勝手口に置いて行かれた樽の中身を確認し、メイコは眉をひそめた。

水のようにしか見えない、澄み具合。

けれどにおいは、確かに酒。

清酒だ。

なんたる貴重品ぶりか。

おにそしぁ・あめしすて-14-

「メイコ、あのね、がくぽさまが……」

「……」

「メイコ?」

ぱたぱたと軽い足取りで勝手口にやって来たカイトに、メイコは胡乱な瞳を向けた。

「………お屋形さまと、なにかお約束を?」

「え?」

唐突な言葉に、カイトはきょとんと瞳を瞬かせる。

メイコは体をずらして、清酒の入った樽を差した。

「お酒です。なにか、イクサに行かれる前に、お約束を?」

「え………ああ」

きょとんとしていたカイトは、すたすたとメイコの傍らにやって来た。樽の中を覗きこみ、しかし特に感興を覚えた様子もない――当然だ。

籠の鳥が、酒の種類とその価値を知りようはずもない。それも、今までまったく興味を抱きもしなかったものならば。

「うん。イクサに行かれる前に、今度のところはお酒の名産地だから、カイトのお土産はお酒にするって。カイトが初めて飲むお酒なんだから、いいお酒にしようっておっしゃってたけど……」

言って、カイトは複雑な表情でメイコを窺い見た。

「………お水みたい」

「ええ」

がくぽがいつも飲んでいるのは、白く濁ったものだ。酒を水のように、こうまで透かせるのは、高い技術が要る。

その技術を持つところは少なく、作れる量もまた少なく、結論的に清酒の価値は非常に高い。

いつもながら、無意味なまでに過度な愛情だ。

伝わらなければ意味がないのに、価値もわからぬ相手に価値も教えないままに、こうやって贈り物をする。

めのとである自分が教えよということか、とわずかに逡巡してから、求められてはいないと断じた。

自分が相手を大切にしていることが、伝わればいいなどと思っていないのだ、あの頑固で愚昧なイクサ上手は。

己が考え得るもっとも価値のあるものを与えるけれど、それがどれだけ特別な扱いなのか、わかればいいと思っていない。

そして籠の鳥であるがゆえに、自分がどれほど他人と区別され、優遇されているかの比べようがないカイトは、がくぽが与えてくれる愛情度合いが抜きん出ていることに、自覚が持てない。

悪循環だ。

悪循環だが――

「これもお酒なの?」

「ええ、間違いなく」

指に乗せて舐めようとするカイトの手を、メイコはぴしりと払った。

いくら躾けても、どうにも稚気が残ったままなのが、メイコの『姫』だ。

――けれど、これは天が与えた最後の………。

払われた手を大袈裟に撫でさすってみせるカイトを、メイコは何気なさを装って見た。

「カイトさまは、お酒を召されるのは、初めてでしたか」

「ん……うん。初めて」

特に期待を煽られている様子もなく、カイトは素直に頷く。

そんなことは、これまでずっと食事の支度をしてきたメイコのほうが、よく知っているだろうとばかりに。

メイコは気づかれないように、こくりと唾液を呑みこんだ。

大いに賭けだ。

しかしもう、これに賭けるしか、手がない。

「………カイトさま、おねだりなさいませ」

「え?」

唐突としか思えないメイコの言葉に、カイトはきょとりと瞳を見開いた。

首を傾げると、感情の窺えないメイコをじっと見つめる。

「メイコ?」

「お屋形さまにです。――おねだりなさいませ」

「だから、なにを?」

伏せられた言葉が読み取れないカイトは、ひたすらに訝しげにメイコを見る。だからといって、そこで苛立つことも、居丈高になることもない。

穏やかで、鷹揚な、メイコの『姫』――

「『初めて』を、です」

「……」

メイコの言葉に、カイトは瞳を見張った。

どうにも稚気が抜けず、隠喩や遠回しな物言いを理解しないことが多いカイトだが、さすがにこれは通じた。

ふっと真剣な顔になると、感情を押し殺して死んだ目になっているメイコを、見据える。

「メイコ」

「カイトさまは『女』として育てられましたが、体は『女』では御座いません」

なにかしら言い諭そうとするカイトの言葉を遮り、メイコは声を潜め、口早にささやいた。

「カイトさまは、男です――女であれば『初めて』には必ず、破瓜が伴います。ゆえに、おいそれと手出しをしてはすぐにばれて、手付きものとして価値が下がります。しかしながら、男に破瓜は御座いません。一度二度、他の男を受け入れたことがあったとして、そのようなことは口を噤んでいれば、相手にわかりよう御座いません」

