「がくぽあのね、……」

カイトの伸ばした手が、がくぽの頬を撫でる。

寸前で、がくぽは笑みを取り戻した。ただし、疲労と焦燥は隠しようもない。

がりくった道

1-7

カイトの手が頬を撫でた瞬間に震えてしまったが知らぬふりで、がくぽはただ笑った。戸惑う色を宿して見つめるカイトへ顔を傾け、額を合わせる。

「それはな、カイト。………人前では、言わぬようにな。ことに、女性の前ではな。止めておけ」

「………?」

カイトは瞳を瞬かせるだけだ。理解した空気がない。

焦燥はいとも容易く苛立ちに繋がり、けれどあまりに身勝手な怒りだ。勝手に過ぎる憤りだ。

がくぽは努めてくちびるを笑ませ、カイトと額を合わせたまま、瞳を閉じた。

「自分で言ったろう、『男の』と。あくまでも、男側の身勝手な願望で、妄想だというのが、一般の見解だ。女性は、己ひとりを求められるを好む。ともに見てくれる、見られる夢ではない」

「………そう、なの?」

ひどく不思議そうに、カイトは覚束ない口調でつぶやく。

今日に限ってはどうしてこうも頑是なく、聞き分けが悪いのかと、がくぽは堪えようにも堪えきれない憤りを湛えて瞳を開いた。

それほどに、カイトにとって大望であったというのか――たとえ仕事とはいえ、複数の女性を自分ひとりの懐に迎えるという、その状況が。

自分ひとりと愛し愛されるだけでは満足できず、数多複数の女性と付き合うほうがいいと?

よぎる考えを流れるに任せて止めずやり過ごし、がくぽはカイトの真意を探るべく、瞳を覗きこんだ。

近過ぎて見えにくいカイトの瞳が、それでも風吹く湖面のように揺らいでいることがわかった。吸いこまれそうだと、憤りも吸いこまれ吸い取られて、いずれはこの想いも――

「でも。言ったの、めーことルカルカ。だよおれ、知らなくって。『そうなの?』って。訊いたら、ふたりして、『そうなの』って。『願っても叶わないオトコの夢を叶えて上げるんだから、歓んで頂戴』って……」

「うちの子にナニを教えてくれやがるか、女郎共っ!!」

「ふぇっ?」

つい口汚く罵ったがくぽに、カイトが腕の中で小さく震える。

逃がさないようにと、腕の置き場だけは変えて天然の檻としつつ、がくぽは明後日に向かって牙を剥き出した。威嚇だ。だれ宛てのといって、『うちの子』こと、カイトに要らぬことを吹きこんでくれた一部の女声陣にだ。

どうせからかったのだろうが、相手を見てやれと言いたい。こんな幼気で純粋無垢な相手を汚すような真似、いったい胸が痛んだりしないものか。あの胸に生る、立派で重たげな双つの肉塊には、そんな繊細な感覚や感情は宿れないとでも言うのか。

――女声陣に対して失礼極まりない罵倒を思考の中だけで高速展開したがくぽだが、本人も無礼は承知のうえだ。それでも言いたいことが言いたいときというのは、どうしてもある。

非礼極まることは自覚しているので、ふたりに面と向かって言ったりはしないが、思うことは止められない。

補記するなら、がくぽはカイト相手に――自分と同じほどの年齢で、すでに二十歳過ぎの成人男性として設定されている――、『幼気』だの『純粋無垢』だのといった形容を使っているということに関しては、まるで無自覚だった。

違和感も不自然も感じず、そして思考の中だけでなく、口に出して言うことにもためらいはない。

そんなはずはないのに、だ。

過去に『自分』という男と付き合っていて、カイトが『きれい』なままでいるわけがない。

恋人として傍らにあって、清い関係のままでいられるわけが。

失われた記憶の期間の自分が、それほど潔白な、自制心の強い男だったというなら、それこそなにかが狂っていたのだ。道理で記憶も失うと、逆に納得する。

しかも、恋人関係を証し立てる動画があると言ったとき、カイトは『ハメ撮り』だと説明した。それがどういった状態で撮影されたものか、撮影するためにはカイトをどういった状態にしなければならないか、まさか考えるまでもない。

挙句、少々特殊な趣きを含むやり方だから、それまで可能なほど仕込んでいたのだと――

カイトはすでに、知っている。

知識だけでなく、実体験として、経験値として、幼気でも純粋無垢でもない言葉も、行為も、なにもかも。

たとえがくぽが記憶を失い、関係を清算しても、元には戻らない。

これだけは、決して戻らない。残る。

「がくぽ、も?」

「ん?」

頬を撫でながら訊かれ、がくぽは威嚇していた明後日からカイトに顔を戻した。

曖昧な問いだ。迂闊な返しをすれば誤解だけは山のように盛り上がっていくとわかるから、がくぽは首を傾げるだけに留め、カイトに先を促した。

カイトはほんの少しの間、口の中で言葉を転がす。転がして、戸惑いを含む曖昧な笑みでがくぽを見つめた。

「『夢』。ちがうのちがう。んだよね。おんなのこ。じゃないけど、がくぽ」

「………」

いかにも、がくぽは女声ではない――男声だ。仕事の必要があって女装すれば、これ以上なく美女に化けもするが、根幹が男である事実と確信は、揺らがない。

続けたところで端的な断片に過ぎながったカイトの問いだが、がくぽがそれ以上、説明を求めることはなかった。言いたいことは、わかったからだ。

わかったから、微笑んだ。でき得る限り、やわらかに。

「ああ。そうだな。違う――俺の夢は、ハーレムではないな。数多幾多、複数の相手に囲まれるより、唯一の愛する相手を、腕の中に抱きこめたい」

「ん」

抱きこむ腕を離せないまま伝えたがくぽへ、カイトは生真面目な顔で頷いた。頷いて、次の瞬間には花開く。

「いっしょ!!」

高らかな宣言とともにカイトは伸び上がり、がくぽの耳朶にくちびるをぶつけた。

突然のことに驚いて緩んだ腕から素早く抜け出ると、カイトは満面の笑みでがくぽへと手を振った。

「お仕事いってきます!」