曲がりくねった道
第2部-第5話
咽喉が、閊える。
言葉が、上手く出て来ない。
言わなければいけないことがあるし、言わなければいけないのに、のどが、つかえて、ことばが、つかえて、きちんと、おとに、こえ、に。
「めん、なさ、ぃ、すたー………ごめ、………さぃ、ぁす、たー………」
泣いているからだ。
泣き止めばいいのだ。
カイトは思う。
止められもせず、止める方法もわからないまま、瞳から大量の涙を流し、嗚咽をこぼしながら、考える。
目の前には、狭曇がいる。狭霧狭曇-さぎりさぐも-――カイトのマスターである青年だ。表情はわからない。カイトは今、滂沱と涙をこぼして泣きじゃくっているせいで視界が悪く、少し離れるともう、大事なだいじなマスターの顔ですら、見えない。
そう、大事で大好きなマスターだ。
狭曇はリビングのソファにへたりこんで泣きじゃくるカイトの前、つまりは床上に跪いている。
従属であるロイドの自分が大事にソファに上げられて、マスターである狭曇が、敷き物もない床上に、直に――
「ぁ、すたー………っ、めん、なさ……っ」
恐慌の材料だけなら、山ほどある。
山ほどあるが、そんな場合ではない。場合ではないが、涙は止まらない。
大体、こんな機能、必要だろうか。ロイドに――人間に従属する機械に、必要な機能か。
確かにカイトは――KAITOは、芸能特化型ロイドだ。うたううたに感情をこめ、時に語り、演じることが主たる役割のロイドだ。
だから『多少』の感情は、必要だろう。そこは認める。
ただし『多少』だ。あくまでも、色づけ程度の。
こんな、『マスター』との関係に支障をきたすほどの大波、必要ではない。いらない。余計だ。
考えて、カイトは拳をきつく握る。手のひらに爪が食いこむ。痛み。いつもより、鈍い。
体感覚の痛みが鈍いのは、それ以上に感情波から来る『痛み』が大きいからだ。
感情のほうが、思考のほうが、ずっと痛い。手のひらの皮が破けそうなほど、きつく固く拳を握って爪を食いこませても、それ以上に。
不要だ。
涙を止めるすべもわからないまま、カイトは憤激とともに断じる。
こんな感情、ここまで強い感情など、ロイドには不要だ。いらない。なくなればいい――
否。
もとから、なければよかった。
なければ――
「さぃ、ま、す………ご、………」
「カイト」
ソファにへたりこんで泣きじゃくり、ひたすら謝罪の言葉をくり返すカイトの手を、狭曇が取った。爪が食いこみ、今にも皮を破かんとしている、カイトの拳を。
床に跪いた彼は、幼い子を相手にしているように、泣きじゃくるカイトを下から覗きこむ。
「カイト」
「こら、なぃ、で……」
彼がなにか言うより先にと、カイトは懸命に口を開いた。
のどが閊える。閊えている。言葉が詰まって、膨れ上がって、出て来られない。苦しくて辛くて、全部の言葉を吐き出してしまえたらきっと楽になると思っても、出すすべがわからない。
どうしたら出て来るのか、自分がどうやって話していたのか、そこからもう、わからない。わからなくなってしまった。
わからない、思い出せない。けれど。
回らない、凍りつく舌を引き千切るように動かし、戦慄くくちびるを死にもの狂いの力で制御し、カイトは狭曇を見つめる。
「ぉこ、らなぃ、で、ます、………がく、ぽ。ぉこら、なぃ………で………」
「………カイト」
なにを言えず、伝えられなくても、これだけは言わなければ、伝えなければいけなかった。
カイトは『マスターっ子』だった。マスターである狭曇のことが、とても好きだった。
ロイドでマスターだからだといえばそれもあるが、それ以上に個人的な資質として、カイトは狭曇のことを信頼し、敬愛していた。依存していたと言っていい。
このマンションに引っ越して来て、だけでなくルームシェアによって同居人もできた。
結果、生活環境が激変し、対人関係も大きく動いた今、カイトは以前ほど狭曇に依存してはいない。ただしあくまでも『以前ほど』、昔と比べればの程度だ。
未だカイトにとって狭曇――『マスター』は、絶対者だった。
絶対者であり、価値観の多くを占める相手だ。
その彼に、カイトが初めて彼と同等程度に興味を示し、愛着を持った相手――恋人を、否定されたら。
その恋人との関係が終わりそうで、いや、きっとおそらく終わってしまっているのだが、そうだとしても。
「こら、なぃ、で………がく、ぽ。がくぽ、ぉこら………ぃで、ます………」
――動かない舌などいらないから、引き千切ろうか。
憤激とともに、カイトは考える。
閊えるのどなど邪魔なだけだから、潰そうか。戦慄くくちびるなど、マスターの顔も見えないほど涙をこぼす瞳など、まるで自由に動かせない体など――
「カイト。傷がつく。手を開きなさい。自分を傷つけるなら、ぼくは怒る」
「……っ」
狭曇の手はあくまでもやわらかくカイトの手を取り、口調も声音も普段と変わることなく、穏やかにやさしかった。『怒る』などと言っているが、そこに憤りの欠片も見いだせない。
命令というほどの強さもなく、けれどカイトの体は覿面に動いた。固く握っていた拳が緩やかに、だが確実に開き、皮から爪が抜ける。
痕を見て、狭曇は軽く眉をひそめた。
「一応、手当てをしたほうがいいかな……やっぱり少し、傷になってる。今はね、カイト。痛くないかもしれない。けど、あとでおいおい、痛くなるよ。その前に、手当てをしようね。させてくれるね?」
「ぁ、すたー」
なだめる物言いの狭曇に、カイトは首を横に振った。彼の求めを拒むなど、のどが閊えるどころの話ではない。このまま自然とのどが締まって、息絶えるかというほどだ。
それでもカイトは首を横に振り、止まらない涙で見えない視界を凝らし、あやすように覗きこむ狭曇の顔色を窺った。
「こ、らな、ぃ、で、がく、………」
怒らないでくれと。
がくぽを――恋人を。
恋人である自分の記憶を、自分と恋人であった記憶を失った相手を。
記憶を失った以上はもはや、恋人ではおれないだろう、恋人を――
怒らないと、約してくれと。
取り縋るように懇願するカイトへ、狭曇は笑った。小さく、いたずら気を含んで。
「あのさ、カイト?――もう一回、口説いてみようか。がくぽさんのこと」