す、と。

切れ長のがくぽの瞳が据わり、その眼差しはほとんど冷酷といっていいほどとなった。

紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるが、感情が乗らずに凍える声を吐きだす。

「なぜ、マスターの手伝いをしているんです、カイト?」

とてもつごうよいぼくら

とにかくりんごが先、あとのことはあと。

「あ?」

なにをした覚えもないのに突然売られたけんかに、カイトが返したのは一語だ。理解不能、展開の変化に追いつけていない、ゆえに事態の打開策も対応策もない――

いわば、きょとんとしているだけのカイトへ、がくぽはもう一度、しかし今度はめまいがするほどゆっくりと、くちびるを開いた。

「カイトが、なぜ、マスターの手伝いをしているのかと、がくぽは訊いています」

――対して、今度のカイトの返しだ。

「コンセツテイネイな説明で、イタミイルな!」

天を仰いで吐きだして、揺らぐ湖面の瞳がますぐと、なんの感情もなくけんかを売ってきた相手を捉えた。

「いうほど、コンセツテイネイでもないけどなまわりくどいしゃべり方やめろ、がくぽ。いいたいことをまずいえ。それからネンチャクしろ」

ちゃきちゃきちゃきと、吐きだす。視線とおなじくことばはますぐでつよいが、いたみがない。怒り、忿り、憤り、瞋り、激するものがなく、むしろおもしろがるふうがある。

突きつけられたがくぽといえば、考えるような間を置いた。片手が上がり、なんの感情も刷かない瞳、その片方を隠す。

なんの感情も刷かないけれど、瞳の奥底のそこの底、だれにも覗けないほどのそこで、なにかがひび割れたような気がする、ひび割れたそれが万々が一にもあふれないようにする、しぐさ。

そういう一拍を置いて、がくぽは再び、口を開いた。

「マスターの手伝いは、がくぽの仕事です。がくぽの仕事を、カイトがとってはいけません」

さて――

ここですこしだけ、説明を差し挟もう。痛み入るほど懇切丁寧ではなく、あっさり簡単なものではあるが。

カイトとがくぽが対する場所、あるいはカイトががくぽにけんかを売られたのは、ダイニングだ。どこのといって、かれらの家の。

そしてカイトはここで、片手にナイフ、もう片手にりんごを持って、部屋のほとんどまんなかに配置したダイニング・チェアに腰かけていた。

そのカイトの左手側には、絵や文字でりんごが表示されたダンボール箱が三箱、積まれており、カイトの右手側には、水を張ったバケツが置いてあって、そこには皮を剥かれたりんごがぷかぷかと浮いていた。

ついでに説明すると、座るカイトの、おもに手前側の床には、剥かれたりんごの皮が散乱。

散らかしたのは、いや、剥いたのは、もちろんカイトだ。左手側のダンボール箱から皮を剥いていないりんごを取りだし、ナイフでざっざっざっと皮を剥いては床に散らし、剥き終わったりんごは右手側のバケツにぼちゃんと――

ぼちゃんと、投げこむ。

ダイニングの床は、水浸しだった。

剥いたりんごの皮が散らかるうえに、とにかく水浸しだった。

いや、バケツの下にはちゃんと、バスタオルが敷かれている。カイトにしても、この作業をカイトに――KAITOに頼んだマスターにしても、なんの対策も講じなかったわけではない。

しかし根源的、根本的な対策、そもそも満杯に張った水のなかに勢いよくものを投げこまないだとか、せめてバケツに汲む水を、被害を最小限にとどめられる量に抑えるだとかいう、そういった根幹的な対策は、ふたりして思いつきもしなかった。

