時は元禄、所は華の大都市/大江戸の、その下町。

大江戸噺-01-

洗濯物を干し終えて、カイトはきらきらしい笑顔で天を仰いだ。

きれいな青空だ。

「よっし。今日もがんばる!」

拳を握って小さく宣言し、カイトは洗濯物のなくなったたらいを持ち上げた。

「おやカイトちゃん、もうお洗濯終わったのかい。さすがに早いねえ」

「ああ、今日もカイトちゃんのお洗濯ものは真っ白できれいだねえ。ほんと、いいお嫁さんになるよ」

「…ぇへ」

井戸端に集まっていたおかみさんたちに口々に褒められて、カイトははにかんだ笑みを浮かべた。

ここ界隈の女性では珍しい、襟足ほどもない短い髪の持ち主であるカイトは、長屋でも評判の働き者だ。

ある日、どこからともなくこの長屋へとやって来たカイトは、髪が短くさえなければお城にも召し抱えられようかという、器量よしな娘だった。

しかもその器量を自慢したり鼻に掛けることもなく、質素な着物に身を包んで懸命に働く。

人柄も良く、――いや、少し、好すぎるくらいで、長屋に住む世話好きな老若男女の心を鷲掴みにしていた。

「ほんと、うちの息子の嫁に欲しいけど…………うちのにゃ勿体なさ過ぎるってのがねえ」

「そうだよ、あんたんとこのじゃ頼りないよ。カイトちゃんみたいにかわいい娘、引く手数多で恋敵も多いんだから」

「………ぇへぇへぇへへ」

おかみさんたちのおしゃべりに顔は笑いながら、カイトはじりじりと後退した。

「え、えと、あの、お…アタシ、まだやることあるから…………」

適当な距離が開いたところでぼそぼそとつぶやき、かわいらしく手を振って、くるりと後ろを向く。カイトはそのまま、脱兎の勢いで井戸端から離れた。

「ああほら、カイトちゃん困っちゃった」

「あの娘は奥手なんだからさ」

おかみさんたちのおしゃべりが背中を追いかけてくる。

裾の纏わりつく着物で、カイトは懸命に走った。

いたたまれないことこのうえない。

仕方のないこととはいえ、善良でやさしい彼女たちを騙しているこの事実は変わらない。

「ぜったい恩返しするから………っ」

ごめんなさい、と心の中でつぶやき、ついでに頭を下げた。走りながら。

――そうでなくとも、たらいを抱えて、裾の纏わりつく着物だ。そんなことをすれば、普通につまずく。

「あ、っ」

期待を裏切らずにつまずいたカイトが地面へ転がる前に、脇から伸びた手がしっかりとカイトを支えた。

「予想を裏切らぬな、そなた。そういうのを奉仕精神旺盛と言うのだろう?」

「………がくぽさま、っ」

カイトのつぶやきは、たらいが地面に転がる音に消えた。

倒れかけたカイトの体を軽々と起こした男は同じ長屋の住人だが、ひとびとからは少し距離を置かれている。

どこぞの武家の次男坊だか三男坊だか、そこのところも曖昧な素浪人、がくぽだ。

日々の暮らしは、賭場やいかがわしい茶屋の用心棒で成り立たせているらしいが、詳細は不明だ。

カイトと同じく、ある日ふらっと現れて、そして得体の知れないままに住みついた。

長屋の住人にはあまり良い印象を抱かれていないがくぽだが、彼が来てから、この界隈でたむろするやくざものが減った。

どうやらそれなりに名を通した男らしく、がくぽ兄さんのシマを荒らすなんてとんでもない、と遠巻きにされているらしい。

そのために、不審な目を向けられながらも積極的に追い出されないでいるのだ。

「ありが………って、がくぽさまっ!」

どんな男相手であろうと、助けてもらったことは確かだ。

礼を言おうとしたカイトの声は、悲鳴にひっくり返った。

「なんだ」

「なんだじゃありませ………っ、ちょ、ゃっ!」

起こしたカイトをそのまま胸に抱えこんだがくぽは、素知らぬ顔だ。

抱えられたカイトだけが、顔を真っ赤にして、がくぽの胸を叩く。

「お尻触らないでください…………っ!」

「ふうん?」

狭い長屋だ。大きな声を出せば、すぐに人が飛んでくる。

だがこんな姿など、見られたくはない。

