曲がりくねった道
第2部-第11話
「落ち着かんな」
「ぅいっ!」
業を煮やしたようにつぶやかれ、カイトもさすがに首を竦めた。
気もそぞろで他ごとを考えながらの『謝罪』など、ないも同じだ。がくぽが治まるはずもないし、それであればなにもしないほうがまだ、誠意がある。
「ごめ……んっ」
首を竦めたまま謝ろうとしたカイトのくちびるを、がくぽのくちびるがつまんで行った。軽く触れて、すぐに離れる。
瞳を瞬かせて見つめるカイトに、気が治まらないはずの男はしかし、爽やかに笑った。どこか困惑を含んでもいる。しかしどのみち笑みで、比較するなら穏やかなほうだった。
その笑みまま、がくぽは抱えるカイトの腰をあやすように叩く。
「なにが気になる。言いたいことがあるなら言え。ぶつ切りでいい。単語でもいい。支離滅裂で、飛んでいようとも構わん。ただ、溜めるな。言え」
「………」
いちばんむつかしいことを言われたなと、瞳を瞬かせながらカイトは考えた。
なんでもいいから言えと言われても、そうなるとカイトはかえってなにを言えばいいのか、まるでわからなくなる。わからなくて混乱が募り、のどが詰まって閊えてさらに言葉が出て来なくなり、そうなるとまた焦って混乱してのどが詰まって閊えて以下延々。
結局今回もそうで、なにも言わず――言えないまま無為に時だけを費やすカイトに、しかしがくぽはまた、笑った。カイトの混乱が極まって恐慌状態に陥る前に、そうかと頷く。
「わかった。難し過ぎたか。否、そうだな。考えるまでもなく、今のお主には無理難題というものだ。赦せ。怒っていて意地悪をしたわけではない。赦せるか?」
「………ん」
訊かれて、カイトは慎重に頷いた。
がくぽ相手に怒るようなことでもないと思うし、ましてや『いじわるをされた』などとも、まるで考えなかった。だから本来的にはがくぽが謝る必要もないし、赦す赦さない以前の問題だ。
――といった一連の説明は、今のカイトにはそれこそ、難易度が高過ぎた。
だからただ、敏い恋人がなにかしら察してくれと、ひたすらに瞳を覗きこむ。
神妙な顔で見つめるカイトに、がくぽは目を細めた。愛おしくて仕様がないといったふうだ。見つめられただけなのに腹が疼き、カイトは落ち着かない気分で尻をにじらせた。
逃げ場はない。穏やかに振る舞っているようでもがくぽの手は変わらず、カイトを抱えこんで離さない。
「そもそも怒っても誤解してもおらんか」
「んっ!」
やはり気持ちを汲んで、代わりに言葉にしてくれた。
カイトは表情を開かせて頷く。あくまでも幻想なのだが、カイトの周辺には花びらまで舞い飛んだ。
喜色をあらわにするカイトに、がくぽは笑う。笑ってまた、カイトの腰をあやすように叩いた。
「だがな、うん。そうだな………まあ、達者であっても言いにくいことは、ある。が、まあ、言わねば伝わらぬし、俺がまあ、俺からまあ、うむ。言おう。言おうから、適当に相槌でも打ってくれ。気に障ったら、相槌は要らん。叩くかつねるかしろ。わかりやすいというものだし、今のお主にもそれなら、無理はあるまい?」
「………?」
珍しいほど、歯切れが悪い。言葉が迷子だ。
がくぽはおしゃべりではないが、まったく寡黙なわけでもない。語彙も豊富で滑舌もよく、なによりも今のカイトのように、発話に関しておかしな弊害を抱えてもいない。はずだ。
カイトは首を傾げたが、がくぽがこれからのやりようについて、それ以上の言葉を重ねることはなかった。
だからカイトは了承の証として頷く代わりに、がくぽへと顔を寄せた。軽く音を立て、こめかみに口づける。くちびるを辿らせ、最後に耳の上側を食むと離れた。
大人しくキスを容れてくれた男は、神妙な顔で腰を戻したカイトを一度、抱きしめた。きつく抱きしめて、すぐに離す。まっすぐに、見つめられた。
「お主は鷹揚だ。寛大とも言うが………気質が穏やかで、度量も広い。ゆえにな、ことほど難しいことだとは、わかっておるのだが………」
「ぷきっ?!」
手放しで褒められ、カイトは仰け反った。だから逃げ場はない。がくぽは変わらず、カイトを抱えこんだままなのだ。
