「今回も、口吸いしてもらえなかった………」
濡れ縁に座り、足を垂らしてぶらつかせるカイトが、ぽつりとつぶやく。
でぃおにそしぁ・あめしすてぃ-12-
座敷の中で縫い物をしていたメイコは、小さくため息をついた。
濡れ縁に座るのはいい。いいが、足をぶらつかせるのは止めて欲しい。まるきり子供の所作だ。
どう言い聞かせても、周りに教材となる相手がいない。だからカイトは、自分の振る舞いがそんなにも子供っぽいのだということが、自覚出来ない。
メイコが口うるさいのはもはや本人の趣味だと思われていて、最近のカイトは小言の大半を聞き流す。
メイコはただ、カイトが少しでも『姫』らしくなるようにと、心を砕いているだけなのに。
カイトが少しでも艶やかな『姫』となり、本懐を遂げられるようにと――
考えて、メイコの瞳はわずかに翳った。
「………がくぽさま、ぜったいに、口吸いはしてくれない………。指は入れるけど、がくぽさまご自身は入れてくださらないし」
「………」
話している内容が内容なのだが、カイトの声も口調もあまりに無邪気で、幼い。
足をぶらつかせて不貞腐れ、カイトは本宅のほうへと視線をやった。
「カイトに、女に成れ、女に成れって言うのに、どうしてがくぽさま、本当に『女』にしてくださらないのかな……」
「カイトさま」
メイコは軽く咳払いして、ぶつくさとこぼすカイトに声を掛けた。
カイトは体を捻り、メイコを見る。
「ん?」
「………」
瞳に宿る光は無垢で、無邪気で――無知だ。
それは、カイトの罪咎ではないと思う。がくぽは徹底してカイトを隔離し、鎖し、籠の鳥と成した。
抵抗しなかったことが罪だとしても、カイトは笑って言うだろう。
――大好きなあの方のお傍にいるためなら、どんな罪咎でも、犯しましょう。
一途で、情が強く、迷いも躊躇いもない。それはすでに、歪つと同義で。
「………此度のイクサ、原因を知っていらっしゃいますか」
「………原因?」
静かに問いを放ったメイコに、カイトは瞳を瞬かせた。
首を傾げ、濡れ縁に足を上げる。メイコの方へと体を向き直らせて、じっと見た。
「………知らない。がくぽさまは、なにもおっしゃらなかった」
「カイトさまです」
カイトの答えと重なるように、メイコは言った。
カイトは瞳を瞬かせ、軽く身を引く。
「え?」
「ですから、カイトさまです」
「………」
重ねて言って、メイコは俯いた。止めていた縫い物を、再開する。
「………メイコ?」
固い声で訊く、カイトが畳を這って傍に来る。
そういう所作も子供だ。
こんなにも、本人は幼いというのに――
「諸国に、カイトさまの御噂が広まっているようです。神威家に、大層な美姫が囲われていると。その姿の麗しさたるや、傾城そのもの。声の妙なること、天女の如し」
「………は?」
深刻な顔をしていたカイトだったが、謳うようなメイコの言葉に、思いきり不審げな表情に変わった。
メイコの顔の前で手を振って、正気かどうかを確かめだす。
「メイコ?」
「噂です。『噂』をご存知ですか。見たことも聞いたこともない偽り事を、まことしやかに流布し、人心を狂わせる」
「………」
がくぽに引き取られて十年余、カイトはメイコとがくぽ以外の他人と触れ合ったことがない。
二人とも、口の堅い性質だった。
巷の噂話などで、時間を潰したことはない。
カイトは噂というものの恐ろしさにも、迷惑さにも晒されたことがなかった。
カイトを囲うことで、がくぽは散々に翻弄されたが――
「神威の若棟梁が手塩に掛けて仕込んだ、三国一の花だと」
「………」
きょとんとしたままのカイトから顔を逸らし、メイコは布に針を通した。
「是非にも手折って、己が物としたいと」
「っ」
出された結論に、カイトの体がびくりと強張る。
メイコは懸命に針を繰り、縫い物を押し進めた。
「………初めは、お屋形さまが妻として迎えられるということで、そのような話は出ませんでした。けれどカイトさまも、すでに十七――そのお年になっても、未だに正式に娶られるという話が出ません。それゆえに、最近諸国では、お屋形さまが手慰みの一環で、姫を育てたのだろうと」
