とてもつごうのよいぼくらは、
『1回』を定義する。
アイスの『ひとつ』は、わかりやすい。ひとカップ、一本、ひと袋、一個――
もしもむずかしくなることがあるとしたら、箱売りアイスだろうか。『ひと箱』とするか、あくまでも中身勝負でひとカップ、一本、ひと袋、一個で数えていくかという。
しかしどのみち、さしたる問題ではない。
すくなくとも、今、かれらの部屋で向きあうカイトとがくぽが抱える問題、あるいは掲げた議題とくらべれば。
『キスひとつ』
これを、どこからどう、勘定するかという、定義するのかという、この問題とくらべれば――
ベッドに腰かけるカイトのまえ、床に敷きものもせず直に正座して対するがくぽは、目線こそ下だったが、それ以外のところはそう、下手に出ているわけでもなかった。
「カイト」
紅を塗らずとも朱を刷くくちびるを、がくぽはいつものように淡々と、感情が乗らないがために逆に、ひどくおっくうそうに開いた。
「そもそもがくぽはいつでも、一回につき一回しか、カイトとキスしていません」
「あっれだけちょー時間、べろべろぁむぁむちゅっちゅちゅっちゅしといてどのクチがいうって、だからそのクチだぁなっ?!」
おっくうそうであっても厳として主張されたカイトは、ベッドのうえであたまを抱えた。
――だから、ゆえに、問題は、まさにそこだ。それだ。いつまでたっても堂々巡りに、平行線に。
キス一回。
あるいは、キスひとつ。
アイスの『ひとつ』は、わかりやすい。ひとカップ、一本、ひと袋、一個――
こじれる可能性があるのは箱入りなど、まとめ売りのアイスくらいだろう。そのまとめ単位でひとつとするのか、まとめの中身をばらして数えるのか。
しかしどのみち、さしたる問題ではない。
今、かれらの部屋で向きあうカイトとがくぽが、あいだに横たえる問題とくらべれば。
だから、『キスひとつ』とは、どういう単位なのか。
なにを、どこからどうまですることをして、『キスひとつ』と?
そもそも、カイト――KAITOには、デフォルトであいさつのキスの習慣がある。大事なことだ。くり返そう。KAITOには、あいさつのキスの習慣がある。あいさつの。
二度ならず、三度くり返したので、これはすでに大事である以上に真実ということだが、KAITOは無節操な、淫雑なキス魔だから、やたらにキスを振りまくのではない。習慣として、キスが日常、親しんであるから、気軽に。
たとえば、おはようとかこんにちはとか、顔をあわせたらいうような、目があったら会釈するだとか、手を振る、笑みを浮かべる――
そういったものと同じ線上に、すじみちにあるのが、KAITOのキス、カイトにとっての、『キスひとつ』だ。
対して、がくぽだ。
【がくぽ】――ロイドとしては、KAITOなどよりずっと新しく、高機能、高性能の機種、機体。
が、そのなかみ、内面といえば、古風なサムライ気質。芸能特化型としてきらびやかに装い、軽佻浮薄と振る舞っても、基幹性質、基盤は、古風なサムライ。
ただ、古風なのではなく、ただ、サムライなのでもなく、『古風のサムライ』。
当然、キスがあいさつと同列に並ぶことなど、ない。並ぶならばない以前の問題で、『あいさつのキス』などという概念がまず、存在し得ない。いや、表面に触れるだけのキス、いわゆる、フレンチ・キスですら。
古風のサムライ、【がくぽ】にとって、キスとは口づけであり、舌もからめて唾液も交わし足腰も砕け、どちらかが泡を吹くまでやる、ディープ・キス、一択。
――いや、一択であることは、いい。これは、カイトも譲れる。
カイトのデフォルトはあくまでも『あいさつの』なので、『キス』というもののランクレベルがずいぶん、ずれているものだとは思う。思うが、そういったずれ程度、何歩であろうが、カイトは譲ることができる。
だいたい古人だって、五十歩譲ったなら百歩譲るのも同じだといっているし、三千歩譲ったら出稼ぎに行ったおかーさんが見つかるとかいうし、つまりいいことまみれなのだから、カイトはこれに限らずなんであれ、『譲る』ということに抵抗はない。
しかしだ。
しかしだ、ディープ・キス一択までは譲れるが、その一択しかないディープ・キスの定義が、どちらかが泡を吹くまで攻めたてるというのは、いかがなものか。
がくぽは一回のキスにつき一回しかキスしていないと主張するが、その一回とは、ディープ・キス。
そのディープ・キスの単位定義は、舌をからめて唾液も交わし足腰を砕いて、どちらかが泡を吹くまでで、ようやく一回。
いや、よりくわしく、こまかにいうなら、『どちらか』ではない。カイトだ。
カイトが泡を吹くまで攻めに攻めつづけるのが、がくぽの一択、ディープ・キスの流儀で、定義。
そしてまさか、あるいはまったく違和感もなく、当然のようにカウントは、一。
これでは格闘技だ。しかも戦闘狂がにおう。
ごほうびに与えるものであるのに!
