第10話-【いいたくて、いいたくないから、】
がくぽが煙草を吸うのは、吸い始めたのは、口を塞ぐためだった。
言いたくないが言ってしまいそうな、迂闊にこぼれそうな、そういった類の言葉を心理的な負担少なく、うまく呑みこむために、自分の口を塞いでおくための。
がくぽはロイドだから、タールによって内臓機が汚れるという影響はあれ、ニコチンはほとんど作用しない。多くの喫煙者が理由として口にする、脳みその働きが変わるといったような感覚は、一切ない。
煙を吸っているなと、せいぜいがそんな感想どまりだ。
言葉を呑みこむため、口を噤むための、自分宛てに、もっともらしい理由。
不自然でなく、感情を呑みこむのに――
それががくぽが煙草を吸う理由で、始めた理由の概ねだった。
もとより健全とは言えないその習慣を、さらに健全から遠い理由でがくぽが始めたのは、有為哉、がくぽのマスターの結婚後、婚姻によって家族構成が変わり、住環境が大きく変わってからのことだ。
有為哉に恋人がいることは、がくぽも知っていた。しかもおそらく自分がキューピッド、出会うきっかけのようなものだ。
有為哉と八桂月、二人の出会いは、各地さまざまで、さまざまな理由から開かれるロイドマスターの集いのひとつだからだ。
『出会った』とはいえ、どちらかといえば有為哉が押すことによって二人は関係を始め、そしてやはり有為哉からプロポーズすることで、新たな関係に踏み出した。
がくぽは鮮明に、覚えている。
ロイドの記憶形態が人間のそれとは違うにしても、色を違えたそれとして、意味の違う、形を同じくしないものとして、がくぽはその瞬間を鮮明に、はっきりと、強くつよく、記憶している。
――がっくんがっくんがっくん、やったぜぇえ!ハニーがプロポーズ、受けてくれたぁああッ!!ぜっったいフラれると思ってたのに、なんとニンゲンでは、あたしがいちばん好きなんだってッ!!だからおけーだって、ぎゃぁあああッ、うれしすぎごいりょくぅうううッ!!
はしゃぐマスターに同調することもできず、祝福もできず、がくぽはただ、見ていた。
否、それどうなんだと。大丈夫なのかと――
そもそも、有為哉が付き合っている男が相当な『カイトバカ』だという話は聞いていた。時として恋人である有為哉をそっちのけに、平然と自分のロイドであるカイトを優先させて、悪びれすらしないと。
そんな男に入れこんだ自分のマスターの趣味やなにかも心配だが、とうとうその男と結婚するという。
ニンゲンではいちばん好きってなんだ、ニンゲンでは、って――
言いたいことは山ほどあったが、言えなかった。
色を違えて、意味の違う、形を同じくしない。
プロポーズの成功を報告する有為哉は、ぴたりと当てはまる言葉を見つけられないほど、これまでに見たこともなく、――
こんなにうれしそうで、こんなに幸せそうなマスターを見たことなど、ついぞないと。
有為哉の言葉を借りるなら、『語彙力』というものだ。
けれど思って、思ったがゆえに、がくぽはなにも言えなくなった。
言いたいことは、山ほどあるのだ。数え切れず、言い切れないほど。
心配なのだ。幸せになってほしいのだ。だから心配なのだ。
そうだとしても言っていいこととそうではないことがあり、なによりも『言いたいけれど言いたくない』ものがある。
そうやって抱えたものが、ふとした瞬間に飛び出そうとするとき。
内に仕舞って溜めておくことが難しくなり、爆発しそうだというとき。
がくぽは煙草を咥え、咥えれば当然、くちびるがものを挟んで塞がるわけで、そうだとしてもまるで話せないというほどではないのだが、吸う煙と立ち昇る煙とに気を逸らし、ともに言葉を散らすのが、新たな習慣となった。
――ただ、言葉を呑みこむだけなら、他にも方法はあった。たとえば、まったき『大人』として抵抗があるにしても、飴玉をしゃぶるとかいった。
対してがくぽが喫煙を選んだのは、これがマスターの夫、いわば『元凶』である八桂月の習慣だったことも大きい。
納得できないものをなんとか自分に呑みこませる必要があるとき、ひとは相手の癖を無意識に自分の内に取りこみ、模倣し、同一視することで、それを果たそうとすることがある。
がくぽもそうだ。八桂月という、新たな家族、自分のマスターの今後に大きく関わるであろう存在を受け入れ、呑みこむために、まずは彼の癖を呑みこみ、己のものとした。
言葉を呑みこみ、癖を呑みこみ――
