日は沈み、夜の帳が下りて、すっかりと座敷は暗くなった。

閉ざされた座敷には、濃密な情交の気配とともに、未だに甘く、花の香が漂う。

陰淫噺-07-

がくぽは意識を失った体から離れると、まずは近くの行灯に火を入れた。

視界を確保してから、障子を開く。月は新月、外は暗く、そしてやはり花の香に満ちていた。

香に違いがあるとするなら、同じ甘くても、情交の気配を纏わず、外のほうが胸が透くような気がすることだ。

がくぽはしばし外の空気を吸ってから、障子の外にいつの間にか用意されていたたらいと手拭いを持って、カイトの傍に戻った。

起きているなら湯を使わせてやるが、疲れ果てて落ちた意識を、無理に揺さぶり起こすようなことはしたくない。

おそらく用意されたときには、湯だっただろう。しかし終わりを待つ間に、すっかりと冷たくなったたらいの水で手拭いを濡らし、よく絞ってから、がくぽはカイトの体を拭き清める。

「…………」

無言で、およめさまの体から汚れを拭い落としていくがくぽの手つきは丁寧で、労わりに満ちてやさしかった。

何度かたらいで手拭いを洗い、あまり刺激し過ぎないように中のものも多少掻き出してやって、がくぽは小さくため息をついた。

「しんどかったな」

つぶやき、乱れたカイトの髪をやわらかに梳く。

行灯の仄明かりの中だと、カイトの泣き腫らした顔はさらに哀れさを募らせて、胸を塞いだ。

「………」

もう一度ため息をこぼし、がくぽは近くに放り出されていた綿入れ半纏を取ると、一糸纏わぬ姿のおよめさまの体にかけた。

たらいを用意した人物によって、おそらく隣の座敷には布団が敷かれているだろうが、そこまで運ぶことはしない。

自分は、途中で放り捨てた上着を適当に羽織り、がくぽは座敷の隅へと重い足取りで向かった。

ひっそりと置かれたものを見て、くちびるを歪める。

「…………何れ斯様なことであろうと、思ったわ」

つぶやくと、座り込んだ。

「…………が、く…………ま?」

程なくして、背後で掠れた声が上がった。

疲れているだろうが、夫が傍を離れるとすぐに目を覚ましてしまうのが、がくぽの愛するおよめさまだ。

その情の深さも強さもなにもかも、がくぽにとってはひたすら愛らしく、尊い。

この愛を失うことがあるなら、自身の生きる価値さえ失われるほどに。

「………ん、が………く、…………ま」

怠い体で、カイトはそろりと起き上がる。座敷の隅に座ったまま、背を向けて応えてもくれない夫だ。

そういうことは、珍しい。

「ぁ、ん………っ」

傍に寄ろうとしたが、長時間に及んで激しく攻められたせいでうまく動かず、足は虚しく空を掻いた。

はふ、とため息をつき、カイトは気の抜けた体に鞭打つ。腕と爪先とで畳を掻いて、そろそろとがくぽへ近づいた。

「がくぽ、さまなにを」

ようやく夫の傍に着き、カイトはしなだれかかるようにして、俯くがくぽの手元を覗き込んだ。

「……お香?」

暗闇に詳細な形は見えないが、がくぽが手にしているのはおそらく、香炉だ。屋敷のそこかしこに置いてあるし、珍しいものでもない。

使われているかいないかは、時と場合によるが――

そもそも座敷には花の香りが満ちているが、そこからはさらに濃密に、甘い花の香りが漂ってくるような気がした。

「どう、」

「口鼻を覆え、カイト。すでに尽きているが、香りが残っている。あまり吸うな。くり返しになるぞ」

「………」

疲れて思考はぼんやりとしているし、腕を動かすのも億劫だ。

しかしいつになく厳しいがくぽの声に、カイトは羽織ったままだった半纏で口元を覆った。

そのうえで、自身は素のままのがくぽを訝しく見る。

「がくぽさま?」

掠れているうえに、今は分厚い布で覆って、声はくぐもっている。

ひどく聞き取りにくかったが、がくぽはそこに含まれる疑問の響きをきちんと読み取ってくれた。

うっすらと笑みを刷いて、しなだれかかるカイトを見る。

すぐさま視線は香炉に戻って、蓋を開けると、近づけた鼻をうごめかせた。

「媚香だ。淫香と言えば、わかるか?」

「び………いん…………」

うまく言葉を継げないままに強張ったカイトに、がくぽは笑う。

「嗅ぐと思考が眩み、亢進する」

「って、がくぽさまっ!」

カイトは半纏で顔の下半分を覆い、香りを防いでいる。しかしがくぽは素のまま、しかも今は鼻を近づけて直接に嗅いだ。

慌てるカイトが疎かになった口元を、がくぽは片手をやって塞ぐ。

そのうえで香炉を置くと、蓋をした。

「毒と同じよ。俺は馴らしてある。この程度嗅いだところで、ふらついたりなどせん。…………そなたには、よく効いたようだが」

「…………」

カイトは黙り込んで、がくぽの着物をきゅっと掴んだ。縋るような動きに、しかしがくぽは視線をやることもない。

ひたすらに、香炉を眺める。

「香というものはな、カイト。同じ材料を使い、同じ処方で、同じように作ったとしても、個々それぞれの癖というものが、必ず出る代物でな。どんな巧みであろうとも、己のにおいを消して、他人に成りすますことはできん。どうあっても、己が出る」

「がくぽ、さま」

「カイト」

きゅ、としがみつくカイトを見ることはないまま、がくぽはひどく億劫そうに名前を呼んだ。

返事も出来ないままに、カイトは懸命な色を宿して、昏色を纏うがくぽを見る。

「そなたな。次にこういうことがあったなら、仕置きを強請るな。むしろ怒れ、俺に。怒って、俺を仕置け。打ちのめして、詰れ。なにゆえ、自分を守ってくれぬのかと。なにゆえみすみすと、妻が姦計に嵌められるを見過ごしたかと」

「……………」

ぼそりと吐き出された怨嗟の声に、カイトは悟った。

昼寝から目覚めたカイトをおかしなふうに淫猥にし、乱れさせたのは、いつの間にか置かれて焚かれていた淫香の効果だ。

そして原因の香を置いたのは、悪戯好きな夫ではない。

夫以外の、印胤家の、いずれ誰か――

寝ているカイトを起こさぬように座敷に入り、香を焚いていった。

のんびりとした暮らしに、最近はずいぶん気が緩んでいるカイトだ。元々はがくぽと同じく闇の生業、気配に敏い性質で、屋敷に来た当初はひとりのときにがくぽ以外の気配が近づくと、すぐさま目を覚ました。

