目を覚ましたら、記憶がなくなっていた。
それが、がくぽ――芸能特化型ロイド/VOCALOIDシリーズ神威、もしくは神威がくぽ――の現在だ。
曲がりくねった道
第1部-第2話
ある日目を覚ましたら、一部の記憶が欠けていた。
すべての記憶ではない。初期化をかけられ、全人格を入れ替えられたわけではなく、ただ一定期間の記憶だけがきれいに削除され、どこにもなくなっていた。
ロイド――機械であり、プログラムであるものの記憶で、記録だ。それが『削除』された。
人間とは違う。なにかのきっかけ、与えられた衝撃などでシナプス回路が形成され直し、記憶が戻る、蘇り、思い出すといった偶発性は期待できない。
削除されたものはもはや、永遠に失われたという意味だ。字義通り、文字通り、永遠に――
一種の事故だったという。
詳細ともあれ、その削除されて消えてしまった期間に、がくぽには恋人ができていた。らしい。
恋人の名は、カイト――芸能特化型ロイド/VOCALOIDシリーズKAITO。
がくぽと同じロイドで、同じ男声型で、同居人。
もともとがくぽが自分のマスターである纏屋火狩-まといやひのかり-、火狩と住んでいたのは、シェアハウスの一種だった。
シェアハウスといっても、一般に想起されるような共有部分は少ない。生活空間は、ほぼ独立している。
コンセプトシェアの一種で、シェア、住人が主に共有しているのは『スタジオ』だ。
このシェアハウスは、地上八階/地下一階建ての古いマンション一棟を、まるまる改装して提供された、大規模なものだ。
地階には音響スタジオを持ち、二階にはダンススタジオを保有する。
また他に、地階と二階それぞれに撮影用スタジオもあった。もちろん『場所』があるだけでなく、一定程度の機材も揃っていて、それらも併せて借りることができる。
ちなみに一階は、管理人室や共有の応接室、談話室などで、居住階は三階から上階だ。
そしてこの三階から上階の住人であれば、本格的に整えられたこれらの施設が、ほとんど無料で使える。
もちろん、居住者間での順番待ちや予約は必要だし、実際のところ使用料のある程度は家賃に組みこまれている。
それにしても個人や駆け出しの音楽関連業種者には、非常に有難い。
なにしろこれらのスタジオ代や機材代は、借りるたびに大きく金を食う。挙句、利用できる時間帯が限られているなど、各個別に制限が多い。
対してここなら、制限が非常に少ない。深夜であろうが早朝であろうが、空いてさえいればいつでも利用可能だ。
居住空間にしても、まずは防音と遮音とを徹底して作られているから、居室で多少の練習もできる。
なにより入居条件の第一が『音楽関連業種に就業していること・もしくは関連学校に就学中であること』だ。
いわば住人はすべて同じ穴の狢で、互いの生活や騒音にも、他より余程に理解もあるし、融通も利く。
そういったところに住んだうえで、火狩はさらに、居住空間においてもシェアできる相手を探していた。そのために、わざわざファミリータイプの広めの部屋にもしていた。
いわく、初期費用は痛くても、最終的には確実に得だからと。
その是非はともかく、ただ――
がくぽに残るもっとも『新しい』記憶によれば、同居人候補が見つかったと、火狩から聞かされていた。
「ツテから紹介されてな?おま今、同居人探してんべ?って。卒業したがっこの後輩らしんだけど、俺とおんなじボカマスで」
「女か」
「男です、はいっ、残念ッ!つか、ハウス単位シェアならともかく、ルーム単位シェアで、男女はないだろがっ!がくぽくんは、もちょっと常識学びましょうっ!」
「702号室」
「よそはよそ!ウチはウチ!てか702号室がなん?!んーな階も違う他所様のご家庭事情、すでにもう把握してんの?!ばっちこーいなの?!がくぽくんコミュ力どんだけ?!今後ともよろしくお願いします!!」
「では」
「それはそれのこれはこれっ!ベツバーラッ!大体こーいうがくぽくんとか、あからさまにアレなんがいて、女の子選ぶほど俺も危機管理意識なくないし、倫理観も低くないんだわ!あっち持ってるボカロも、ちゃんと男声って確認したしっ!!」
「それはどういう意味か、マスター」
「口だけ笑って目ぇ据わらせてマスターに迫んないっ!こわいっ!きれいこわいっ!!自覚してんならいいですからこーわーいーーーぃいっっ!!」
大体、そんなような会話を交わした。