「………」
「行く行くは、手塩に『仕込んだ』姫を、どこぞの領主との盟を結ぶために差し出されるのだろうと――」
「………っそ、んな」
押し出されたカイトの声は掠れて、哀れなほどに震えていた。
メイコは針を進め、一心に布を見る。
「………此度の相手も、盟を結ぶ証に、カイトさまを差し出せと申して来ました。お屋形さまはそのことに腹を立てられて、イクサを」
「………っ」
カイトの呼吸が引きつる。
メイコはわずかに視線を投げ、主の様子を窺った。ひきつけをを起こして倒れるようなら、介抱しなければならない。
しかしカイトは倒れるまでには至らず、やがて大きな瞳からぼろりと涙をこぼした。
「………がくぽさまは、そのようなこと、一言もおっしゃられなかった」
「………言えるはずもないでしょう」
そなたの身が競りに掛かっている、などと、籠の鳥にわざわざ告げるとしたら、それは愛情がない証だ。
相手をいたぶり、嬲るために飼っていれば、恐れを与え、絶望させるために、そう告げもするだろう。
だが、どれほど歪んで曲がろうとも、がくぽはカイトに対して並々ならぬ愛情を抱き、執着している。
手放すことなど、考えられない。
ましてや、他の誰かへと譲渡するなど――
「………此度の相手は、大して勢力のある相手ではございません。お屋形さまがお屋形さまとして、油断なく『鬼神』たる実力をご発揮になれば、軽く捻り潰して来られるでしょう」
メイコは再び縫い物へと目を戻し、針を通しながらつぶやいた。
傍らに座りこんだカイトは、小さくしゃくり上げている。
大きな声で、見境もなく泣くことはなくなった。
こういうところは大人になっているのかと、思う。
思ってから、苦い笑いがくちびるを彩った。
そうではない――カイトは元から、あまり見境もなく泣き喚く性質ではなかった。甘い両親だったが、そういったところだけは、棟梁息子としての自覚を持たせ、堪えさせたのだ。
男が人前で、みっともなく泣き喚くような真似をしてはならじと。
だからカイトは本当に小さな頃、どうしても泣きたかったときにはメイコと二人で蔵に隠れて、そこで彼女の胸に埋まって声を殺し、泣いていた。
泣いて熱くなる体を抱きながら、なんとしてもこの方を守らなければと――
「ですが、探りを入れて来ていらっしゃる方の中には、大層な大物も御座います。そうそういつまでも躱し続けは出来ませんでしょうし、ましてや此度のように、イクサでもって挑みかかるなど」
「………っ………っ」
こぼれる涙を懸命に拭うカイトを、抱きしめたいと思った。
小さな頃のように胸に埋めて、存分に慰めてやりたいと。
メイコが、育てたのだ。
確かに、がくぽもカイトの元へは訪れたが、あれは遊び相手のようなものだった。しかもカイトは初っ端から、がくぽに恋心を抱いている。
いかに小さいとはいえ、父や兄のように思うことはなかっただろう。
ひたすらに、背の君として。
カイトに食べさせ、健康を保ち、体を清潔にし、きれいに身支度を整えたのは、メイコだ。
悩んだり困ったりしたときに相談に乗り、がくぽには内緒の小さな我が儘を聞いてきたのも、メイコだ。
この無邪気な『姫』を、手塩に掛けて育てたというなら、それはメイコの仕事だ。
生きるためだった。
カイトが生きるためにも、そのカイトについて来た自分が生きるためにも、メイコにはカイトを『姫』として育てる以外の選択肢がなかった。
それでも、義務感だけでいたわけではない。
生きて欲しかったから、いつか幸せになって欲しかったから、心を掛けて懸命に育てたのだ。
本意でもない相手に、まつりごとの道具として添わせるために、育てたのではない。
カイトの望む相手と、カイトが最も幸せになる形で、添わせるために――
「あたしの『姫』を、なんだと思ってるの………っっ」
「…………メイコ?」
ぐしゃ、と布を折り畳んだメイコに、しゃくり上げていたカイトが、それでも不思議そうな目を向けた。