屋敷の中を好き勝手に歩き回れない理由を、真顔で『安全が保証できないから』と、説明されもした。だからなおのこと、緊張もしていた。

しかしこれまで実際に、危ない思いをしたことはない。

夫は悪戯好きなうえ、無茶苦茶をやって手に入れたおよめさまを、独占したがる。

屋敷のものであっても、おいそれとは触れ合わせたくないのだろうと、そんなふうに。

ひたすらに夫に愛され求められながら、およめさまとしてののんびりとした暮らしに、気を緩める時間も相手も増えて――

「がく、ぽ………さま」

それでも犯人など、数えるほどしかいない。

そうやってカイトが気を赦す相手はとりもなおさず、がくぽも頼みにし、気を赦す相手。

猜疑の塊である印胤家当主が、それとなく気を赦している相手といえば――

その相手が、今回、カイトを嵌めた。

両手で縋ってきたカイトに、がくぽは笑顔を向ける。暗闇に、あるのは行灯の不安定な明かりだけだ。

笑みが揺らぐのは明かりのせいなのか、がくぽ自身の心向きによるものなのか、判断がつかない。

「香を嗅いで元を辿れば、いずれ誰とは、すぐわかる。そなたは案ずることなく、これまで通りに暮らせ」

「がく、…………」

呼びかけて、カイトは黙った。

誰だとわかって、どうするのか。

――そんなことを訊いても、意味はない。

がくぽはカイトを溺愛し、偏愛している。相手もそれは重々に承知している。

なにあれ手を出したなら、がくぽの底知れない怒りを買うことも。

印胤家当主の怒りを買うことは代々恐ろしいが、当代の怒りを買うことは殊更だ。『鬼子』の呼び名の由来を、よくよく沁み込ませてくれる。

ましてや気を赦していたなら、赦していただけ――

不自然に黙ったカイトに構うことなく、がくぽは笑う。

「再びはない。そなたは気を安らがせて、朝寝でも昼寝でも勤しめ。さもないと、夜の俺に付き合いきれぬだろう?」

「…………」

笑って茶化すがくぽだが、カイトは信頼して笑い返すこともなく、縋りついて不安を訴えることもなかった。

わずかに体を離し、出来る限りきちんと座ると、ちょこなんと首を傾げて夫を見つめる。

「…………必ずだ。そなたを姦計に晒すことは、二度とない」

闇にも負けず、光を放つように見えるカイトの瞳だ。

仄明かりの中ですら、光は打ち消されることもなく、ひたすらに透明な光を宿してがくぽを映す。

見返すことに耐えられなかったのはがくぽのほうで、顔を逸らすと俯いて、膝元に置いた香炉へと視線をやった。

「…………」

カイトは黙ったまま、首をちょこなんと傾げてがくぽを見つめ続ける。

姦計に嵌まったのは、カイトの油断もあるし、『印胤家』というものへの知識や備えの不足もある。

がくぽひとりが、悪いというものではない。

カイトはおよめさまだが、守られるばかりを望む姫ではない。

愛する相手を守りたいと思う、『男』だ。

共に手を携えて戦いたいと思う、れっきとした男なのだ。

――がくぽも重々に承知しているだろうが、だとしても、望むのだろう。

ただ守られて、安穏と暮らせと。

カイトが屋敷の中ですら緊張し、常に張り詰めて油断なく振る舞い、神経を尖らせて暮らすのではなく。

ほんわりと笑いほどけ、ねこのように自侭に好き勝手に振る舞い、のびのびと暮らすことを。