まあつまり、まとめるとしたら、いかにがくぽシリーズとしては滅多にない強靭な精神性を謳われた『がくぽ』とはいえ、さすがに『マスターの結婚』から始まる一連の、しかも怒涛のような勢いの環境変化は堪えた。
そういうことなのだが。
「だってさ、カイトはなにか、ないのか。つまり、まあ、――なにか、だな。なにか、こう『マスター』に。話が違う的な、そういう……」
「んー?」
なにかがとてもよく似たもの夫婦である八桂月と有為哉は、結婚した以上は新居を建てるべきという、非常に強固な思いこみもいっしょだった。
収入の未だ振るわない若年同士の結婚で、そうでなくとも式典に大金を注ぎこんだ直後だというのに、新居を建てるなど無謀もいいところだ。
しかして強固な思いこみを夫婦で掛けて倍々どんと跳ね上げた二人は、概ねなにが起こったか不明なレベルの資金繰りでもって自分たちの城、新居を建てた。
その新居には、半地下のスタジオまである徹底ぶりだったが、もちろんそのスタジオの主となるだろう、彼らのロイド二人用の個室もまた、用意された。
直視したい気がしない資金繰りの成果、おそらくこれから長い年月、夫婦に伸し掛かるであろうそれの元凶である個室の、自分の部屋で、がくぽは口に、すっかり馴染んだ煙草を咥え、けれど呑みこんでいた言葉を吐き出した。
いってもそれは、これまで呑みこんだ量に比べれば非常に微々たるもので、氷山の一角も甚だしかったが、しかしこれまでは一切、吐き出すことを赦さなかったことを、一角レベルであっても、吐き出すことを赦したのだ。
その意味の大きさには未だ思い至ることなく、がくぽはベッドを背もたれに、床に伸びるように座るという自堕落な姿勢で、口に咥えた煙草を揺らしていた。
背もたれというより、ほとんど頭置きというレベルにまでなっているそれにさらに頭を埋め、がくぽはそのベッド上に座る相手、マスターの結婚によって新たに『家族』となったうちのひとりである、カイトを見る。
「ないのか?ハチミツに、言いたいこと。もしくは、俺のマスターに言いたいこと……」
「んー……」
がくぽの問いに、返るのは上の空にも似た声だけだ。カイトの手は、がくぽの長い髪を弄っていて、春の湖面に似た穏やかな瞳は、今は少しばかり真剣な色を宿して弄る髪を見つめている。
けれどカイトが上の空なのは、なにかしらの作業中だからというわけではなく、言われたことを考えてくれているからだと、ここしばらく共に暮らすことで、がくぽもようやく見極めた。
低スペックゆえの、思考の遅さ。
だけが由来でもない、おっとりゆったりと流れる、カイトの空気と時間――
眠いなと、がくぽは口に咥えた煙草を揺らしつつ、考えた。眠いが、煙草が邪魔だ。吸わなければ良かったが、咥えた当初はこうなるとは思っていなかったのだ。
ならば常に手の届くところに置いている携帯灰皿を取って、煙草を突っこんで――
「えーっとね。『夫婦はなかよく!』?」
「……アレ以上、仲良くするのか?さすがにうざったいレベル超えるぞそれ」
「ええー………っと、じゃあ、んと?『うかつものですが、すえながく、よろしくおねがいします』?」
「『不束者』、『フツツカ』だカイト。というかそれ、嫁入りの挨拶だよな?なんでカイトがそれ言う。どっちに言ってる?」
「……………どっち?がくぽ?」
「ぶっっ!!」
自分自身でも今ひとつ吟味しきれないままに言葉をこぼしていたのだろう。非常に懐疑的な響きで吐き出されたそれは、確定した答えというものではない。
声音や調子からそれはわかっても、飛ぶ方向が方向で、がくぽはつい、咥えていた煙草を吹き出した。
自分の体に落ちて服に焼け焦げを作る前には辛うじて受け止めたが、もはや口に戻す気にはなれない。
「断定調で言ってくれそれ。俺に嫁入り?うん、断定調でかわいらしく、あと緊張感を持ちつつも甘ったれた感じで、色香たっぷり蕩けっぽく………」
「がくぽってたまに、マスター並みにむつかしいリクエスト、それもマスターとおんなじくらい、いっぱい出す……」
「失礼だな!」
軽く拗ねた口調で言うがくぽは、頭をわずかにずらし、またどことも知れぬ宙を見る。
カイトはその長い髪を弄りつつ、ほんのりとした笑みを浮かべた。
失礼といえば、カイトの『マスター』を評するがくぽこそ、ずいぶん失礼なことを並べている。
ロイドにとって『マスター』というものがどういう意味を持つか、それも関係が良好であればあるだけ、貶されることがどれだけ不快であるか、がくぽにはよくわかるだろうに――