それでもう、ひと箱めのりんごの、ほとんどの皮を剥き終えた今、バスタオルは吸水限界をとうに超えていたし、なによりくり返すが、『ぼちゃんと投げこむ』のだ。

水は床だけでなく、天井以外のそこらじゅう、バスタオルの覆える範囲をまったく超えて跳ね飛び、いたるところから、わずかにりんごの香る水滴をこれでもかと垂らしていた。

しかして先に、はっきりいえと突きつけられて告げたように、がくぽにとっての問題は、この惨状ではなかった。

自分がいれば、水を満杯に張ったバケツへものを投げこむようなまねも、いやせめて、被害を最小限にとどめられる量でしか水を汲まなかったはずだということも、あとは、剥いた皮を床に散らかさず、直接受け止めるごみ袋だって抜かりなく用意したはずなのにということも、すべて、がくぽが問題としたことではなかった。

問題は、ひとつだ。

「カイトの仕事は、がくぽをほめることでしょう。がくぽをほめて、甘やかすこと。だというのにカイトががくぽの仕事をとって、マスターの手伝いをしたら、だれががくぽをほめて、甘やかすんです?」

「…へえ?」

ひびわれが底にあってもがくぽの花色の瞳に感情は浮かばず、ゆえに凍えて冷たく、声とともに凍てついてカイトを責め、詰る。

そうやってひたひたと、感情も乗らずに詰められたカイトだ。

「まあ、べつに、おれとおまえ、どっちもマスターのロイドだろ。じゃあ、マスターの手伝いは、どっちがやったっていいってことで」

カイトの仕事は、がくぽをほめることです

歯牙にもかけないといったカイトの返しにいっさいめげることなく、がくぽはくり返した。淡々と感情もうすく、ゆえに酷薄に響く声で、ひびわれながらも感情の浮かばない瞳で、カイトをひたと見据えて。

「カイトの仕事は、がくぽを甘やかすこと。がくぽをほめて、甘やかすこと――それ以外に、カイトの仕事はありません。だから、マスターの手伝いは、がくぽの仕事です。カイトの仕事となり得ません」

諄々と、諭す。

いや、これは駄々だ。よく考えると、考えるまでもなく、『諭す』と表するほどのおとなげも、賢さもない。感情がうすく、抑揚もない平板な話し方であるため、瞬間、諭されているようにも響くが、ひたすら、ただ、駄々だ。

ただただ、駄々だ。

それで、駄々をこねられたカイトだ。そこまでもべつに止めるでもなく続行していたりんごの皮剥きを、ようやく、止めた。

止めて、うろんな目を、がくぽへ向ける。

「それ、おれ、ずいぶん、ひまそうだな?」

「手抜きはゆるしません」

ぴしゃりと、がくぽは返した。相変わらず声に感情は乗らず、淡々と、抑揚もない。そのぶん、ことばはひたすらつよかった。叩きつけられたもおなじに。

顔面を平手で打たれたように、カイトはきょっと首を引き、ぱちりと瞳を瞬かせた。

がくぽが容赦することはない。なぜならがくぽの声には、瞳には、感情が乗らない。刷かれることがない。『容赦する』という情け、感情の入る余地がない――

がくぽは容赦せず、揺らぐ瞳の揺らぎが止まるほどきょっとして見つめるカイトへ、つけつけと告げた。

「片手間で、がくぽが満足すると思うなら、カイト、認識を改めてください。がくぽは片手間に、よそみをしながら、流れ作業でよしよしされて歓ぶような、やすいロイドではありません。手抜きをすることなく、がくぽをほめて甘やかすことに費やしたなら、カイト……ひまなど、あるものですか?」

――このがくぽの問いに、カイトの答えだ。

「って、いうんだけど、マスターなんでこいつ、こうなった?」

からだを傾け、仁王立ちするがくぽの先、あるいは後ろ、ダイニングとキッチンとの通り道であるほそい隙間へ顔をやって、訊ねた。

そう、そこには今、ほとんどまさにちょうど、マスターであり、カイトにこの仕事を依頼した八船-やつふね-がキッチンの側から顔を出したところだった。

八船はカイトの問いにすぐは答えず、鼻をふごふごと蠢かせた。

そんなふうに今さら鼻を蠢かせるまでもなく、もはや家じゅうが、りんごの香りでいっぱいだ。

摘みたて新鮮なりんごがたっぷりと入ったダンボール箱が三箱も積まれ、そのうちひと箱はほとんどすべて、皮が剥かれた。剥かれた実は水に投げこまれてそこまででもないが、剥いた皮は床に散乱している。