「そもそも、カイト、考えてください」
あたまを抱え、どうにか通じるコトバを探そうと目を回すカイトへ、がくぽはすこしばかり改まった調子で切りだした。いや、『改まった調子』というのは、比喩に近い。なぜならがくぽはこれまでとどこも変わることなく、表情にしろ声音にしろ感情が乗らず、映すことなく、カイトと対しているのだから。
それでも、こころなし、正座する背筋を伸ばしたような雰囲気で、がくぽはカイトをその、感情が反映されないがために凍りついた花色でじっと見据えた。
「これまでカイトは、ごほうびのアイスをいくらでも食べていいと、いわれていました。ところが、ある日突然、ごほうびひとつにつき、アイスもひとつきりといわれたら――」
自分ががくぽへ提案したことを置き換えて考えるよううながされ、カイトはきゅっと、眉をひそめた。鼻のあたまにしわを寄せ、ことんと首をかしぐ。
「なあがくぽ、それってさ、おまえやっぱり、キス一回につき一回でなく、いっぱいしてたっていう」
「一連ですから、一回です」
感情のうすい花色が悪びれたり、気まずさを投映することは、やはりなかった。
なにも浮かばず、かたくふかく凍りついたまま、がくぽは正座したからだをカイトへと、わずかに乗りだす。
「誤魔化してはいけません、カイト。考えてください――その状態で、カイト。カイトはこれまでどおり、良いふるまいをつづけられますか。これまでとまったく変わることなく、おなじように…こころにまるで、かかりませんか。ごほうびは、ひとつになったのだと」
「うん、ゴマカしてんのはおまえだけどな、がくぽ」
ぴしゃりといい放して、しかしカイトは改めてあたまを抱えた。
たしかにがくぽの話には誤魔化しもある――が、同時に、より以上に、必死さがある。そしてその必死さには、カイトもおおいに共感できた。
いくらでもいいといわれながら、自分の意思でもって、ひとつに控えるのと。
先に、はじめから、ひとつだけだと、制限をかけられているのと。
回数はおなじで、得るもの、得たものもおなじだというのに、片方には満足感があり、他方には消化不良の思いがある。もちろん、満足感があるのは、自分の意思で控えたほうだ。
いや、これがもしも、はじめ――ほんとうにまったく、ことのはじめのはじめから、ずっと、ごほうびはいつでもひとつと決められていたなら、思うこともなかった。
今回は、違う。
これは、違う。
はじめ、ごほうびは無制限だった。より正確にいうと、無制限であるとの宣言もなかったのだが、ひとつだけという制限もなく、暗黙の了解の結果論として、ごほうびとは、無制限だった。
それが、ある日、制限されるようになる。
あれこれと理由はあるにしても、制限が――なかった制限が、設けられる。
ごほうびのグレードが下がるのは、いい予兆ではない。もしかして、下がったのは相手にとっての自分の価値、愛情、比率といったものであり、ごほうびのグレードは釣られただけの、本来であれば目に見えない秤が、可視化されたものかもしれない。
カイトに、そんなつもりはない。
そんなつもりはないが、――そう受け取られることを、否定もできない。
それに、さんざん、くり返しはしたが、カイトが実際、泡を吹いたのなど、ほんの、はじめの数回程度のことなのだ。
がくぽの『キス』、その定義、あるいは流儀といったものが、そういう、戦闘狂がにおう、格闘技にも等しいものであると、理解するまでの。
そしてがくぽは揺るぎなく常に毎回そうであったから、機微ににぶいといわれるKAITOであっても、たった数回で、学習した。
だから泡を吹いたのは――吹きかけるまで付きあうはめに陥ったのは、ほんの、数回。
以降は、だいたい、カイトが先にキレて、キスは途中で切れる。『いつまでクチをクチだけでちゅっちゅしてるつもりだ』と。
いや、そう、切れるといおうか、『クチをクチだけでちゅっちゅする』のではなく、全身的なものに及ぶといおうか。
ごほうびだといっておいて、キスは途中で取り上げられるわけだが、よりグレードの高いもの、ランクアップしたとも、表現できる。
けれどキスをもしも、『一回につき一回』と制限した場合。
このランクアップも、滅多には行われることがなくなるかもしれない。
やはり、グレード・ダウンだ。それも、はげしく、著しく、いっそ、悪意のほどに。こころの離反こそ、確定的な。
だからカイトはそんなつもりではないし、――
「あー………ぁ。っか…そっかそか…」
そんなつもりではない、だ。
そう、いちばんの問題は、『そんなつもりじゃない』が積もりつもって積もり上がって、山を成したこと。
チリですら山を成せるのだから、すこしもチリではないこの想いであれば、なおのこと。
「数じゃない、なぁ…モンダイは、数だけど」
抱えるあたまがひと巡りして落着し、カイトは顔を上げた。
