「ははっ!!」

「っ」

明るい笑い声が耳元で弾けて、カイトは背筋を跳ねさせた。

がりくった道

2-12

肩に懐いていたがくぽが顔を上げる。

声だけでなく、表情も明るかった。多少の諦めめいたものは含んでいる。けれど抱える闇はなく、その笑みは明るかった。

「そうか。お主には筒抜けで、丸わかりか。お見通しだったか。道理で――否、そうか。なればこそか。怒るどころではないな、お主にしてみれば。恋人関係どうのどころでなく、そも『俺』が生きるか死ぬかの瀬戸際だ。気が急いたであろうし、生きた心地もしなかったであろう。愛すればこそか。今気がついた。俺は鈍いな。とろい。挙句なぜ怒らぬと筋違いに責めるのだから、救いようもない。阿呆極まる。己が情けなさ過ぎて、涙も出んわ」

「ぁ、く

――少々久しぶりに声を出したら、案の定で単なる名前ひとつがのどに閊えた。

そんな自分こそ情けなさすぎて涙も出ないというものだが、カイトは立ち止まりはしなかった。

不愉快なら叩くなりつねるなりしろとあらかじめ言われていた通り、がくぽの顔に手を伸ばす。頬をつまむと顔を寄せ、軽く勢いをつけて額を当てた。

「がく、ぽ」

――今度はもう少しまともに声が出た。きちんと名前が呼べた。

そしてそれ以上の言葉を出す必要もなく、察したがくぽは自分への罵倒を止めてくれた。

当てた額を楽しげに擦り合わせると、甘えるようにくちびるを食んで、離れる。

「悪かった。お主の恋人を腐すものではないな。お主が大切に、大事に愛する相手だ。俺も気遣わねば、失礼というものだな」

「ん………」

――つまりそういうことなのだが、微妙に腑に落ちない気がして、カイトは首を傾げた。

がくぽの言いようはまるで、赤の他人を評しているようだ。

カイトが大切に大事に愛しているのは赤の他人ではなく『がくぽ』で、それこそカイトの目の前にいる男で、記憶を失う前にも恋人で、悋気を抑えることを知らず――

カイトの体を時に乱暴に、しかし多くは優しくやわらかに開き、仕込んだ男だ。

旺盛な男だった。

ふたりきりでカイトを膝に乗せて、ただ語らいに時を費やせるような男では――

「が、くぽ」

「ああ」

呼べば、返事をしてくれる。声音はやさしい。やわらかく、愛情に満ちていると思う。

向ける眼差しもだ。情愛に溢れて慰撫されるようで、くすぐったい、落ち着かない気分になる。

この男が、好きだ。

やはり好きで――愛おしくて、離れられなくて、こうしている時間がなによりも幸福だ。

幸福だが、旺盛だとわかってもいるし、体を遣りたい。

なによりも、体を繋げることで得られる幸福感の頂を、カイトは知っている。カイトが知っている。

愛し合う相手が自分の中で極みに達する瞬間の、得も言われぬ優越感と満足感と、至福感と。

『がくぽ』にも早く教えてやりたいし味わわせてやりたいし、カイト自身が早く『がくぽ』を感じたい。

はず。

なのに。

「ぁ………」

「ああ」

思考が極まって言葉にならなくなっても、がくぽは頷く。頷いてから、なだめるようにカイトの背を叩いた。あやしながら自分へと引き寄せ、胸に抱く。

抱かれても、カイトの体は混乱に固まったままだ。抱き返すことも、縋ることもできず、抱えられても抵抗しない程度だ。

がくぽは構わず、中途半端な位置で浮くカイトの頭を抑え、自分の肩に預けさせた。そのままやわらかに、髪を梳く。

「つまりなカイト、俺はここのところ、――恋人に成ってからと、いうことだが………お主に責められぬことが、腑に落ちなくなっていてな。その疑問はもとより持っていたのだが、まあ、責められたくない気持ちが勝っていたゆえ、な。責められぬならいいかと、流してもいた。いたがな………うむ。要するにメイコの言った通り、『亭主気取り』というやつだ。気が変わった。お主を『俺のもの』としたことで、なにがしかの自信も得たのだろうよ。逆に責められて怒られないと、据わりが悪くなった」

