第19話-【すべて世は、こともなく】
もちろん、爆笑するどころではないものもいる。
八桂月など、その筆頭だ。
つまりカイトが有為哉と、恋愛相談に乗ってもらっていたり、アレコレの勉強をいっしょにしてもらっていたのがいつで、どこかという話だ。
リビングで、つまり家族公共の場所で、実のところ、八桂月やがくぽもいる場でだった。
「んな下世話な『勉強』だったってンなら、止めたっつうの!てめえらがヤってたのぁ、『ただしい妊婦さんの生活講座』じゃねえのかよ?!」
瞼を赤く腫らした、つまり男泣きした後の八桂月の言葉に、ひたすら爆笑していた有為哉は、とても無邪気に首を傾げた。
「してたよ?いちじかんめ『女子の保健体育』?にじかんめ『男子の保健体育』?って、なんか、そんな感じ?」
言って、有為哉はまるで邪気なく、悪びれることもなく、にっこり笑った。
「だって、おんなじべんきょー、ずッッッとしてると、あたしもカイトちゃんも眠くなるんだもん!飽きる!」
「飽きンな、妊婦!」
「そう、あたしニンフたん!!」
有為哉は堂々と言い、腹を突き出してみせた。もちろんそこは服地に覆われているが、多少、形を変えてきていた。ぼっこり膨らんだというほどではないが、確かに違和感がある。
「吐くの落ち着いたー、つわり終わったぜぁ!と思ったら、今度眠いのよ!びっくりした!寝てもねても眠いし眠れんの!むしろカイトちゃんに付き合ってコイバナとかしてたほうが、全ッ然眠くなんなくって都合もいいから、眠くなったら根掘り葉掘り聞いてた!そんでめっさコーフンしてた!!」
「すンな!過ぎると体に悪ぃ!!」
「………相変わらずなんだな、ハチミツ……」
喧々やり合うマスター夫婦の姿に、がくぽはぼそりと吐き出した。
リビングの床に直に座っている八桂月は、テーブルに凭れてなんとか体を起こしているような状態だ。
そして言うなれば、そこまでのダメージを喰らわせたものと、喰らった理由と、諸々だ。
考えるに、有為哉はヘタをするとこの残念三白眼の、元ヤの字ばりな旦那さんに、逆上の挙句で闇な過去に逆戻りされ、あれこれといたされてしまう危険性というものが、非常に大きかった。
少なくともがくぽは、そう懸念していた。
だから今も、最近の定位置として、カイトから譲られた大きなクッションソファに座っている有為哉の斜め前に立ち、いつ八桂月が逆上しても彼女を庇えるよう、位置取りしている。
ちなむとカイトもまた、有為哉の前にへちゃりと座っていた。
しかしがくぽとは違い、特に庇う意図があってのことではない。これは有為哉の妊娠が判明してからというもの、カイトのお気に入りとなった席なのだ。
有為哉の胎、有為哉と自分のマスターとの子供が、母体である有為哉の次に、近くなる場所。
それくらい、とてもとてもたのしみに待ってくれているカイトに癒されたり、慰められたりとしつつ、有為哉はとりあえず苦しい時期を乗りきり――
一時的に安定した今は、とても元気である。
いや、安定する前も、ことに消沈したり、荒れたりといったことはなかった。そのころもとても元気だった。今も元気だ。
良くも悪くも高い位置でフラットなテンションを保っているのが、有為哉という人間である。
対して、男泣きしたばかりの八桂月、フラットとは言い難い、カイトを溺愛し、耽溺し、血迷っている男である。
つまり自分の奥さんにやらかされていたことが判明したわけで、過去の闇をずるりと引き出しても、仕様がないといえば仕様がない状態ではあった。
しかしその状況であっても、妊婦になにが良くて悪いか、肝心の本人以上によく把握し、注意している。
律儀といえばそうだが、つまり。
「心配して損した。僕が心労に費やした時間と消耗を返せ、ハチミツ」
「どの口がそれを言いやがる、がくの字!悪びれろッ!!」
かっと吠えた八桂月に、がくぽはやれやれと肩を竦めた。
「悪びれてもいいが、ハチミツ。訊くが、僕が悪びれたとして、それでハチミツはなにかなるのか?たとえば、すっきりするとか、諦めがつくとか」
「なるか!!」
「だろうな」
吠える八桂月に頷き、がくぽはぺたんと床に腰を下ろした。はらはらと、一応は心配しながら事態を見守ってくれているカイトへ、手を伸ばす。顎に手をやり、伝って耳をくすぐり、髪を梳いてやった。
こなれたしぐさでさらさらと梳かれて、つい、心地よさに瞳を細めるカイトに笑い、がくぽは八桂月に視線を戻した。
「労力の無駄をこれ以上する気はない。前々から言っているが、僕はおまえに関してあまり、寛容さの持ち合わせがないからな」
言い切って、しかし八桂月の頭に浮かんだ血管がぼこりと脈打つ寸前、同時程度に、がくぽは続けた。
「だから悪びれない。が、誓うことくらいはする。カイトは不幸にしない。しあわせにする――いや、いっしょにちゃんと、しあわせになる。おまえの天使を穢したり、貶めることは、決してしない」
「わあお」
――と言ったのは有為哉だが、彼女は自分の口に手をやって、すぐさま言葉を呑みこんだ。
