ふわっと目が覚めて、カイトはもぞもぞと身じろいだ。
なにか、甘い――香り?
「ん、………」
陰淫夢香花噺-01-
天にはまだ、日が高い。
温度といい、風の具合といい、いい陽気になってきて、午睡への誘いを断れない。
断れないまま、座敷にころんと転がって、しばし夢の中を彷徨ってきたカイトだ。
体には、いつの間にか綿入れ半纏が掛けられているが、座敷の中自体は静かで、ひとの気配も感じない。
「んん………」
カイトは半纏を被ったまま、もぞもぞもぞもぞと身じろいだ。
昼前に出かけた夫は、まだ戻っていないようだ。
戻っていたら、たとえ寝ていようとも必ず、カイトの傍にいてくれる。
そのまま寝かせておいてくれるかどうかは、時の運、もしくは気分次第だが――
座敷にカイトひとりしかいない以上、夫の不在は確定だ。
「………どー、しよ」
もぞもぞもぞもぞしつつ、カイトはほんのりと赤く染まった顔でつぶやいた。
いい陽気だ。
綿入れ半纏を被っていると、それなりに暑いと思う程度には。
「んんぅ」
呻くと、カイトはそろそろと体を起こした。
開きっぱなしの障子から外を見て、くん、と鼻を鳴らす。
とりどりの花が咲き乱れる、印胤家の庭だ。あれが終わってもこれ、これが終わったらそれ、と、この季節は飽きることもない。
家の中にも、咲き誇る花の甘い香りが漂ってきて――
「ゆ………夢、なんか、みちゃった、せーかな」
寝乱れた着物を整えることもせず、カイトは赤い顔でもじもじと足を蠢かせる。
――傍にいない以上、夫である印胤家当主、がくぽの不在は確定だ。
けれど、印胤家当主。
いくらおよめさまに溺れているとはいえ、もしかしたら、来客の応対で、一時的に席を外しているだけなのかもしれない。
屋敷の中を探して歩けば、あるいは、どこかに。
「……ん。んん………どーしよ。ガマンできない………」
悩ましくつぶやくと、カイトは起きたときと同じく、そろそろと立ち上がった。
寝乱れた着物を最低限整えると、わずかにふらつく足で座敷から出る。
ちなみにカイトの足がふらついていることは、少なくとも印胤家に来てからは、よくあることだ。
がくぽの溺愛は、他人の目を騙すための方便ではない。カイトのことを、真実心から溺愛している。
その結果の、昼夜を問わない閨事と、本来は頑健なおよめさまの、足腰のふらつきだ。夫の愛も過ぎると、およめさまの日常に支障を来たす、いい例ともいえる。
壁を伝ってふらふらと歩き、カイトは義妹――グミの部屋を訪れた。
屋敷の中を下手に歩き回ることは、禁じられている。
安全が保証できないから、という理由だ。
日常暮らす屋敷の中ですら安全が保証できないと、家人から真顔で言われるのが、悪家老として名を馳せ、一族郎党ですら食らい合い、潰し合うのが常態の、印胤家だった。
そっと座敷の中に顔を覗かせると、グミは弟のがちゃぽの勉強を見ているところだった。
「グミさま」
遠慮しいしい上がった声に、姉弟はぱっと顔を上げる。
「およ………」
「およめたまっ!!んきゅっ!!」
「ぁ、ぁああ………」
まだ小さな義弟、がちゃぽは、兄のおよめさまに並々ならぬ憧れを抱いている。
顔を向けるのみならず、立ち上がって駆け寄ろうとしたが、即座に姉に襟首を掴まれ、机の前に引き戻された。
おろおろするカイトに構わず、グミはきりりとして、弟の膝をぺしりと叩く。
「終わっておらぬであろうが。やることもやれぬ男では、理想高きおよめさまに、見向きをしてもらえようはずもない」
「ん、んんっ」
恨みがましく姉を見ていたがちゃぽだが、その言葉にすぐさま姿勢を正した。
まだ幼く、あどけないやさしさを宿したがちゃぽは、長兄にして印胤家当主であるがくぽと、そのおよめさまを取り合っている。