「………」

慰められながら静かに吹きこまれる告解を、カイトは考えた。考えて、がくぽの肩に額を擦りつける。

「まぞ?」

「言うな。その通りだ」

疲れたように吐き出したがくぽは、カイトを抱えこんだまま後ろに倒れた。器用に体を捻ってベッドに横たわり、けれどカイトはがくぽの上だ。

新しいことが、積み重なっていく。

カイトの体が束の間、硬く強張ったことも気がついているだろうが、がくぽが腕を解くことはなかった。ただ、ため息のように続ける。

「挙句、小学生男子だ。幼稚なやり方で、なんとかお主を煽り、怒らせようとした。救いようがないにも程がある」

「………?」

ぼやかれて、カイトは眉をひそめた。小学生男子とがくぽとは、非常に遠いところにいるような気がする。どうやれば彼らが結びつくのだろう。

そもそも、煽って怒らせようとと言うが、自分はなにをされたのか。

――表情を見てもいないはずなのに、がくぽはそういったカイトの思考を軽く読んだ。

「『嘘つき』」

「っ」

跳ねた肩を、がくぽはなだめるように撫でる。

「正確に言えば、『違う』のだがな。違うと、わかっていたがな………嘘なぞ吐いておらんと、なにゆえそうも酷く当たるのかと、お主が切れてくれればこれ幸い。勢いに任せて怒ってくれるなら、手間が省けるよなあと……」

「………」

ぼやくがくぽの口調は、どこか呑気に聞こえる。

そういえばこの言葉に非常に悩んでいた自分がいたことを、カイトは思い出した。

だからと、怒るよすがもない言葉だ。否定しようもなく、状況はその通りだったからだ。

なぜならカイトはがくぽに好きだ愛していると告げながら、肝心の行為に及ぶとなると、手酷く撥ねつけ続けていたところだった。

旺盛な男だ。焦れるだろうし、よく堪えて力づくで押し切りもしないでいてくれるが、それにしても恨めしいだろう。ひと言腐したくなったとしても、責められる謂われはない。

と、思えばただ、自分のこの、統制の利かない体に悩んでいたのだが。

失敗したようだ。

がくぽの本意は、カイトを怒らせるため、懸命に知恵を絞った結果であり――

「……なんで?」

どうして怒らせたいのかと、カイトはようやく疑問を口に出した。

怒られずに済むなら、そのほうがずっとありがたいものではないのか。

たとえばカイトなら、最後のさいごまで怒られずにいたい。自分が悪かったならともかく、巻きこまれた事故で被害者で、さらに怒られるなど割に合わない。

いくらカイトが鷹揚だなんだと言われても、さすがに滅入る気がする。

顔を上げて覗きこんだカイトに、がくぽは笑った。諦念を含んで、肩を竦める。

「俺が怒るだけでは不足だからだ」

言って、がくぽは手を伸ばした。理解が及ばず見つめるだけのカイトの頭に触れ、短い髪を情愛をこめて梳く。

「俺が俺に怒り、叱り飛ばして罰するだけでは、不足でな。お主以外の部外者になぞ、口出しされる謂われはないが、……なれば逆にお主以外に俺を怒り、罰せる相手はおらん。しかしてお主は、この通りだ」

「………」

カイトは以前、言った。

なぜ怒らないのかと問うがくぽに、そうなって本当にいちばん怒るのはがくぽ自身だから、自分まで怒る必要はないのだと。

がくぽの怒りより激しいものはないのだから、むしろ自分はなだめる側に回らなければ。

あまりに繊細に組まれたがくぽの精神バランスは負荷に弱く、崩れやすい。それは複雑な感情を解析し、ものすることに長けはしたが、そのために最大の弱点ともなった。

がくぽは複雑で、繊細で、弱く脆く、複合的に言って、面倒くさい。

というわけで、

「まぞ………」

やはりこの一語に尽きると、カイトはがくぽの胸に戻りながら結論した。