ドンヨクコンヨク-2/2-
晩酌の用意を調えて居間にやって来たメイコは、ぎょっと目を見張った。
一瞬足を竦ませてから、訝しく眉をひそめ、ことりと首を傾げる。
常にはきはきと、なんでも思うままに吐き出すくちびるをもごつかせ、言葉を舌の上で転がしてから、メイコは閊える声を押し出した。
「ちょっと。……………大丈夫なの、がくぽ?」
「んぁ」
メイコの問いに、返って来たのはとても大丈夫ではない、呻きに似た声だ。滅多なことで、そういった声を出すような相手ではない。
メイコはますます眉をひそめ、ある種異様な光景を眺めた。
すべての部屋が概ね、和風で調えられている家だ。居間も例外ではなく、床こそ板敷だが、置かれているのは掘りごたつだ。囲むように、各々の座椅子がある。
そのがくぽの座椅子に座っているのは、主であるがくぽだ。これはいい。
しかしその、座るがくぽの様子だ。正確には、『座って』いない。凭れている。もっと言うと、倒れている。
常に折り目正しい姿勢を保つがくぽだが、今はぐったりとして、伸びきっていた。多少倒して斜めにした座椅子の背に完全に凭れて、仰向けた顔の上半分ほどは、タオルで覆われている。
タオルが妙に角ばった形をしているので、中に凍らせた保冷剤を包んでいるのだろう。
おそらくがくぽは、なにかしらの理由で熱暴走を――
「………だい、じょうぶ、――だ。一寸、な………のぼせた。だけだ」
「のぼせた?」
「ああ。………一寸」
凭れたまま起き上がることもなく、どころか顔をわずかに傾けることもないがくぽは、ずいぶんと苦しいのだろう。
いや、顔を動かせない理由は、苦しいということだけに因らないかもしれない。
メイコは胡乱な目を、がくぽの後ろに向けた。多少、声を大きくする。
「のぼせたの?」
「みたいー」
今度訊いた相手は、ぐったりと伸びるがくぽの後ろにいるカイトだ。単に後ろにいるわけではない。
カイトはドライヤーを繰って、括ることなく長く垂らされたがくぽの髪を、それはそれは丁寧に乾かしてやっていた。
健気な態度だという話もあるが、問題なのは――
「♪」
――楽しそうだということだ。
ぐったりと伸びるがくぽに対し、カイトは生き生き元気で、そして非常に楽しそうだった。長い髪を面倒がることもなく、丁寧にていねいに解き、梳いてやりながら、ドライヤーを当てて乾かす。
実のところがくぽの呻きに似た力ない声は、このドライヤーの音に掻き消されがちだ。くちびるの動きと雰囲気で、なんとなく文章を補い、会話が成り立っているという。
「のぼせたんでしょ?」
「ぅん。だいじょーぶ。ほら」
掘りごたつに、持ってきた晩酌の調度を置きながら念を押したメイコへ、カイトは一瞬だけ、ドライヤーを吹きつけた。
当たった風は、冷たい。
熱風で乾かしているのではなく、冷風にして乾かしてやっているらしい。
熱に弱いロイドだ。髪――というより、頭皮も微妙に弱いが、一時的にドライヤーの熱風に晒す程度なら、問題はない。もちろん冷風のほうが好ましいことは、確かだ。
しかし言うなら、冷風は乾きにくい。
些少な差ではあるが、ドライヤーをかけるなら熱風のほうが乾きが速いし、ことにがくぽのように髪が長くなれば、尚更だ。
がくぽも普段、自分でやるときには熱風で乾かしている。
今はのぼせているから、ドライヤー程度でも熱風より冷風を選択せざるを得ない。にしても、手間が掛かることは否定できない。
カイトにはご苦労なことだと――
「まあでもやっぱり、髪の毛を傷ませないで乾かすっていったら、熱風より冷風だよね!確かに人間とは違うから、タンパクがどうのとかは言わないけど……ロイドもやっぱり、冷風のほうがあんまり傷まなくて、長期的に見るといいんだよね」
「はあ」
「特に長髪系は、先端に行けばいくほど絡んだりすることが多くて、傷みやすいし…………新型が出るたびに髪質違うけど、特に『がくぽ』の髪は繊細だからさ。トリートメントも毎日ちゃんとしてあげたほうがいいし、お風呂上がりも乾かすだけじゃなくて、できれば保湿剤とかでこまめに補修して………もちろん、ドライヤーは熱風じゃなくて冷風がオススメで」
「ええと」
がくぽの髪を冷風で乾かしつつ、語るカイトの声は熱い。
戸惑いから、気の抜けたような相槌を打つだけのメイコにも構わない。細々、微に入り細を穿って、髪のお手入れについて立て板に水とばかり、止めどなく淀みもなく、ついでに口を挟む隙すらもなく並べ立てる。
ところで話は未だ続いているが、メイコの髪型は、いわゆるボブカットだ。女声型だが、長髪系ではない。一通りの手入れはするものの、そこまで髪に情熱は注いでいないし、興味もない。
ので、好物のアイスを語るときと比肩するほどの熱さで語るカイトの言うことが、いまいちよくわからない。
が。
「………がくぽ。あんた確か、カイトと風呂に入ってたわね?」
カイトは未だに熱弁を振るっていたが、メイコはさっくり流し、『のぼせた』と言うがくぽに訊いた。
未だに回復しきらないらしいがくぽは、保冷剤入りのタオルに、その美麗な顔のほとんどを隠しつつ、開いたくちびるから力のない声を押し出す。
「ああ。………凄かった。なんというか、……………なにか、凄かった」
「でしょうね!」
そもそも、熱に弱いロイドだ。湯船に浸かると言っても、のぼせるほどの高温で湯を張ることはない。江戸っ子が足先を突っこんだなら、『冷てえ!こんなん風呂じゃぁねえや!』と叫ぶような、低温にしてあるはずだ。
たとえ長風呂をしたとしても、ふやけるばかりでのぼせはしない。
それが、のぼせた。
がくぽはカイトを口説くと言っているし、全裸の相手を見て興奮し過ぎた――というのも、あるだろう。
しかし、それだけではない。
それだけで、こうまでへこたれるような『がくぽ』ではない。
「♪」
ドライヤーの風音に紛れて聞こえないが、カイトははなうたをこぼすくらい――こぼしているように見えるくらい、上機嫌だ。ご機嫌で、元気いっぱいだ。心なしか肌も、いつもよりつやつやぴかぴかしているような。
対してがくぽも、だらりと伸びて怠そうではあるが、寝間着から覗く肌は艶めいて、張りがある。若さゆえとか、ロイドだからといった理由ではなく、つまり――
「カイト。あんた、がくぽの髪、好き?」
胡乱な目つきのまま訊いたメイコに、カイトはふいっと顔を上げた。がくぽの髪をひと房取ると、やわらかにくちびるを当てる。
ふわりと、笑った。
「うん」
「ああ、そう……………」
迷いのない答えに適当に頷くと、メイコは一度、目線だけ天井を仰いだ。
ぐったり伸びたがくぽと、元気いっぱいのカイト。
なにかが凄かったというがくぽに――
「まあ、とりあえずね、がくぽ」
持ってきた猪口に徳利から酒を注ぎ、メイコは軽く掲げた。見えないことはわかっているが、がくぽに向けて、揺らす。
「あんたもうちょっと、がんばんなさい、がくぽ。なんか………まあ、なんかね。なんかよ。なんか、がんばんなさい………」