兄といえば、因業で鳴らす一族郎党からすら、『鬼子』と呼ばれ恐れられるような相手だ。それと張り合うというのだから、意外に気骨がある――と、いえばいいのか。
カイトとしては、まだ幼いのだし、もう少し甘やかしてやってもいいのではないかとも思うが。
弟を宥めると、グミはようやくまともにカイトを見た。
「どうなさった、およめさま」
やわらかな声で訊かれ、顔だけ覗かせたカイトは、困ったように笑った。
「その、………がくぽさま、お帰りになっていないかと、思って」
「あにさまか?」
カイトの問いに、グミは不思議そうに瞳を瞬かせた。
帰っていれば、溺愛するおよめさまの傍にいて、離れることはない。
昼前に出かけたときにはカイトも見送りをして、その後、迎えもしていないのだから、結果は推して知るべし――
「ああ………」
瞬間的に瞳を瞬かせたものの、グミはすぐに納得して頷いた。
やわらかな苦笑を浮かべて、首を横に振る。
「帰られておらぬ。先触れもない。まだしばらく、ご不在なのではないか」
「そう、ですか………」
グミの返事に、カイトはあからさまにしゅんとして、項垂れた。
ぴしりと正座したはものの、大好きなおよめさまのことが気になって仕方ないがちゃぽの体が、飛びつきたさにうずうずと揺れる。
いつでも襟首を掴めるようにとそちらにも気を配りつつ、グミはちょこりと首を傾げた。
「急ぎのご用事でもあるのか、およめさま?ならば、こちらから使いを――」
「あ、あ、いえ!ち、ちが、そうじゃ、なくて………」
慌てて顔を上げたカイトは、目元をぽぽぽっと赤く染めた。グミの片手が持ち上がり、がちゃぽの襟首を掴む用意をする。
一息に色づいたおよめさまは、すぐにもじもじと俯いた。
「お、お昼寝してて………そこで、がくぽさまの、夢を見たから………」
「………」
悪い夢を見た、という反応ではない。おそらくは、夫と存分に馴れ合う、幸福な夢――
を、見たせいで、すぐにも会って、現実でも心行くまでじゃれ合いたくなった、と。
そんなところだろうと見当をつけたグミは、がちゃぽの襟首ではなく頭を鷲掴みし、笑った。
「使いを出さぬで良いのか?あにさまならば、十分に大事だと言って、飛んで帰っていらっしゃるじゃろう」
「え、え、えっ!ぅ、ぅうんっ、いいっ!いいですっ!!だいじょうぶっ!!!」
ぼぼぼっと顔から耳から、覗く肌をすべて赤くしたカイトは、叫ぶと逃げるように顔を引っ込めた。
遊びに出ているというならともかく、今日の場合、がくぽはきちんとした仕事に行っている――悪家老として鳴らす印胤家当主にとって、『きちんとした仕事』が、まっとうだということと同義であるとは、限らないが。
笑いながら、グミはしゅんとして大人しくなった弟の頭から手を離す。
しかしすぐにまた、指を襟首に引っ掛けた。
一度は引っ込んだおよめさまは、再び座敷に顔を覗かせると、まだ赤く染まったまま、ほわんと笑った。
「えと、半纏ありがとうございます、グミさま」
「………」
ふっと瞳を見開いたグミのくちびるが、苦笑を刷く。
「よい季節じゃが、大事を取るに越したことはない。およめさまに風邪でも引かれては、あにさままで大事じゃ」
「はい」
笑って諭したグミにこちらも笑って頷き、カイトは顔を引っ込めた。
足音が座敷から遠ざかるのを確認し、今度こそグミはがちゃぽを解放する。
そのくちびるに刷く笑みが、ふっと消えた。
「どうしてか、因業の血を忘れさせるものよの、およめさまは」
つぶやいてから、表情は当初の厳しさを取り戻す。
「さて、がちゃぽ!続きをやるぞ!」
「ぅ、ふぁい……」
「男ならきりっとせい!斯様なことでは、あにさまに食われて終わるぞ!」
「はいっ!!」
――やさしいおよめさまの思惑どうであれ、グミには印胤家の娘として、どうにか幼い弟を生き残らせるべく、手を尽くす必要があった。