目のまえにいるのはうつくしい男、見た目はひどく整っても、感情を失って人形に戻ったロイドだ。
ネバってくれてよかったと、思う。
人形の従順さで、つごうよく容れるのではなく、自らの欲とのぞみに奮い立ち、しがみついてくれた。
よかった――
結局、感情が刷かれないために凍りつく花色を覗きこみ、カイトは笑った。すこし、苦い。敗北の苦みを帯びて、けれど笑う。
清しく。
「わかった、がくぽ。いいわ。『ごほうび』だもんな?一回でも二回でもいっぱいでも。回数なんか、なし」
きっぱりとした、いさぎよい宣言だった。
がくぽのかたくふかく凍りつく花色の瞳が、その奥底のそこ、瞬間、刹那、ほんのわずか、開いた。ような気を与えた。
カイトは些事を気にせず、というよりKAITOであるので、そんなちっこまいことなどまるで頓着することなく、「ただ」とつづけた。
「ただ、――ただ、ただし。ただし、三回に、一回」
先のいさぎよさがすべてだいなしとなる、カイトらしからぬ、未練がましい、いいだし。
凍りつく花色の奥底のそこをほんのわずか、あえかに揺らがせたがくぽが、くちびるを開きかける。
負けず、というよりだからKAITOであるので、機微や些事にかまうことなく、カイトは未練を、今日のこの、ことの発端を、ようやくがくぽへ告げた。
「三回に一回は、おまえから、進め。先に、――毎回まいかい、誘うのおれって。おればっかりって…フコウヘイだろ」
問題は、なにか。
キスの『一回』の、定義?流儀?
――それも、そう。
けれど、ではない。カイトがもっとも、がまんならないこと。
がくぽが、『そういうつもりじゃない』ことだ。
がくぽは、あわよくばや、なしくずしを狙って、格闘技の精神に則る(としか思えない)キスを、カイトに仕掛けるわけではない。
カイトが、ごほうびにキスをやるよというとき、それはデフォルトの、あいさつのキスの習慣のことが念頭にある。おでこやほっぺた、幼子をあやす親のように、親ではないけれど、上げるよと。
ただ、古風なサムライ気質であるがくぽに、あいさつのキスの習慣というか、概念がまず、存在し得なかった。
ましてやあたまに『ごほうびの』とつくなら、フレンチ・キスすらあり得ない。ディープ・キス一択。
ただ、ただし、ただ――
あくまでも、ごほうびに吊るされたニンジンは、キス『のみ』。
そういったところ、がくぽはやはり、古風なサムライ気質なのだ。
約束は、守る。
どれほど自分の身が煽られ、相手の心身を蕩かそうとも、吊るさげられたものがキスだけであれば――
キレて、キスを切るのはいつでもカイトだ。ごほうびをやろうといいだした、当の本人。
それで、クチとクチだけのキスを切り、煽られ、蕩かされた全身のケアに、移行する。
いつでも、カイトから。
――つまらないこだわりだと、思いもするけれど。
「先に」
つぶやいて、がくぽはめずらしく、すこし、悩むようなそぶりを見せた。相変わらず、表情は動かない。感情が刷かれず、花色の瞳はひたすら冷たい。
冷たいまま、花色はカイトを映した。ぽきんと、枝を折るように、返す。
「むりだと思います。――すぐには」
「おい」
「やり方がわかりません。【がくぽ】はやり方がわからないことをやるのが、非常に苦手な機種です」
「おーいぃ…」
がっくりと肩を落としたカイトは、その目のまえ、眼下で、がくぽの姿勢が崩れるのを見た。崩れるといおうか、ぴんと伸びていた背筋がゆるみ、腰が浮いて、片膝が立つ。
ずっ、と、およそ一歩分。
がくぽのからだが、まえに出る。
なんの気もまだ湧かず、ただ反射のようにふと、カイトは顔を上げた。うつくしい男がいた。いや、そのうつくしさのほんとうのところは、すこし、よく、わからない。
影になったからだ。
気がつけばカイトは、腰をかけていたはずのベッドにあおのけで倒れていて、どうして倒れたかといえば、がくぽが伸しかかってきたからだった。
「ぉおお、い?」
あれいつのまにと、カイトは瞳を瞬かせる。瞬きながら、伸しかかる男を見上げた。うつむき、影となったことでさらに冷たさを増す、芯の奥まで凍りついた、花色の瞳。
芯の奥まで凍りついているはずなのに、ひどくいきいきわくわくと弾んでいる――
「ですから、カイト、まずは練習につきあってください。【がくぽ】は練習すれば、たいていのことはできるようになります。なによりがくぽは、カイトと練習することはとくに、すぐ、うまくなりますから」
声もまた、感情が乗らず、うすく、抑揚もほとんどない。けれどいうなら、いわば、『息つく暇もない』。
淡々とんとんと畳みかけられ、カイトは未だ気おされたまま、気おされたままらしい様子で、こくりと頷いた。
「うん、ほんと…うまいこというな、がくぽ?あっというまに、上達したじゃん…」