さらにはダイニングの天井以外、床といい、壁といい、家具といい、皮を剥かれたりんごから果汁が染みだしたバケツの水が、そこらじゅうへ跳ね飛んでいるのだ。

逆に飽和して、もはやふごふごさせても、りんごが香っているのかどうか、わからない――

「りんごのアロマ効果は、リラックス。安眠効果――とか知っていると、ねむたくなってくる。たぶんプラシーボ効果でしかないんだけど、とにかくなんだか、そうじゃない?」

がくぽの問いに、カイトの問いに、八船の問い。

答えもないまま問いだけが重ねられ、一巡して、がくぽがまず、口を開いた。

「マスター、調理を始めた以上、途中で寝ることは推奨されません。しかしどうしてもとおっしゃるなら、がくぽが調理を代わります。マスターはどうぞ、寝室へ」

「うん、がくぽ。ありがとう」

感情がうすく、淡々と、抑揚もなく配慮を伝えたがくぽへ、八船はにっこり笑い、こころからの礼を返した。

にっこり、笑いながらキッチンから出てくる、その両手には、新たなバケツがある。満杯に水が張られているが、水だけで、りんごはない。

八船は慎重に、よたよたと、バケツの水をちゃぽぽちゃと、――

少なくともカイトよりはよほどましな量で、しかし結果はおなじかより以上に悪く、床の広範囲を水浸しとしながら、カイトの右手側に運んだ。

そう、――

いくらどうでもりんごを放りこんだだけで、こうまで部屋の床、すべてが水浸しになるわけがない。八船の『功績』は、決して無視できないものだ。

きっとこのあと入れ替わりで今度は、剥かれたりんごの入ったバケツをおなじようすでキッチンへ運んでいくのだろうし。

重さに耐えかねてどすんと勢いよく置いて、衝撃でひと際激しく水を跳ねこぼし、八船は腰を伸ばした。

すぐまた腰を撓めると、幼子でも相手にするかのようにがくぽを覗きこみ、軽く、首を傾げる。

「でも、がくぽ………――<マスター>は、調理を代わってもらうより、りんごの皮剥きをしてもらうより、がくぽにはこの部屋の、このダイニングの状態を、どうにかしてほしいと望みます」

「………」

請われて、がくぽの視線は自然、ダイニングを巡った。先に説明した通りの惨状の、今、さらに重ね掛けをされ、これからも、三箱分のりんごがすべて片づくまではずっと、延々えんえん怨々と積算されていくであろう、この。

この、――

覗きこめないほどの奥底の底にひびわれはあっても、あくまでも表面的には感情のない、ゆえにひどく絶望しているように見える花色へ、八船は浮かべる笑みをすこしばかり、困ったように歪ませた。

「いったら、難なんだけど…りんごの皮剥きは、だれにでもできる。がくぽでなくても、カイトでもできるし、マスターだって、できる。剥いたりんごを刻んで、煮こんで、ジャムにするのも、そう。うちの家族はみんな、そのやり方を知っていて、知っているだけでなくて、できる。そうだね?」

「…そうです」

同意を求められ、<マスター>に同意を求められたからという反射だけで、がくぽは返した。もしも相手が違って、もしもかれがロイドでなければ、決して同意などしたくなかったことだろうと、決して同意などしなかったろうにと、同情せざるを得ないようすでの、反射だった。

そんなロイドへ、八船は容赦なく――というより、加減を慮ってやれる余裕もなく、ダイニングを見回した。

「でも、『これ』を………このダイニングの状態を改善するというか、回復するというか、悪化させないうん、とにかく、そういうやり方がわかって、できるのは、うちでは、がくぽだけだ。だから<マスター>は、がくぽにはりんごの皮剥きより、剥いたりんごを刻んでジャムにするより、そっちの担当をこそ、あたうかぎり早急に、お願いしたい。です」