強い腕に抱えこまれたまま、いいように尻を撫でられるカイトの声は潜められて小さかった。

がくぽはにんまりと笑い、真っ赤になっているカイトの耳朶にくちびるを寄せる。

「いいのか俺に逆らうと、そなたが本当は男だと、長屋の住人にばらすぞ?」

「っっ」

ささやかれた言葉に、カイトの抵抗が止む。

がくぽは咽喉奥を鳴らして、愉しそうに笑った。

「どうするだろうな、奴らはあれほど良くしてやったそなたが、実は………」

「やめてください!」

愉しそうながくぽとは対照的に、カイトの声は悲痛に歪んでいた。

そう、長屋の住人憧れの働き者の娘、カイトは実は男だった。

諸事情あって娘の形をしているが、れっきとした男だ。

好き好んで騙しているわけではないが、すべて言い訳だ。

誰にもばれないように注意深く振る舞っていたその秘密を、この男に知られたのは、間違いなく失態だった。

それ以来、そのネタを吊るされて、いいように弄ばれる日が続いている。

「…………ひどいです」

「どちらの話だ?」

詰るカイトに、がくぽは平然と返す。カイトはくちびるを噛んだ。

もちろん、そんな弱みになるようなものをつくる自分が悪い…………。

「ちょっと、がくぽ様またなの?」

「おや、煩いのが来たな」

「っめーちゃん」

悄然と項垂れたところに掛けられた声に、カイトは竦み上がった。

慌てて振り向いた先に、カイトの隣の部屋に住む謡いの師匠、メイコがいた。

派手に紅く染めた髪をばっさり短く切った彼女は、小粋な高下駄をからからと鳴らしながら歩いてくると、思いきり目を眇めた。

「カイトがおとなしい子なのをいいことに、無体を働かないで頂戴、がくぽ様。あんただって困るでしょう。長屋の住人の憧れの的である『カイトちゃん』に手を出したなんて知られたら、さすがに追い出されるわよ?」

名前こそ様付けで呼ぶものの、武家と町人という差もないしゃべり方のメイコに、がくぽは愉しげな笑い声を上げた。

「俺が追い出されるなら、カイトも諸共だ」

自信満々に宣言すると、さらにカイトを抱き寄せた。これ見よがしに尻を撫で上げる。

「これは合意の上だ。カイトは俺に触られたくて堪らぬのだ」

「がくぽさまっ」

思わず声を上げたカイトに、がくぽは獲物を眺めるねこのように瞳を細めた。

「違うのかそなたは俺に岡惚れしているのだろう?」

「…っ」

傲然と告げられるその言葉の裏には、否定すればばらす、とありあり臭わされている。

カイトは小さくしゃくり上げ、それから俯いた。

「はい………」

「カイトっ」

責めるメイコの声にびくりと震えるものの、カイトはそれ以上言葉を継がない。

赤く染まる耳朶に口を寄せ、がくぽは舐めるようにささやいた。

「来るだろう?」

「………………はい」

訊かれて、否の返事はない。

カイトは爪を立ててがくぽの胸元にしがみつくと、赤い顔をすり寄せた。

「まだなにか、言いたいことがあるか?」

「………まったく…………」

勝ち誇ったように言うがくぽに、メイコは額を押さえる。

一度目を閉じて物思いを振り切ると、肩をそびやかした。

「いいけどね、あんたがいいなら。でもカイト、忘れるんじゃないわよ!」

「っ」

叩きつけるメイコの言葉にカイトは震え、さらにきつくがくぽにしがみついた。

怯えるふうですらあるその態度に、がくぽは束の間、目を細める。

「カイト?」

「行くんでしょう、がくぽさまっ」

ぐい、と胸を押されて、がくぽはちらりとメイコを見やった。

言い捨てて満足したのかしていないのか、それ以上口出ししてくる様子もない。

わずかに考えたものの、がくぽは結局、カイトを引きずるように連れて自分の長屋へと入った。

閉められる扉を見つめ、メイコは肩を竦める。

「どっちが岡惚れしてんのよ?」

呆れたようにつぶやいて、それからその顔は厳しく引き締められた。

「『掟』を忘れちゃだめよ、カイト。愛だ恋だなんて言っても、赦されやしないのよ」