そのときに、相手が保有する『男声ボカロ』がKAITOであるとも聞いた。
――記憶が、ある。
がくぽの記憶の『最新』はそこで、途切れる。
最終的に、決定した同居人と会った記憶はない。しかし、同居人はいた。
名前は狭霧狭曇-さぎりさぐも-。男で、がくぽのマスターである火狩と同じ学校出身の後輩で、ボカロマスターで、すでにずいぶんと暮らしに馴染んだ様子だった。がくぽにも。
そして、同居人の彼、狭曇が保有していた男声VOCALOID――シリーズKAITO、通称カイトだ。
ロイド草創期に開発され、現在まで生産が続いている。稀有にして根強い人気を誇る機種であり、仕様諸々から一般に、『旧型機』と呼称される機体だ。
『同じ男声型ロイド』といっても、新旧に類すればがくぽは新型に属するし、根本的に開発ラボが異なる。
同じだが、同じではない。
だが、同じは同じ――
火狩は、がくぽの『女性』に対する影響力や態度を危惧して、シェア相手を選んでいた。相手が持つロイドにすら、気を配っていた。
がくぽのなけなしの名誉のために補記しておくと、がくぽの『シモ』、女性関係がだらしないとか爛れているといった話ではない。
芸能特化型として少々気張り過ぎた――つまり非常に麗しく造られたがくぽの見た目と、主に設定から来る『弱者』に対する過剰な配慮が、誤解を生んだ挙句に修羅場に発展しやすいという、矛盾と二律背反と不条理を詰めこんだような話だ。
結局、火狩の懸念は正しく、そして気遣いはすべて無駄に終わった。らしい。
少なくとも、彼が自分の恋人であるというのは、そういうことに他ならない。
はずだ。が。
「いいよ、べつに?」
よりにもよって恋人の期間を失ったと伝えられたカイトは、とても不思議そうにそう応えた。
見知らぬ相手を見る――否、はっきり言おう。
むしろ疎むような視線を向けていたがくぽに対し、取り乱すこともなく、ただ不思議そうに小首を傾げ、カイトは了承した。
恋人が自分の記憶を、自分との蜜月の記憶を失ったことを、今は恋人ではないと告げることを――
淡白かつ、穏やかなものだった。過ぎて反って、あまりにも動揺がない。
拍子抜けするとともに、がくぽはようやく疑念を抱いた。これはもしかして、担がれたのだろうかと。
あまりいい趣味とは言えないが、記憶を失ったがくぽをからかうために。
あるいは――方向性が迷子も甚だしいが――この程度、深く気にするなよと、逆説的に慰める意図で組まれた、家庭内企画。
しかし。
「みる?動画。あるし。はめ、どり?」
「どいつだ撮ったおばかは?!」
「?『がくぽ』?」
「然もあろうな!」
――結論を言えば、だれもがくぽをからかっていなかったし、慰めてもいなかった。ただ、事実を事実として伝え、そのうえでカイトは動揺もせずに受け入れたのだ。
なんだ、このイキモノ。
『再会』後、数語を交わしただけのわずかな時間で、がくぽは震撼していた。心底から驚嘆させられていた。
否、ロイドを『イキモノ』とカテゴライズするかどうかは、未だ議論定まらぬことだがしかし。
なんなのだ、このイキモノ。
「ん?『カイト』?あ、えーと、うん。はい。『初めまして』?」
律儀に頭を下げられたりして、がくぽは完全に脱力した。
確かに彼と過ごした期間の記憶を失った以上、『初めまして』といえば『初めまして』ではある。
が、しかし。
「そういうことではないな………」
「ちがう?ん、やっぱなんか。むつかしいね、がくぽ?」
突然に――少なくとも『現在の』がくぽにとっては突然に――存在した『同性の恋人』という事実の衝撃は、すぐさま醒めた。
所詮、程度の低い衝撃ではあったのだ。
そもそもタイプ的な好みで、女性のほうが当てはまることが多かったというだけの、これまでのがくぽの選択だ。同性相手にさほどの抵抗があるわけではない。
なにより、改めて対する『カイト』というキャラクタの衝撃の前には、たかが同性であるとか、たかが同性が恋人であるとかいったことは、まるで大したことがなかった。
大したことがないと、思った。思わされた。
だからといって、では改めてお付き合いをお願いいたしますと申しこむには、さすがに至らない。
それでも聞かされた当初に覚えた違和感はもはや、遠いものだった。それこそ、記憶から失われたというほど。
『カイト』の前には、同性であることも、同性を恋人と選んだことも小さく、取るに足らない事実であるのだと。
がくぽはただ、確信した。