「………」

さいごのほう、さすがにばつが悪くてからだを縮め、小声となった八船を、がくぽは睥睨した。

実際にはただ、感情もなく見返しただけなのだが、流れであり、状況だ。なにより感情が刷かれない瞳は、なんであれ、ひと際冷たく映る。

その傍ら、となりで、マスターのいいように、ようやく部屋の全体を眺め回したカイトが、ひどくおっとりしたようすで、つぶやいた。

「ぅおうー………?」

もはやことばにもならず呻きながら、ぼちゃん、剥き終わったりんごを、『ぼちゃん』、無造作にバケツへぼちゃん、投げ入れる。

――それで、水滴が思うより高く、広く、飛び散るさまを見て、カイトは立ち尽くすがくぽへ瞠る瞳をやった。

「なんでこうなるんだろうな?」

「なぜ…で、しょう。ね………」

心底から、ふしぎそうに訊かれたがくぽだ。返すがくぽの声は感情が乗らず、しかしなにかがのどか胸かに閊えたようで、ことばはきれぎれだった。もしも感情や感覚が乗っていたならきっと、青息吐息とか、死に態と表せただろうに。

なんであれカイトが――KAITOが、そういった機微の些細にこだわることはなかった。わずかに呆然として、わずかに首を傾げたものの、すぐ、割りきる。

割りきれてしまうのがKAITO、カイトだ。

あれこれすべて、あっという間に割りきったカイトは、にっこり、満面で笑った。なんの感情も窺えないというのに途方に暮れて見えるがくぽへ、ナイフを持ったままの手を軽く、振る。

「じゃ、頼んだ、がくぽ。ちゃんとできたら、いっぱいほめてやるし、めいっぱい、甘やかしてやるから」

「はい、カイト」

今度のがくぽの返事も、反射に近かった。近いが、先のような同情を催すものではなく、どうしてか振りちぎるしっぽ、いぬのそれが見えた。相変わらずその表情にも眼差しにも声にも、感情はないというのに。

こころなし、撓んでいた背筋もぴんと、張りを取り戻したような。

がくぽはもう一度、改めて、ダイニングを見回した。見回しながら、数度、頷く。

「では、まず…新しいタオルと、桶を持ってきます」

「うん、がくぽ、ありがとう」

「よくわかんないけど、がんばれー」

こころからの安堵と、こころのこもらない応援とを背に、がくぽは足を踏みだした。

出ていく背を見送り、新しいりんごを取って、けれどすぐにナイフを当てることはせず、カイトはもう一度、首を傾げた。

剥き終えた大量のりんごと、表面張力が決壊している水の入ったバケツに手をかけた八船を、ちらりと見る。

「あいつ、なんで、ああなったんだろうな?」

問いは、くり返しだ。問いに問いで流し、答えもなく流された。

八船はバケツに手をかけた姿勢まま、持ち上げることはせず、ちらりとカイトを見た。心底、ふしぎそうな――

無邪気に揺らぐ、澄んで、透き通り過ぎて、逆に昏い湖面の瞳。

「なんともいえないし、なんとでもいえるし――カイトはどう、表現する?」

「おれ?」

またしても、問いに問い。

だとしても答えを求めることも、待つことすらなく、八船はバケツを掴んだ手に力を入れた。膝を曲げ、腰を落とし、下腹に力をためる。

「ふっっぐ、っ!」

「のぁあっ?!」

気合いとともに持ち上げたバケツからは、勢いとともにさらに水が跳ね散らかった。当然、八船もカイトもびしょ濡れだ。

いい香りでも水は水、いや、りんごの果汁が沁みているぶん、事態はなお、いっそう悪い。

だとしてももはや、なにも心配することはない――八船もカイトも、信じて疑うことはなかった。

なぜならがくぽがすぐ、戻ってくるのだから。