カイトとがくぽの部屋。自宅の、自室。
いるのは、カイトとがくぽ。ロイドふたりきり。
くちびるとくちびるが、重なる。
とてもつごうのよいぼくらは、
『好き』に、おぼれこむ。
ベッドを背に床に座るカイトへ、がくぽがなかば、伸しかかるようなかっこうだ。なかばであっても伸しかかるかっこうだから、カイトの頭はベッドで寝ていて、全身は、かろうじて座る形を保っている程度。
がくぽも、同様だ。
はじめは、カイトの向かいにきちんと腰を落としていた。けれど、伸しかかるようなかっこうとなった今、かれの腰はほとんど浮いている。
そう、『ほとんど』であって完全ではないから、逆に、心配になるようだ。こんな中途半端な姿勢、いくらロイドとはいえ、からだへの負担が大きかろうにと――
もしもギャラリがいたならしそうな心配も、カイトにもがくぽにも関わりがない。
なぜなら自宅の自室、部屋のうちにはカイトとがくぽ、ロイドふたりきりであって、ギャラリなど、いないのだから。
ギャラリもおらず、止めるもの、止める理由もなく、カイトとがくぽ、ロイドふたりのくちびるとくちびるは、重なる。
すでにいくどか重なったあとで、くちびるは互いに濡れ、朱を濃く、深くしている。それでも飽きず、まるで膿むこともなく、
「ぃやまてぁくぷぉっ、すと…ちょ、たまっ!」
――ほとんど、まともなことばがない。
それでもカイトの意図、制止の意思はがくぽに伝わった。だからといって奇跡や、【がくぽ】という機種の、神がかり的なまでの敏さによるものではない。
ことばと同時に上げたカイトの手が、実際にがくぽの顔をおさえ、押しのけたからというだけの。
「カイト」
――それで、がくぽが上げた抗議のための、呼びかけることばは、不明瞭につぶれた。実際の響きは、『ぁいto』に近い。
なにしろカイトはがくぽの顔面をがっしり、正面から鷲掴みにして、押しのけていたのだから。
おかげでカイトのてのひらにはがくぽのくちびるの、わりとはっきりした感触があり、いわば、口を塞いだにも等しかった。
とはいえあくまで『等しい』の範囲であり、ほんとうに口を塞いだわけではない。であればこそがくぽも、抗議の声を上げることができたわけだ。
ただしいつものごとく、がくぽのその声にも口調にも、かけらの感情も含まれているように聞こえなかった。ゆえに、ただ名を呼んだだけで、具体的な要望までは出されていない現在、あれがほんとうに抗議であるという、確証もないわけだが。
しかしたしかなことも、たしかにあった。
かれが話すと、押しつけたかっこうのカイトのてのひらを、くちびるがかすめていく。
ここまでのキスの余韻もあるのだろうが、そのたびに、カイトの全身にはなんともいえない掻痒感が走り抜ける。
これはたいへん、なんというか、よろしくなかった。
カイトはふるえあがり、無慈悲に、容赦もなく掴んでいたがくぽの顔面から、ぱっと、手を離した。
もちろん、ただ、離したわけではない。すこし、背後へと押しやるようにして、未だ、節度ある距離を保ちたいという主張はしたうえでだ。曰くの『節度』の距離が実測、どれくらいであるかは、常に個人の判断に委ねられているとしても――
とにもかくにも、節度ある距離をとったうえでだ。カイトはわざと背を撓め、ことさらな下から目線で、がくぽを睨みあげた。
「いやおまえ、しつっこい………しつっこいんだ!キスだけで、ええ?ああもう、ほんと、キスだけで!」
――すくなくとも先よりは、ことばはことばとして成立していた。多少の舌足らずはあれ。
とにかく溜まり溜まったもの、つのり積もったもの、ぱんぱんに膨れあがって破裂寸前のものをまずは吐きだし、カイトは一転、しょぼんと肩を落とした。
しょぼぼぼんと肩を落としてうなだれたから、結局、先と同じの、ことさらな下から目線だ。けれど揺らぐ湖面の瞳に浮かぶ木っ端はまるで違って、カイトは悩ましく吐きだした。
「おまえ、がくぽ――……………がくぽ、おまえ、ほんと、なんで、………キス好きか」
ことばがことばとして成立しても、文章まで成立するとは限らない。
あえて補足すれば、カイトが惑乱しているから、こうなのではない。KAITOあるあるだ。物難い旧型機であるKAITOだが、こと文章、文脈においては、まるで物難くない。だいたい常に崩壊している。