「………」

メイコの言葉に、カイトは徐々に徐々に瞳を見張っていく。

そのカイトへ、メイコは顔を寄せた。さらにひそめた声で、吹き込む。

「おねだりなさいませ、カイトさま――お屋形さまに、『初めて』を」

「………メイコ」

「『初めて』は、すべてお屋形さまが良いのでしょう――これまで、カイトさまはよく忍んでこられました。その程度の我が儘、申したところで悪いことなぞ御座いません」

「メイコ、カイトはちっとも我慢なんか」

それくらい、わかっている。

カイトにとって、がくぽから与えられることはすべて、他人からどう見えても『しあわせ』だった。

体を偽り、心を偽っても、押し込められて鎖されても、がくぽが与えることならば、すべてが――

わかってはいたが、メイコは知らぬふりで聞き流した。

「勝ちイクサでもありました。お屋形さまは殊の外、上機嫌でいらっしゃるでしょう多少無理なおねだりでも、今宵は聞き入れてくださいます」

「メイコ……」

「抱かれたくありませんか、お屋形さまに?」

「……」

その問いに、カイトはくちびるを引き結んだ。

メイコは気づかれぬように唾液を飲み下し、逡巡を覚え出したカイトに吹き込む。

「先にも申しました。男の体は、一度二度、他の男を経験していても、言わねばそうとはわかりません。多少馴染みがあったとしても、『仕込み』だけでそうとなるものです。ですから、カイトさまがお屋形さまを受け入れたことがあったとしても――」

「………」

唆し、誑かす言葉に、カイトがひどく揺れているのはつぶさにわかった。

メイコはすっとカイトから体を引き、樽になみなみとある酒を見つめる。

「…………でも、がくぽさまが……良しと、頷いてくださらなかったら」

その問いは、すでに心がこちらに傾いた証だ。

メイコはそうとわからぬように、そっと拳を握りしめた。

正念場だ。

「酒です」

「え?」

端的過ぎるメイコの示唆に、カイトはきょとんと瞳を見張る。

メイコは努めて表情をやわらげて笑ませ、カイトへと樽を示してみせた。

「まずは、酒を勧めます。――いい酒です。カイトさまのお口に合うかどうかはともかく、酒飲みのお屋形さまなら、その旨さがおわかりになるでしょう。勧められれば、歓んで口になさいます」

「………」

「いつも以上に酔えば、理性も軽くなります。そこでカイトさまがおねだりなされば、どんな無茶も聞いてくださる可能性が高くなりましょう」

いつものカイトなら、がくぽを謀るようなことは嫌だと言いもするだろう。

けれど今は、余計な決心で心が傾いている。

情が強い性質だ。

どうあっても筋を通したいと思う――のと同じくらいに、ずっと抱いてきた願いを叶えたいと、己を苛む。

揺れればいい、とメイコはくちびるを噛んだ。

揺れに揺れて惑い迷えば、それだけ酒が利きやすくなる。

メイコが理性を忘れさせたいのは、カイトのほうだ。

がくぽなど、カイトがほんの少ししなだれかかってやれば、酒を飲んでいようがいまいが、軽く落とせる。あれは常に、カイトに酔っているも同然だからだ。

これまで落とせなかったのはなにより、カイトに強固に理性があって、正気でがくぽと対していたからだ。

いもしない相手への妬心から、怒りに任せて体を開かれる。

正気のカイトは、いくら愛しい相手であっても、怯えと恐れがあって、『いやだ』と泣きもする。そもそもが、その手の知識をがくぽが一切与えようとしなかった。

メイコが内緒に仕入れたもので、ほんのさわりを教えただけなのが、カイトの『知識』だ。

怖いと、泣きもすれば拒みもする――そうされると、がくぽはそれ以上先に進めなくなる。

だから、カイトが理性を失くし、怯えを見せなければ。

「疑いも抱かせず、相手にしこたま飲ませるなら、ご自身もほんの少しばかり、嗜む必要が御座います」

「………」

瞳を揺らすカイトに、メイコはにっこりと笑って見せた。

「――けれど、あまり過ぎてもなりませんよ。酒は過ぎれば、男の機能を果たせなくさせます。寝潰しもいたしますからね、本懐どころでは御座いません」

打って変わっていたずらっぽく告げたメイコは、カイトがそれに対して言葉を発するより先に、軽く首を傾げた。

「それより、カイトさま……先ほどなにか、お屋形さまがとかなんとか。なにかしら、ご用事があっていらしたのでは?」

「…あ」

促されて、カイトはぱ、と手を口元にやった。

そうだ。そもそもは、がくぽからの用事をメイコに言づけようとして、来たのだ。

「あ、えっと、あのね!」

慌てるカイトに、メイコはひたすら微笑んでいた。