広い棟梁屋敷の端、離れとなっている座敷に、がくぽは足を急がせた。

座敷の前に来ると特に声を掛けることもなく、無造作に障子を開く。

おにそしぁ・あめしすて-01-

「お屋形さま」

座敷の中に一歩踏み入れるのと同時に、甘い声が明るく弾んでがくぽを呼んだ。だけでなく、声の主は跳ねるように立ち上がると、がくぽの前へと駆け寄ってくる。

品よく淑やかな『姫』として、めのとが苦心して飾り立てているというのに、どうにも本人が、あまりに無邪気過ぎる。

とはいえ本当に幼い頃なら、駆け寄ってきたままに抱きついていた体は、どうにかこうにか自制して、がくぽの前でぴたりと止まった。

それでも、がくぽを見上げる瞳の甘さは変わることがない。

「いらっしゃいませ、お屋形さま」

「お屋形と呼ぶな」

逸る心を懸命に抑え、がくぽはどこか幼い面影を残したままの、やわらかな頬を撫でる。

わざとらしく眉をひそめると、わずかに屈んで背を合わせ、甘い光を宿す瞳をしっかりと見つめた。

「名で呼べと言うているはずだ、カイト」

低めた声で脅すように言うと、束の間、瞳を見開いた『姫』――カイトは、ほんのりと頬を染め、うれしそうに頷いた。

「はい、がくぽさま」

「……」

甘いあまい声。

幼い頃から、声変わりの時節を経てさえ、その甘さが損なわれることは、なかった。

がくぽは瞳を細め、およそ一月ぶりの逢瀬となる、己が育てた『姫』の姿に見入る。

美しいというより、愛らしいといった方が正しい見た目だ。

年齢からすれば美しいと言ってやりたいが、その無邪気な言動と表情が、どうしても実年齢より遥かに幼く見せ、結果として愛らしいという言葉に繋げてしまう。

『姫』として磨き上げられたカイトの容姿に不自然なところがあるとすれば、短く切り揃えられた髪――いかに武家の女性であっても、腰まで過ぎるような長い髪を持っているのが通例の世だ。