印胤家というものを含めて諌めるがくぽや家人に、そんなこと大袈裟です、危ないことなんか、遭ったこともないのに、と。

なにも知らず、無邪気に笑って言う――

影にはがくぽの努力があり、なにかしら振るわれている手がある。

無邪気で無垢なおよめさまをそのままに、万難を排するために払われている、犠牲がある。

あったとしても、およめさまはなにも気がつくことなく、知ることもなく。

安らいで、ちょっと大袈裟で心配性な夫に、呆れながら。

「……………がくぽさま」

――俺は、戦いたいです。

カイトは心の中で、そっとそっとつぶやく。

がくぽひとりに痛みを負わせるのではなく、手を汚させるのではなく、共に戦いたい。

争いごとは嫌いでも、愛するひとが戦っているというなら、隣に立って助けとなりたい。

背負う荷を分かち合い、生きたい。

分かち合う覚悟も決めて、がくぽに添ったのに。

「…………がくぽさま」

けれどすべてなにもかも、言葉にすることはなく、カイトはがくぽへと体を寄せた。重い腕を繰って、闇に呑みこまれそうな夫を抱きしめる。

招いて頭を胸に抱え寄せると、触れるだけのやわらかな口づけを、春の雨のようにやさしく降り注がせた。

「がくぽさま、…………がくぽさま。がくぽさま…………」

「…………」

抵抗することもないが、反応することもない。

カイトに大人しく抱かれたがくぽは、胸に顔を埋めたまま、微動だにすることなく、口づけの雨に身を晒していた。

反応がないことにも構わず、カイトはやさしい手つきでがくぽの髪を梳く。梳きながら、口づけを降らせ、名前を呼ぶ。

「がくぽさま。大好き…………大好き、がくぽさま」

「…………やれやれ」

愛をさえずり続けるおよめさまに、ややしてがくぽはため息をついて体を解いた。

抱いてくれるカイトにずっしりと体重を預け、ずるずると体を滑らせて寝そべる。

膝の上に頭を乗せると、それですらやわらかに抱いていてくれるカイトへと笑顔を向け、手を伸ばした。

「そなたは俺を宥める上手だ。波立つ心が、すっかりと鎮められた。俺を慰め、あやしてどうする、愚か者め」

「…………」

頬を撫でられながら、カイトは明るく腐すがくぽを見つめ、瞳を細めた。

撫でる手に自分からも、すり、と頬を寄せる。

「傷つけられたことに怒れ。不甲斐ない夫と詰れ。…………こんなところに暮らすはもう、怖いと泣け。したら俺が、そなたをあやし、宥めすかして丸め込み、座敷へと繋いでやるのに」

「がくぽさま」

笑うがくぽへ、カイトは静かに微笑んだ。

笑っているのに、声が泣いている夫に。

「がくぽさま…………大好き。がくぽさまだけが、好き」

「……………っっ」

静かにひたひたと沁みる告白に、がくぽはきゅっとくちびるを引き結んだ。

頬を撫でていた手が落ちて、顔を覆う。

自分で自分の顔を隠したがくぽを、カイトはそれごと抱きしめて、ひたすらに愛をさえずり続けた。

後日。

たんこぶを拵えた下の義妹が、上の義妹とともにおよめさまの元を訪れた。

「乱れるねねさまが見たくて、我慢できなかったのよこの欲求を堪えることなんて、神代の英雄でも無理だわ!」

反省なく言う彼女は即座に姉に仕置かれ、さらにたんこぶの数を増やした。

どっとはらい