夜魅の二歩三歩
「か………った、ぁ………」
大きな瞳をさらに大きく開いたカイトは、勝負のついたばかりの将棋盤を見つめてつぶやいた。
盤を挟んで対するがくぽは、くちびるを笑みに歪める。
「そうだな。あからさまに間違いようもなく、そなたの勝ちよな、かい、っつっ」
「がくぽさま、がくぽさまぁ……かったっ!おれかちました、がくぽさまぁ……っ!」
事実を追認してやった途端、カイトはがくぽに飛びついて来た。
意想外の行動に揺らぎながらも、がくぽはなんとか受け止めてやる。その肩口に、カイトは甘えるねこのごとく、無邪気に顔をすり寄せた。
「ぇへ、ぇへへっ、ぇへ……っ!かった………かちました、がくぽさま………っぁはっ!!」
「………ああ。そうだな、カイト。そなたの『勝ち』だ」
箍が外れた笑い方をするカイトの背を、がくぽは慰撫するように撫でる。珍しくも全力で甘ったれてくる体を、そっと己の元へ引き寄せ、抱きこんだ。
していたのは、将棋だ。
いつもと違うことがなにかあったとすれば、がくぽがカイトに勝敗を選ばせたことだ。
カイトの将棋は、非常に独特だ。勝敗を、がくぽに決めさせる。
だからといってがくぽに力加減させたりと、手を掛けさせるわけではない。がくぽはむしろ、なにもしない。
しないし、全力で突き崩しにかかるのだが、カイトはがくぽが求めた通りに勝敗をつける。勝てと言えば勝つし、負けろと言えば負けるのだ。
そんな打ち方があるかと、がくぽも初めは面白がった。そもそもがくぽとて、下手ではない。むしろ相手に不足するほどの腕前だ。
そのがくぽとの勝敗を、カイトは美事に操ってみせるのだ。こんな面白いことは、かつてなかった。
しかしふと、気がついた。
淡々と勝敗をつけ、得た結果にも特に感興を見せないカイトの様子。
これほどの腕であれば、勝敗の行方を操作することは、もっと楽しいはずであるのに――
『そんな打ち方があるか』と。
だから今日、長屋の部屋を訪れたカイトに、がくぽはひとつ、条件を告げたのだ。
今日はなにも求めない、と。
「そなたが選べ、カイト。勝つも負けるも、そなたが決めろ。俺は全力で打ってはやるが、勝敗は求めん」
「ぇ……」
告げたがくぽにカイトは絶句し、あろうことかそのまま固まって、駒を手に取ることすら出来なくなった。
もはや絶望と同じ色を浮かべて呆然と動かない相手は、実のところ予測の範囲内だ。
だからがくぽは多少の様子見のあと、追加の条件を放り込んだ。カイトの選択を易くするための、条件を。
「カイト、良いか。そなたが今日、もしも俺に勝とうなら、褒美を呉れてやる。強請るものを、なんでもやろうよ。しかしもしも負けるなら、蕩けて形もなくなるほどに、そなたを徹底的に甘やかしてやろう――俺の全力を懸けて、これまでに経験もなく、覚えもなく、もはや戻る道も失うほどに」
「っっ!!」
滴る色香とともに誘ったがくぽに、カイトは覿面に反応して肌を朱に染め上げた。
その様に声を上げて笑いながら、がくぽは駒を取り、置いた。
「選べ、カイト。俺から欲しいのは、褒美か?甘やかしか?勝てば褒美で、負ければ甘やかしだ。どちらが欲しいかを考え、選べ。………単なる勝敗のみを選ぶなど、詰まらんことだぞ」
「がくぽ、さま………っ」
そうやって、なんとか始まった勝負だった。
そして、出た結果だ。
カイトは『ご褒美』を、つまりは『勝ち』を選んだ。
「ぇへへ、ぇへぇ………がくぽさま、がくぽさまぁ………っ」
「……仕様のない。甘やかしは負けたらと、言うたであろうに」
なにかの箍が外れたように、カイトはがくぽに擦りついて甘え、笑う。いや、カイトの中で確かに箍が、軛が外れたのだろう。
カイトは幼子のように勝利を歓び、己が負かした男に無邪気に甘ったれて、存分に甘やかされる。
なんと憎たらしくも愛らしく、突き抜けて憐れなイキモノなのか。
込み上げる思いに、がくぽはさらにきつく、カイトを抱きしめた。
おそらくこれは、カイトの初めての『勝利』だ。
カイトは初めて己のために考え、知恵を絞ってがくぽと対し、己のために、己の手で勝利を掴んだ。
きっと、勝ちたいと、初めて望んで得られた――
「がくぽさま、んっ………っふ、ぁ……っ」
募る想いが堪えきれず、がくぽは無邪気に甘えるカイトのくちびるに貪りついた。
舌を捻じこめば、カイトは覚束ず、けれど懸命に応える。縋る指に力が入って、がくぽの胸に爪を立てた。
ややして離れると、カイトはくたりとがくぽに凭れる。
「仕様のない奴め」
「がくぽさま……」
つぶやくと、カイトはちょいちょいとがくぽの袖を引いた。熱っぽくとろりと蕩けた瞳でがくぽを見つめ、甘ったるく笑う。
凄絶な色香が漂って息を呑むがくぽに、カイトは袖を引いた手を戻し、将棋盤を差した。
「ね、もういっかい……もういっかい、して?して、ください……ごほうび、くださるって、いったでしょう?カイトがかったら、ごほうびって。もういっかい、して?してください、がくぽさまぁ………」
「………」
言葉もなく、がくぽはひたすらカイトに見入った。
カイトはこれ以上なく甘ったれて舌足らずに、これまで見たこともないほど無防備に、がくぽにおねだりを吐きこぼす。
息が詰まるほどに愛らしく、いっそこのまま転がして体を開いてやりたい。
突き上げる欲求は強く、疼く体はもはや痛いようだったが、がくぽはため息ひとつで己に忍従を強いた。
「仕様のない」
つぶやき、がくぽは熱心なおねだりを続けるカイトの額にくちびるを落とした。
「付き合うてやろうさ、そなたの気が済むまで程度。そなたが強請ることならなんでも聞いてやろうし、なんでも叶えてやろう。………ああ、否」
「がく、ん、ふちゅ、ん………っっ」
強請ることだけでなく、言葉にならず片隅に蟠る願いも望みも祈りもすべて――
あまりに熱烈な告白に似た言葉を封じるため、がくぽはもう一度、カイトのくちびるに貪りついた。