しかもカイトは表向き、『姫』として、がくぽに囲われている。

だが、その髪は肩まで届くことすらなく、襟足ほどの長さで揃えられていた。

めのとが苦心してかんざしなどを挿して姫らしく飾っているが、人前に出れば誰もが訝しむだろう――人前に、出るならば、だが。

「今日は如何なさいます」

久方ぶりの再会を歓び合う時間が過ぎたと見たところで、座敷に控えていたカイトのめのと――メイコが、静かに口を挟んだ。

緑なす黒髪が持て囃される現今において、彼女の髪は赤い。そのうえ主に倣ったか、肩ほどまでの長さで揃え、かんざしを挿すでもない。

身を包む着物も地味な色柄の木綿で、髪のことさえなかったら、目立つところの全くない女性だ。

いかにめのととはいえ、羽振りの悪くないがくぽの『姫』を預かる身としては、あまりに質素な形といえる。

そのうえ彼女は、笑うことがない。

カイトと二人だと笑うらしいのだが、がくぽがいると、常に凍りついたような表情で対する。

思うことがわからないでもないから、がくぽがその態度を責めたてることはない。むしろ、下手に愛想よくされたほうが、不気味だとすら思っている。

彼女がこういう態度だから、かえってがくぽも無意味に警戒することなく、自然と接することが出来るのだ。

逆説的な信頼にわずかにくちびるを歪めつつ、がくぽは目の前に立つカイトの頭を撫でた。

「………しばらくこちらで過ごす。酒肴を用意せよ」

「………」

撫でる頭が、びくりと揺れたことを感じた。軽く息を飲んだカイトが、そっと俯く。その耳朶が赤い。

メイコの方は、眉一筋すら動かすことはなかった。ただ、静かに平伏する。

「承知」

受けて立ち上がった彼女は、一身に愛情を注いで育ててきたカイトのことを一顧だにすることなく、座敷から出て行く。

その背を見送り、がくぽはカイトの後頭部を掴んだ。軽く首を逸らさせると、カイトは微妙な表情をしていた。

「………がくぽさま」

「寝て行くぞ」

「………」

気弱に震える声に知らぬ顔をして、がくぽは念を押すように言う。

瞳を揺らしたカイトは、後頭部を押さえられて俯けず、視線だけ下に落とした。

「………はい」

***

行燈を灯すことは止めて、がくぽは障子を開かせた。そろそろ満月だ。座敷の奥にでも入れば暗いが、そうでないなら十分な明るさといえる。

「がくぽさま、遅くなりました」

メイコが整えた膳を前に勝手に始めていたがくぽの元に、湯を浴びてきたカイトがやって来る。

がくぽは屋敷の主だ。真っ先に浴び、そして揃えられた膳で始めていた。

寝間着へと着替え、髪には櫛を通しただけでかんざしも取って楽な恰好となったカイトは、おずおずと座敷に入る。

がくぽは口をつけて空けたばかりの猪口を揺らし、身の置き所がないようにしているカイトを招いた。

「酌をしろ」

「………はい」

大人しく受けて、カイトはがくぽの傍らにやって来る。

へちゃんと座りこむと、膳の上から徳利を取った。差し出された猪口へ、慣れたしぐさで酒を注ぐ。

月明かりに浮かぶ白い肌を見つめ、がくぽは瞳を細めた。

滅多に外に出ることもない。肌理も細やかで青いほどに白いカイトの肌は、武家の姫というより、京の公家の姫を思わせた。

「………」

視線に気がついたのか、カイトが顔を上げる。瞳を瞬かせて、がくぽを見つめた。

「なんぞ、変わったことはあったか」

がくぽはカイトから顔を逸らし、肴の味噌をつまんで口に入れ、訊いた。

見はしなかったが、カイトが微笑んだのが気配でわかる。

「『ふこ』に、仔が生まれました。三匹………みんな、とても愛らしくて」

「ほう…」

顔を向けたがくぽに、やはりカイトは笑顔だった。おかしそうに、口元を押さえて身を折る。

「………あの子たちも、母親とおんなじで、みんな『ふこ』になるかもしれません」

「……それは」

眉をひそめるがくぽに、カイトは軽く首を竦める。けれどその顔は甘く笑み崩れたままで、庭を見た。

「母親が、鮒ばかり狙うでしょうねずみを一向に獲って来ないものだから、味を覚えないんです。池端にばかりいて」

庭の一角には、鮒を放した小さな池がある。

その方角を眺めてから、カイトはがくぽへと顔を戻した。

「落ちたら危ないから嫌なんですけれど、ふこが結局、あそこにばかり行くから……」

「いっそ、鮒を浚うか」

わずかに呆れを含んでつぶやき、がくぽは猪口に口を付ける。空けると、すぐさまカイトが新しいものを注いだ。

『ふこ』は、屋敷に勝手に棲みついたねこだ。

本来的には野良で、カイトが飼っているのではない。

警戒心が強く、決して人馴れることがないのが野良ねこというものだが、どういう手妻を使ったものか、カイトはこの気まぐれな相手と『友達』となることに成功していた。

そのふこだが、変わった嗜好の持ち主と言おうか、ねこにあるまじきで、一向にねずみを獲らない。主に狙うのが庭の池を泳ぐ鮒で、それゆえにカイトは、彼女に『ふこ』と名付けた。

そもそもねこが『ねこ』と呼ばれるのは、『ねずみを獲る』からこそだ。

鮒しか獲らないのだから、これは『ねこ』ではなく、『ふこ』。

がくぽには警戒して鋭い目つきを投げたふこを抱いて、カイトは笑いながらそう紹介したのだ。

「そうしたら、ふこは………っ」

言葉の途中で、カイトは口を噤んだ。きゅ、とくちびるを噛む。

傍らに座る体を抱き寄せたがくぽは、濡れて冷たい頭に顔を寄せた。

酒を飲んだ。

酩酊感は多少ある――が、理性を失えるほどでもない。しかし飲まないよりはわずかに、理性を捨てた言い訳が立つ。

抱き寄せた体は、束の間緊張に固まった。とはいえほんの少しの間のことで、すぐにがくぽへと凭れかかってくる。

膝を崩して体を預けてきたカイトに、がくぽは寝間着の上から手を這わせた。

「………ん、ぅ………っ」

撫でられるたびにびくりと揺れていたカイトが、堪えきれずに小さく呻き声を漏らす。

手が伸びて、がくぽの寝間着を掴んだ。

「がくぽ………さま」

甘さと熱を増した声が、強請るように、嘆願するように、名前を呼ぶ。

その声に、酩酊が深まるのを感じた。

酒などよりよほどに強く、そして性質も悪く、カイトの声はがくぽの思考を蕩かせて、深い酩酊へと誘う。

荒くなりかける息を懸命に堪え、がくぽはカイトを抱えこんだまま、帯を外した。

「ぁ………」

はらりと開きかける前を押さえようとしたカイトの手を取り、がくぽは華奢な体を畳に転がす。

「…………そなた、幾つになったのだったか」

武将として鍛えた自分と、『姫』としてたおやかに育てたカイトの体の発育が違うのは、当たり前だ。

それでもあまりの華奢さに思わず訊くと、カイトはわずかに瞳を伏せた。

「じゅうしちに、なります………」

「……」

儚い声で吐き出された年齢に、がくぽはくちびるを引き結んだ。

――出会ってから、干支を一回りしたことになる。

思い出しかけた幼い姿を封じ込めると、がくぽは遮るもののないカイトの寝間着を開いた。

発育が悪いにしても、薄っぺらい胸。

そしてなにより、下半身にある、男性器――

『姫』では有り得ないカイトの体を、それでもがくぽは組み敷いた。