先よりもさらによほどに落ち着かない心地に陥ったカイトに構うことなく、がくぽは一度、瞼を下ろす。
次に開いた瞳は気弱な色を宿し、カイトと見合った。いつも誇り高く天へと向くいぬ耳まで、しょげて垂れている。視覚の誤認識だが。
「俺はお主に怒られたい。怒らせたい……………怒って欲しい」
「……」
決して難しい言葉ではなかったのだが理解できず、カイトは空白の表情で瞳を瞬かせた。
まるで意味がわからない、理由に心当たりがないといった風情のカイトを、がくぽは予想していたらしい。
諦めを含んだ笑みを浮かべると、カイトの肩に頭を預けた。締め上げない程度に軽く抱いて、甘える犬のように額を擦りつける。
よくわからないまま反射で抱きしめ返してやろうとしたカイトだが、続く言葉に動きが止まった。
「怒る理由はないと、お主は言った」
ささやくように吐き出したがくぽの言葉が、いつの、なにについて言ったものか――
たとえ機微に疎いと言われるカイトでも、すぐに思い当たった。
がくぽが記憶を失い、ために恋人関係を解消した当時の――
怒らないのかと、がくぽはあの頃、何度もなんども訊いた。
こんな身勝手を赦すのかと、怒らなくていいのかと。
くり返される同じ問いに、カイトは辛抱強く、同じ答えを返し続けた。
怒る理由がないと。
あれが事故でがくぽの咎ではなく、好きでやったことでもない以上、怒る理由がわからないと。
そもそもきっと、それでいちばん怒るのは『がくぽ』自身だろうから、尚のこと自分が怒る必要がないと。
ここ最近、『復縁』してからはついぞ訊かなくなっていた。訊かれないから、カイトも答えなかった。
がくぽは変わらず、ささやくような声で口早に告げる。
「あれは事故で、俺の咎ではないからと。それが救いであったのは、確かだ。あの当時――戻って来た当時の俺には、お主のそれがなにより沁みた。有り難かった。怒らぬのかと訊きはしていたが、あの当時にお主にまで責められようものなら、………恋人関係にしがみつかれ、縋りつかれようものなら、まあ、……惰弱な話だとは思うが、それでもな。おそらくきっと、俺は自壊していたろう」
「ぅん」
否定もせず軽く頷いたカイトの、そのあまりに当然とした反応に、がくぽは口を噤んだ。
その沈黙数秒の間に、カイトも珍しく思考を回した。
この場合――男の矜持を立てるためにも、そんなことはないよと、否定してやるべきだったろうか。
しかしてまるで、『そんなことはない』ではなかった。可能性はゼロナッシングだ。皆無以上の絶無だった。少なくとも、カイトが認識する限り。
カイトはあの当時、ひどく焦っていた。非常に急いでいた。とにかく早く、この男との恋人関係を解消してやらなければと。
大好きだった。愛していた。まるで別れたくなどなかったし、これからも愛し合っていきたかった。
それでも、なるべく早く、急いで別れてやらなければならなかった。
機微に敏いと表現されるがくぽの精神構造は繊細に過ぎて負荷に弱く、通常でもバランスが難しい。実際、ただ一時期の記憶を失っただけでも、再起が危ぶまれるほどのダメージだったのだ。
ために、最低限の安定期に入るまでは家に戻ることもできず、ラボに預けられて集中メンテナンスを受ける必要があった。
集中メンテナンス中は、会えない。バランスを崩す可能性があるものは極力排除されるからだ。遠目から見るのがせいぜいだが、実のところ会っても意味はないというのもある。
その日の処置や対応によっては、一時期の記憶どころか人格自体が抜け落ちていることもあるからだ。
だから、帰って来たなら――また、同居に戻る、その日には。
これ以上の負荷によるダメージの重なりを避けるためにも、繊細に過ぎてバランスの難しいがくぽが生き延びるためにも、カイトは早く別れてやらなければいけないと、そればかり思っていた。
生きてさえいれば、どうにかなる。
狭曇がそう励ましてくれたように、生きていてくれれば、口説くことができる。口説いて、また恋人となることも。
けれど本当に、完全に壊れてしまったら、――