目の前で、ほとんど熱烈に見合うロイド二人を、その様子を例の、おそらくビームが出る機能がすぐにも取りつけられるのではないかというような目線でもって見ている伴侶を、素早く見比べる。
こくりと、頷いた。
対して、カイトだ。真摯な誓いを吐きこぼすがくぽを見つめ、ちょっと瞳を潤ませた。
実のところカイトは、八桂月に関してあまり心配していなかった。
心配することがあるとすれば、どうにも突っかかる癖のあるがくぽが言い過ぎて、その結果として逆上させてしまうことだ。
話してわからない相手ではない。
カイトの中には、多少の苦戦は予想してもその信頼があり、そしてがくぽに対しては微妙に案じるところがあった。
それもまた、杞憂だったと、今わかった。
確かに逆撫でするような、つんけんとした突っかかる物言いではあれ、けれどがくぽはきちんと、誓約した。してくれた。
人生を転換させた、天使と崇めるカイトが関わることとはいえ、そういった仁義を切れる相手に、殊更になにかするような八桂月ではない。要するにやはり、律儀なのだ。
だからカイトは、自分の余計な心配の謝罪と、それ以上の感謝をこめて、ひたすらがくぽを見つめた。
「がくぽ……だいすき」
「ん」
吐きこぼす言葉は熱っぽく甘く、舌足らずで幼いものだったが、万感の想いがこめられている。
さすがにがくぽも照れたふうで、カイトを宥めるように撫でていた手を離すと、目元を染めてぷいと、横を向いた。
わあなんだそれ反則かわいいと、カイトがうっかり迂闊に、萌えた瞬間だ。
「畜生!」
八桂月が、轟と吼えた。
「天使が天使!ぱねえ天使!!やべえ最高かわいい!!出て来い責任者吊るすぁ!!どうやってもなにしてもかわいいイキモノつくるとか、なにしてくれてンだど畜生がッ!!」
――ぎゃんぎゃんと吠えながら、頭を掻き毟る。
惑乱も甚だしい、凄まじい取り乱しぶりだが、発言内容を鑑みるにいつも通りだ。常から萌え崇め奉るカイトに、今回もまた、萌え上がってしまっただけの。
「否、ハチミツ……そもそも『天使』っていうのは、そういうものじゃないのか。だから『天使』なんだろう」
呆れた視線を投げながら冷たく指摘したがくぽだが、八桂月は聞いていなかった。それどころではない、危機的状況だったのだ。
八桂月はあの例の、覚悟を決めた幼子であってもおもらしをしながら泣き喚く、もはや殺人的な視線をがくぽに向け、唸った。
「しかもなンだ、がくの字、てめえの反応も!ここで照れるとか、かわいいか!このイロ紫ヤロウが……てめえにまで萌えさせて、俺にナニさせてぇ気だ?!」
「なにもするな!!僕になにをしたい気になったんだ、ハチミツは?!大丈夫なのか!!」
震撼して叫ぶがくぽと、ばったり床に倒れて懊悩のどん底に陥る八桂月と、
「ウケるぅうううううっっ!!ウケ、うげ、うけぇええええええっっ!!」
――もはやなにがなんだかわからない、怪音でもって爆笑する有為哉と。
見比べて、カイトはちょっとだけ、考えた。
よくもまあ、これだけ雑多に大幅に価値観の違う手合いが集まり、しかしときとして非常によく似たもの同士となり、なんだかんだで明るく仲良く、『家族』というチームをやっている。
あと数か月したなら、ここに新たなひとりが参入するわけだが――
「うーーーん」
赤ん坊という、とてもやわらかい存在だ。
初めからこんなにかっ飛ばされていたら、少しばかり情操教育とか、そういったものに悪かったりしないものだろうか。
とても驚いて、馴染むのに時間がかかってしまって、たくさんたくさん泣くのではないだろうか。
それはちょっと、かわいそうかもしれない。
「………ま、いっか」
考えたカイトだが、すぐに放り出した。余程のことであれば考えることを放り出したりしないが、これは余程のことではない。そう判断した。
なぜなら諸々あれ、この家族、チームは互いの欠点を補い合って生きることをよく知っているし、協力することや、相談することも気軽にやる。
そしてなにより、それぞれの表現方法あれ、非常に愛情深い。
赤ん坊にとってそれ以上になにが必要かということも、まだ学習しきれていない今、カイトは現段階で悩むことは時間の無駄と、いつもの通りに放り出し、そしてそれは概ねにおいて正解だった。
予想したところで思う通りにはいかないもの。
それが赤ん坊だ。
「んっ!たのしみっ!!」
結局そこに落ち着き、カイトはにっこり笑った。
そうやって決着がついたなら、次は自分がこの家族、チーム内でやるべきことをやるだけだ。
カイトは、ぎゃあぎゃあとやり合っている八桂月とがくぽについては『仲良し中』のレッテルを貼って、とりあえず放っておいて良いと判断した。
となると残りは、爆笑して転げ回る有為哉、元気が有り余って倍々にして売れるほどの、ニンフたんもといな妊婦さんだ。
有り余る元気も、身体状況によってはよろしくない。
その程度まではなんとか勉強できていたカイトは、フェアリー宿し中のニンフたんを宥めることに集中した。
♪終幕♪