自分の部屋、自分とがくぽの居室に入ったカイトは、ぎょっとして、足をすくませた。

がくぽがいた。

とてもつごうよいぼくら

上げの問題を議論しない

いや、それ自体はいい。先述のとおり、この部屋はカイトとがくぽ、ふたりの居室なのだから。

それでもカイトがぎょっとしたのは、がくぽのようすだ。

完全に、止まっていた。

そもそもがくぽは、うれしい、たのしい、かなしい、なんであれ、表情にも声音にも、感情が刷かれることがない。

たとえばなにかしら、だれかしらのシルエットだけを見たとしても、うかれているだのうなだれているだのといった、感情の起伏は窺えるものだ。

しかしてがくぽはその実物、本人を目のまえにしてすら、いっさい、ない。

伝わらない、あらわれない、ない、ない、ない――

人形に戻ったロイド。

それが、がくぽだ。

そんながくぽが、ベッドに腰かけたかっこうまま、まったく微動だにすることなく、かたまりきっていた。

瞳は開いているものの、感情を刷くことがないために、凍りつくというのも通り越してなにも映さず、なにも容れず、まるでがらす玉で、うつろに、空虚で、空疎。

かるくいうならフリーズ、重くいうなら、

「え、がくぽしんでんの?」

――ぎょっとして、思わずそう、声を上げたカイトにも罪はない。だろう。

とにかく今のがくぽは、すくなくとも、機能停止状態に陥った程度には見えた。そしてロイドたちのあいだでは、機能停止状態に陥ったことをして、そうと表現することが、慣例的に日常でもあったのだから。

実際、そう声をかけられて、数秒。

がくぽはほんとうに機能停止していたような、そこから今まさに復旧したばかりというような、ひどくぎこちない動きで、カイトのほうへ首を回した。

感情があろうとなかろうと、そこは変わらず紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるが、もったり、開く。

「………しんで、いません」

「うん、知ってる。ほんとにしんでたら、おれもいわない」

カイトの返しは、なにかが非常に倫理規定的になにかだったが、なにかがなにであると明確に指摘できるものは、ここにいなかった。ここ、カイトとがくぽ、ふたりきりの居室のみならず、この家の全体、家族構成すべてを鑑みてもという話だが。

とにかく、とてもかるく、あっさり返したカイトだ。驚きに、束の間すくませた足を進め、部屋に入った。

「そんで、がくぽ」

「そもそもロイドが生き物に類するかどうかというところが未だ、結論が出ていない議論ですから。まず生き物に類するかどうかによって」

「元気そうで安心するな、がくぽ!」

がくぽの声音は感情がうすく抑揚もなく、今では博物館などでわずかに耳にするだけの、旧式の機械音声の読み上げにも似ている。

そうやって淡々たんたん淡々と詰られたカイトは、まるでめげるようすもなく、反省の気配も微塵となく、堂々、返した。

いや、返しこそ開き直ったようだったが、カイトは自分で口にしたほど、安心してはいなかった。

ベッドに腰かけるがくぽのまえ、床にかるく、膝をつく。ぐあいの悪い幼子を相手にするときのように、下から顔を覗きこんだ。

ふらゆら、常に揺らぐ湖面の瞳が、かたく、深く凍りついて揺らぎもしない花色をふらゆら、覗きこみ、ふらゆら、分け入ることもできないはずの永久凍土の奥、おくのおく、ふらゆら、そのまた奥の、その底へ――

がくぽは勃起しました、カイト」

「ぼ、………っち、っ?!」

あれやこれ、問われるまでもなく理由を白状したがくぽに、カイトは噛んだ。

そう、噛んだのだ。聞きまちがえたわけではない。なにかしら、どこかしらへのいらない配慮の挙句、とっさに言いかえたわけでもない。

ごくふつうに、噛んだ。衝撃が過ぎたのだ。いやもう、これだけ間近から、これだけ奥底へ踏みこんだときに、されたい白状では、ちょっとなかった。

その瞳が、ふらゆら、つい、その、つまり、したという、勃起、そこへ、ふらゆら、向かいかけ――

「ヌィてラッシい」

非礼にも、そこを思わず凝視してしまうよりさきに、カイトはどうにか我に返った。それでびしっと、トイレ方向を指差す。

それはほんとうに、正しく、まさにトイレのある方角だった。これだけ動揺著しかったというのに、トイレの方面をまちがえなかったのだ!

カイトはこころのうちで、快哉を叫んだ。

これを逃避という。

がくぽは【がくぽ】であり、本来、機微に敏い性質だったが、しかし同時に、かれには感情がなかった。

感情があるからこそ覚える情け、そこから生じる容赦というものが、だから、かれにはなかった。

逃避をいっさいなきものとして、がくぽは目のまえに膝をつくカイトを、ただじっと、見下ろした。感情が刷かれることのない視線はひどく冷たく、むしろ見下すにも近い。

がくぽは淡々と、端然と、紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるを開いた。

「がくぽはカイトで勃起しました」

「ぅおう…」

つづく衝撃、なにかのコンボが極まったような気がして、カイトは呻いた。

カイトのかっこうか、言動か、はたまた、ジャックのまめの木レベルにたくましくご成長遊ばせすぎた妄想か、原因はさっぱりわからないが、KAITOではなく、カイトがきっかけ『で』、がくぽは催したのだという。

つい、ふらゆら、そこ、つまり、したという、――

「ぇえ、とセキニンモンダイ。かゆえにトイレがヌくのでゎなくおれがヌけ。的なくちでも手でも足でもしr」

「がくぽは『こう』なってから、勃起したことはありませんでした」

「………」

どこか、果てのないところへ爆走しようとしていたカイトだが、淡々とつづいたがくぽの告白に、どうにかブレーキが間にあった。

ふらゆら、荒れ狂っていた湖面がふと凪ぎ、がくぽを映す。

見つめあったところで、なにも返ってこない、返ってくるのは自分の感情ばかりの、人形に戻ったロイド。

いや、そう、――人形に戻ったはずの?

たとえロイドといえ、『できる』ようになっている男声にとって、勃起不全は相応に問題だ。ふつう、常態であれば。

しかしがくぽの場合、原因がはっきりしており、そして原因ゆえに、あまり問題にもなってこなかった。

うしなわれた感情に起因する、副次的、二次障害とでもいうべき、ただそれだけのことであれば。

ロイドであっても、勃起に至る基本のメカニズムはほとんど、ひとと同じだ。性的な興奮、感情が昂ぶることで、反応が起こる。

ということは、感情が動かなければ、なくなってしまえば、起こらない。起こらせようがなく、起こりようがない。

おなじように、勃起不全であることを気にするのは感情であって理屈ではないから、感情がなければ気にすることもない。原因がはっきりしているから、なおさらだ。

ゆえに、問題ともならない。

逆々で問題は『なにもない』から放置していたところに、逆々の逆々で起こった問題――

カイトは膝をついていただけのかっこうから、床にぺたりと、尻を落とした。ぺたり、がくぽのまえの床に座りこむと、のっさり、がくぽの膝にあたまを載せる。

あたまの先には、いわく、したという、勃起、その場所が、すぐ近い。

構うことなく、ぐりりと懐いて、カイトは視線だけ、投げた。こうなっても、どうあっても、感情を刷くことのないがくぽ、かたく、深く凍りついた花色の瞳へ。

ふわり、ゆわふわり、カイトは笑んだ。

「元気そうで、安心したわ、がくぽ」