見返して、メイコはくちびるを噛む。
がくぽの考えなど、およそ見通している。
あの男は訳の分からない罪悪から自縄自縛に陥って、結局もっとも大事な、カイトの心を見落としている。
自縄自縛ゆえの自棄な行動で、カイトに触れながら、最後の一線を越えない。
なにかしら、策が必要なのだ。
その、頑固にして愚昧な縄を切り落とす――
「………メイコ。カイトが、ここにいるのは、がくぽさまにとって、悪いことになるの?」
「………っ」
放たれた問いに、メイコは瞳を見張った。
顔を腫れぼったくさせたカイトは、悲しみに歪みながらもどこか決然と、メイコを見ている。
まずい、と心が警鐘を鳴らした。
情が強いのが、カイトだ。
思うひとを一途に、何年でも思い続ける。
酷い扱いを受けても、平然と流してしまう。
すべては、あまりに強い情ゆえに。
「………カイトの存在が、がくぽさまのお邪魔になるなら」
「カイトさま」
先を聞きたくなくて、メイコは声を上げた。
しかし、カイトが口を閉ざすことはない。
「………カイトは、この命など、要らない」
「カイトさま!」
叫んだメイコに、カイトは笑った。
腫れぼったい顔で、それでも華やかに。
「メイコ。カイトは、がくぽさまの御迷惑になることは、しない。ここで自害なんて、したりしない」
「カイ……」
「がくぽさまの、もっともお役に立つ形で、この身は使う。………がくぽさまが、カイトをお仕込みになったのもきっと、お役に立てということだと思うから」
「――っっ」
そんなわけがあるか、とメイコは怒鳴りかけた。
あの男がカイトに手を出し、体を仕込むのは、他国に売るためではない。
自縄自縛ゆえの歪んだ愛情から、いもしなかった相手へと妬心を燃やし、劣情を高めればこそ、がくぽはカイトの体を開くのだ。
慕う色を映して懐く、愛らしい『姫』に心底惚れていればこそ、劣情を抱いて手を出すのだ。
その形が歪むのは、あまりに幼い頃から付き合い過ぎたせいだろう。
未だに幼く見える相手に、劣情を抱く自分を認められない――仇であり、形を歪め、隷従を強いる自分に、慕われることがあるはずがないと、強固に思い込んで。
「………がくぽさまが、お帰りになったら、申し上げる」
「………」
上がる息を呑みこみ、メイコは考えを巡らせた。
こんなことを言われたら、あの男の激情は堪えようがなくなり、きっと最後までカイトを求める。
本懐は本懐かもしれないが、その形では傷が残る。
しかも激情も過ぎれば、カイトはそのまま、刀の露と――
「………カイトさま」
「決めたから」
「………」
きっぱりと言うカイトに、メイコは静かに呼吸をくり返した。
強情で、思い込みが激しいのは、メイコの『姫』も同じこと。
わかりきった相手の心が、見えずにこんな明後日なことを言い出す。
メイコは何度か言葉を呑みこみ、それからようやく吐き出した。
「………構いませんが、帰って来て早々に申し上げなさいますな。まずは、労をねぎらい、疲れを癒されるが先です」
「うん」
メイコの言葉に、カイトは幼いしぐさで頷く。
ふと、自分の体を見下ろして、軽く撫でた。
「…………カイトが、本物の姫だったら…………」
「………」
言い差して、詮無いことだと気がついたのだろう。
カイトは言葉を呑みこみ、庭へと顔を向けた。
「………『初めて』はぜんぶ、がくぽさまに差し上げたかったな………」
「………」
メイコは俯き、乱雑に折り畳んだ布を広げた。
付けこむなら、そこだと思う。
カイトのその願いに、付けこんで――
どうにかして、がくぽの心を縛る縄を斬り落とす。
目を開かせてやれば、あの男の才覚なら、イクサにせずにカイトを手元に置く方法を思いつくだろう。
とにかく、どうにかして――手遅れとなる前に。
「………あ、ふこ」
つぶやいて、カイトは立ち上がり、軽い足取りで庭へと降りて行く。
見送って布に目を戻し、メイコは壮絶に顔を歪めた。
苛立った心情を表した針の目は乱れに乱れてぐちゃぐちゃで、もう一度縫い直さないことにはどうしようもなかった。