つまり、これでもし、カイトが凪ぎの時間の湖面のようなこころもちで、極みに平静であったとしてもだ、文章の構成は大差ないということだ。違うとしたら、あいだの空白時間の長短くらいか。
それで、こういう、めまぐるしいまでにゆたかな喜怒哀楽、情感たっぷりな相手と対する、がくぽだ。
かれもまた、いつもどおりだった。
感情が刷かれないために内心も計れない花色の瞳は凍ったように冷たく、つい今まで、あれほど熱心にくちびるを交わしていた相手へ向ける眼差しとは、とても思われなかった。
微動だにもしない表情は、訴えられたものがなにも響いていないとしか。
そういう酷薄なようすで、がくぽは紅を刷かずとも朱に濡れる――今は、先までのキスの影響で、いつも以上に朱が濃い――くちびるを、ゆっくり、開いた。
「カイト、違います」
その声には感情がうすく、抑揚もほとんどない。
がくぽは声だけでなく表情にも感情を乗せることなく淡々と、もはや冷淡に、いいきった。
「好きなのは、カイトです」
「………おれ?」
なにかしら突きつけられたものに目を白黒させ、カイトはちいさく、くり返した。
キスが好きなのかと問いかけて。
返ってきたのは、好きなのはカイトであるという。
ところでニホン語がもっとも難解であるということを説明するとき、よく挙げられる理由のひとつに、主語と述語の関係のあいまいさがある。
つまり、ニホン語は頻繁に主語を省くし、かと思えば逆々で、一文のうちに、主語と思われる単語を大量発生させることもある。あげく、述語との距離が遠い。ときに、主語と述語とのあいだにはやまのような修飾語やら接続詞やらが挟まれ、さらにますます、関係性をうすめ、あるいはこじらせていく――
そういった意味で、がくぽの答えは難解だった。
単語は、シンプルだ。文の構成も。
シンプルに過ぎた。
この答えは一見、主語と述語しかない、もっとも単純なつくりのように思える。しかし実際のところ、ほんとうに主語となるべきものは省略されているという、もっとも難解なパターンのひとつだった。
さらに難易度を上げるのが、主語となるべきものの候補もひとつではないということで、複数あるとなれば、まちがったものを当てはめる可能性も出てくる。
そしてまちがったものを当てはめれば当然、がくぽの伝えたかった真意も曲がる。
せめてがくぽが表情ゆたかで、あるいはわずかでも声に情感を乗せるなら、不足などかるがるに補ったことだろうが――
「……………………………おれ、が?」
しばらく考え、しばし考え、けれどカイトがようやく絞りだせたのははじめと同じ、なにも解決しない、なにも進んでいない、なにも返せない単語だった。
カイトも自分で、わかっている。徒労もいいところだと。こういったことは、KAITOがもっとも苦手とする問題のひとつなのだから。
だというのに、ずいぶん、まじめに考えた。おかげでひどく疲労困憊した気がしたカイトは、再びベッドに背を預け、こてんと首をあおのけた。
その視界はすぐ、きらめきに昏くなる。
がくぽだ。
「カイト、時間です」
「あぇ?」
床に膝立ちとなったがくぽはベッドの、カイトの頭の両脇に手を置き、先とおなじかより以上に、伸しかかる姿勢となっていた。
頭の上で束ねられていても、がくぽの長い髪は伸しかかる姿勢とともに枝垂れて、カイトの視界を埋める。視界を埋めて翳らせながら、よく梳かれてつやのある髪は、まだあかるい外の光を受け、まぶしいほどきらめく。
昏さとまばゆさのコントラストに、カイトはつい、瞳を細めた。
そのカイトへ、がくぽは身を落とす。
「がく、っ!」
さすがにこの次の展開に思い至り、わずかに慌てたカイトへ、そのくちびるに、くちびるを重ねる、寸前。
「標準時間において、『ちょっと』はじゅうぶんに、十二分に、経過したと判断しました、カイト。ゆえに、再開します」
きっぱり告げて、ふわりとついばみ、そこでなにか思い立ったように、がくぽは離れた。大きく波立って見つめる湖面の瞳を、霜ついた花色は揺らぎもせず、ますぐに受け止め、返す。
「カイト。がくぽは実によく『待て』をしたものだと思います。だからカイト、がくぽをたくさんほめて、たくさん甘やかして、まったく構わないですからね?」