ふと過った、なにか――虫の知らせとか、そういった気配や感覚の話だが――に釣られて顔を上げ、がくぽは周囲に素早く視線を走らせた。

がりくった道

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なに変哲ない、いつものリビングだ。ダイニングを兼ねている部屋だが、マスターたちの趣味というかこだわりのなさで、基本的にソファに小卓のリビングセットで食事もなにも済ませる。

ために、食事専用の椅子にテーブルにといった、いわゆるダイニングセットはない。

おかげで、お世辞にも広いとは言えない賃貸のLDスペースでも、それなりに余白を持って暮らせる。

余白こそが最高の贅沢だというマスターに、がくぽも異論はない。居室は片づいているに限る。なにをするのであれ、まずは片づけるという手間もないし、余白を探してうろつく無為な時間も取られずに済む。

つまりその『余白』だ。

広く開いたスペースに、問題がいた。

なに変哲ない一般家庭の日常的なリビングに、異様に浮いた存在。

見て取るとほぼ同時に、がくぽの体が動いた。座っていたソファから立ち上がり、非日常空間へと足早に向かう。

「カイト」

「んっ、っん?!」

声をかけながら、がくぽは手を伸ばした。ひとり、顔を真っ赤にして奮闘していた相手の首――ゴルディアスの結び目一歩手前状態のネクタイに指を差しこむ。

幅といい、長さといい、ごく普通の寸法のネクタイだったはずだ。

――どうしてこうもまあ、複雑な結び目を拵えられるものだろう。

少々の疑問と、同程度の感嘆めいたものを抱きつつ、がくぽは自分に与えられた高い情報処理能力を遺憾なく振るった。結び目を分析にかけ、素早く解く。

ネクタイを元の、一本のまっすぐな『紐』へと戻すと、今度は中心線を整え、長さを調節する。

「プレーンでいいのか?」

「んんー……んっ!」

返る不明瞭な答えは、問いが理解されていないことを示す。

そもそもこの家の住人は、マスター二人という人間にロイド二人も含めて四人全員、普段はネクタイが必要な生活ではない。おかげでネクタイを必要とする服装というだけで、空間は非日常感を醸す。

要するに、ネクタイを結ぶということにまず、馴染みがない。『なんか結ぶもの』だという、『なんか』で認識が止まっているのだ。どう結ぶものかという知識や技術の習熟は、今ひとつ弱い。

ために、どうしたかったのかと、種類や名前を訊かれたところで答えられないし、予定やコーディネイトから要望を出すこともできない。

結論として先に見た、いわば『芸術的』な結び方だ。

見極めたがくぽは相手の全体に素早く視線を走らせ、状態を再確認した。さらにはログを漁って、これからの予定も確認する。

いったいなんの目的で、どうして着つけないネクタイなどをするのか――

ひとつ頷くと、がくぽは再びネクタイに意識を戻した。淀みなく、手が動き出す。

「ウインザーにしておこう」

「うぃっ」

「『ウインザー』」

「ぅい……ぃーーーん………」

なにかの機械の稼働音のようだ。

自分の仕様について一応の断りを入れたがくぽだが、想定通りの反応だった。なにがなにやら、まったく理解できないらしい。

構うことなく、がくぽは手を動かした。淀みもなく、結んでいく。

「ぷれー、ん。うい、う、」

「『ウインザー』」

「ういん、ざー」

がくぽの言葉を素直にくり返してから、首がわずかに傾げられる。

「伸ばせ。歪む」

「にこ?」

がくぽの端的な命令を聞いて首を戻しながら、これまた端的に過ぎる問いが投げられる。

問いを吟味する間を――補記すると、問いが端的に過ぎてわからず考えこんだわけではなく、わかったうえで、その答えを考えていたのだ――挟み、がくぽは首を横に振った。

「否、日常使いだけで、四、五種はあったはずだ。それに、パーティなどフォーマル用の特殊なものを…」

「さんっ……?!」

「否、三ではなく、四からご」

「さんっ………いっぱいっ………!!」

「………」

絶望に押し震える声に、がくぽは手を止めた。少々の空白を置いてからうつむくと、きつくくちびるを引き結ぶ。

情の薄い態度だから堪えようと思うが、どうしても笑ってしまう。

要するに相手にとって、ネクタイは記憶容量を割いてやりたいほどのお気に入りアイテムではない。

だから結び方を覚えるにしても、手間をかけず『三つ』程度に抑えておきたいのに、――

補足するなら、がくぽとてネクタイなど、滅多に必要としない。しゃべり口こそ古風な面はあれ、日常着はシャツにジーンズとラフなものだし、今日もそうだ。

しかも仕事着となればデフォルトの和風設定がものを言って着物、和装が多くなりがちだ。洋装にしても、ステージ衣装となればドレス紛いに派手なものが多く、ますますネクタイは遠い。

そうとはいえ、社会常識一般として基礎的なネクタイの結び方程度は覚えている。

種類の多さも知識としては理解しているが、実際に迷いなく結べるとなればそれこそ、三つ程度だ。

堪えてもどうしても笑いに歪みながら、がくぽは顔を上げ、くちびるを開いた。

「ひとつでいい、カイト。先に言ったプレーンひとつで、概ねの場はこなせる」

「なんで『ういんざー』?」

「俺は知っておるからだろう?」

「んんんっ………?」

どこか納得いかないように鼻を鳴らされたが無視し、がくぽは首元の三角にきれいなふくらみを持たせた形を作り上げた。

「ほら。これでオトコマエだ」

「……!」

でき上がりまで、ほんの一瞬だ。

表現に多少の誇張はあるが、本人がやっていたら永遠に仕上がらなかっただろうから、『一瞬』と形容しても過ぎることはないだろう。

幼子をあやすような言葉で完成を告げてやったがくぽに、まずは相手のまとう空気が綻び、華やぎ、明るく弾んで――

「ありがとう、がくぽ!」

無邪気な声音は、抱きつかれて耳元から。

この近さでは、少々聴覚が傷むような声のトーンだ。だが、それだけ強く謝意も伝わる。

「……ああ。なにほどのこともない」

抱き返してやりつつ、がくぽは微笑んだ。愛おしい気持ちが湧き上がる。

がくぽは湧き上がる想いまま、首元にしがみつく相手の頭に頬をすり寄せた。

カラーからわずかに覗く首の、肌の白くなめらかなこと。禁欲的ながら、艶めかしい首の筋の流れ。

がくぽと同じ年頃の成人男性体だが、微妙に骨格が細く、肉のつきも薄い体――

全身の感覚を抱きしめる相手に寄せ、それでも足らない気がして、がくぽは抱く腕にさらに力をこめた。後頭部を撫で、後ろ首をくすぐり、なめらかな肌感の耳朶にくちびるを寄せる。

「ん……っ」

くちびるが触れた瞬間、抱く体が驚いて跳ねた。大きく震え、がくぽにしがみつく手に力が入り、背に爪が立つ。

「カイト」

熱を含んだ声を吐きこぼし、がくぽはいっそうきつく、腕の中の体を抱きしめた。

想いが募り溢れる。

どうにも、堪えきれない。

それも仕様がないことなのかもしれない――懸命に自制を図りながらも狂おしく、がくぽは荒れる思考の片隅で諦念をつぶやく。

カイト――KAITO。

正式名称:芸能特化型ロイド/VOCALOIDシリーズKAITO。

男声型であるこのロイドとがくぽは、ロイドで男声同士でという、いくつかの荊垣を超えて結ばれた、恋人だったというのだから。