない。
自分が知らないということを、ほんとうには知らなかったことが、なにより問題だったのだ。
カイトは無力ではなく、無知であったのだということに気づかず、判断を誤り続けた。
その結果が、すべて夫に返ったのだ。夫に負わせてしまった。
カイトはそれを、決して忘れない。
「ぁ、の……カイト、さま?そ、それ、そうなると、ど、どちらの、ほうが……」
自らの甘えと、それが引き起こしたすべてを改めて身に沁ませ、戒めとするカイトに、少年がおろおろとした声を上げた。
まさか『同じ』であろうと思っていた夜と昼とに、そこまでの差があったなどとは予想だにしていなかった。しかしそうまで差があるなら、もしかしてカイトの好む好まないも、分かれるものではないのか。
となれば――
問題はそこなのかというのが、カイトの正直な感想なのだが、とりあえずこれに関してはすでに、結論が出ていた。
「一長一短だ」
「いっ、………」
きっぱりとして揺るがない結論が出ているため、迷いもせずばっさり言ってのけたカイトに、がくぽが固まる。
カイトは拳から手は離さずともくちびるを離し、身を起こして少年を見据えた。
「そうだ、一長一短だ。まず『昼』だが、あれはな、とにかくやわらかい。それで私の為すことのすべてを、なんでも容れる。拒むということがない。が、それはな、『私』に限らない。『私だから』ではない。誰の、なんであっても、だ。私の夫であるのに、私だけのものであるのに、口ではそう言うものを、誰がどう伸ばした手もへらへらと容れて、ほとんど拒まない!!おかげで、誰が見てもわからざるを得ないような、あんな派手な結界を刻まないことにはおれなかっただろう!!」
「え、え、かぃ…、ぇえ、ええーーー………っ」
ほとんど怒号だ。憤懣やるかたなしと昼の夫を糾弾するカイトに、夜の夫は歓ぶべきか言い訳をするべきか、自らの取るべき態度を決めかね、ひたすら狼狽えた。
なぜなら夜も昼も、自分自身であることに変わりはないからだ。ただひとりの自分だ。しかして夜と昼とは反り合わず、頻繁に諍う仲でもある――
「対して『夜』だが」
「ぅっ、はいっ?!」
据えきった目を向けるカイトに、少年は思わず姿勢を正した。反射的に騎士礼を取ろうとしたものの、拳をカイトが押さえて離さず、それは叶わない。
そうやって怯えきる幼い夫に構わず、カイトはひたひたと続けた。
「そういった意味で、『おまえ』は難い。とにかくひたすら『かたい』。誰の干渉も弾く。誰がどう伸ばした手も撥ねつけ、容れない。よろしい――しかしだ。『誰の』であってもだ。おまえは『私』ですら弾く!私の夫であるのに、私だけのものであるのに、そう口先では言いながら、妻たる『私』の干渉ですら拒んで弾く!!おまえ、私がおまえの妻だと、ほんとうに理解していような?!」
「えええっ?!そんな、カイトさまっ!!」
――そこに疑いを差し挟まれるなど、とんでもない。
しかし事実としておそらく、そうなのだ。であればこそ、『花』として偽りなき、底深き愛情を求めるカイトが、こうまで激昂して責める。
とはいえがくぽに知覚できていることでもない。知らない以上、制御も考えたことがなかった。
否、そもそもこれは、制御できる範囲の話であるのか。これこそがまさに、生まれながらに持った体質、そのものであろうに――
取り返す手立ても思い浮かばずおろおろとする幼い夫に、カイトはこほりと咳払いし、すぐさま態度を改めた。
「――ゆえに、な?一長一短と言う。が、まあ、なんでもかでもでは、ない。かな?『おまえ』は自らにとって利と判じたなら、容れるだけの度量はある。たとえば私の癒しの力なら、よく効こう?利に敏いが、悪手は敢然と弾く。おまえはいい男だ、がくぽ。ゆくゆく、優れた為政者となろうよ」
「え、ぁ、はいっ!は――ぃ?」
褒められたと一瞬は浮上し、しかし憐れな身の上の少年は、すぐさま疑惑のなかに沈んだ。ほんとうにこれは、褒められたのであろうかと。
疑い深く、なにより弄ばれた仔犬の、恨みがましい眼差しを向ける幼い夫に、カイトはとろりと笑った。持っていた拳を引き、再びくちびるをつける。
「愛している、がくぽ、私の夫――私がこれから『おまえ』に刻むのは、『昼』に与えたものとは、違う。呪いではないが、さりとて『おまえ』にとってはことに、利ともならぬ力だ。けれど私が妻として、なにより夫を愛することの誓いであり、証立てだ。おまえもまた、私を妻として容れ、おまえのすべてで愛おしんでおくれ」
「カイト、さま……っ!」
与えられる言葉と、沁み入る想いと、愛を乞う『花』の、艶やかなうつくしさと――
呆然と、次いで陶然と見入るがくぽの体、少年の、左の薬指から左の半面にかけてを、やがて濃い緑が茎を、葉を、意匠化された勿忘草を優美に描きながら這い、伸びて彩っていく――