「思いついた」
「え?」
朝食の席だった。唐突に難しい顔になったがくぽはつぶやくと、向かいに座るカイトへきっとした視線をやった。
CHIMÉNE-08
さすがに朝食の席ともなると、給仕も入る。がくぽもカイトも品行方正に、二人で座るには多少物寂しい長卓で向い合って座り、大人しく食事をしていた。
基本的に、会話はない。距離があるということもあるが、行儀の問題だ。食べながら話すのは、あまりよろしくないとされている。
なので二人とも静かに、ひたすら食べることに専念しているのが常だが。
「がくぽさま?」
「見逃せよ。大事だ」
「え?」
まだ食事を終えていないというのに、がくぽは席を立つ。戸惑う給仕と、眉をひそめる家宰に言い放ち、がくぽはつかつかとカイトの傍に寄った。
カイトといえば、がくぽの行動に繋がるようなことに、まったく心当たりがない。屋敷に来た当初は、食器の扱いや礼儀作法で、たまに注意されることはあったが――
素直で飲みこみがいいのが、カイトのなによりの長所だった。
言葉遣いこそ未だ覚束ないものの、ちょっとした場所に連れ出しても、今なら行儀でつまづくこともない。
天然ゆえにやらかすことはあるが、最近はほとんど注意などされない。
「あの………」
きょときょとと、自分が食べていたもの、食べようとしていたものを見直すカイトの傍らに、がくぽが立つ。朝から、領主としての威厳と威圧は完璧だ。起き抜けだからと、寝惚ける趣味はがくぽにはない。
「がくぽさま、僕……」
「………」
やはり思い当たることがないと、戸惑う視線を向けるカイトを、がくぽは見ていなかった。卓の上、カイトの前に並べられた朝食をざっと一通り、見渡す。
がくぽとそう大きく、変わるものではない。強いていうなら、ものの量だ。
成長期と呼ばれる年頃が、現状カイトが維持している年齢のはずだ。この時期の子供は、狂気のように食べる。特に少年ともなれば母親に、食費を稼いで来いと尻を蹴り飛ばされるほどに食べる。
しかしカイトは、慎ましい量を口にするだけだった。もっと食べろとせっついても、でもおなかいっぱいですと、泣きべそを掻かれる。
成長期は、千差万別だ。身長の伸びにしろ体重の増加にしろ、精神的な成長も含め、雑多にひとに因り過ぎて、絶対がない。
食事的な成長期はまだなのか、それとも成長を止めていることで食べる必要がないのか、微妙に悩ましいところだ。いずれ魔女に、普段はどういう食事をしていたのか、どれほど食べていたかを訊く必要もあると思うが――
まだ、彼女たちと会話らしい会話ができる段階に、ない。
「あの、がく……がくぽ、さま?」
「ひと口だ。構わんな」
「え、あの、いいですけ……」
訊かれたカイトが許諾を吐き終わる前に、がくぽは掴んだ杯を口に運んだ。宣言通りにひと口含んで、壮絶に眉をひそめて卓に置く。
ごくりと嚥下に咽喉が動き、白く濡れたくちびるが苦々しく声を吐き出した。
「甘いっ!!」
「え、はい。ぁの、………ごめん、なさぃ?」
叱責にも似た口調だった。反射で謝ったカイトを、がくぽはぎろりと睨み下ろす。
杯の中身だ。
朝食の席には、家畜の乳が供されることが多い。なんの乳かは、朝の料理次第だ。ヤギは癖が強くて飲みにくいことがあり、牛は多少緩和されるが、やはり微妙に生臭さはある。
平気なものは平気だが、一度だめだと思うとまったく受けつけなくなるのが、子供というものでもあった。
涙目で杯を睨んでいる幼いがくぽを憐れんで、料理長は砂糖と香辛料入りの、甘くてやわらかな香りのものを特別に出してくれていた。
当時まだ、共に暮らしていた父親は、あまりいい顔をしなかったが――
同じ味だ。
当時は美味しいと感激して飲んだが、今は甘いと顔をしかめる。その差はあれ、同じで間違いない。
砂糖と香辛料の入った、対子供用、料理長の特製品。
「ぁの」
「訊くが、そなた。いつから、これだ?最初は違うな?いつから変わった?」
「ぇ、ええと、あの、ぁの………」
厳しく問い質されて、カイトはあぶおぶと口ごもり、しゅんと項垂れた。がくぽへ正対するため、椅子に横向きに座り直すと怒られる子供の風情で俯き、上目遣いで恐る恐ると見つめて来る。
「さいしょ、から………」
「最初?いちばん初めの、一度目からか?」
「ぇ、ぇえと、あの………っ」
一度目ともなれば、嗜好もわからない。まさか見た目だけで、料理長がカイトに甘い子供用のものを用意するとは思えない。
ましてやカイトが屋敷でした『一度目』の食事は、すでに『奥様』となることが決定後だ。有り体に言って、しっかりとがくぽに食べられたあとの。
料理長はそんな相手を、まさか見た目で子供だと判じるような、迂闊な思考の持ち主ではない。
「………ひと口、飲んで………それから、のめなくて………」
「ひと口?」
「はぃ………」
二人で食事するには寂しい、長卓だ。会話もない。カイトに不自由はないかと、がくぽはそれとなく目を配っていたが、常とはいかない。思いついた案件を、傍らに控える家宰に指示していることもある。
行儀云々を言うなら、食べるときに仕事の話は厳禁だ。
それで領主の仕事が回ると思うならもう一度進言しろのひと言で、がくぽは相手の口を封じてきた。が。
「家では………元の、封じ森の、あの家だ。魔女どもに、家畜の乳を飲む習慣はないのか?」
「ないことは、ない、です……けど」
気忙しく訊いたがくぽに、カイトは涙目で首を傾げた。
「やっぱり、初めて飲んだとき、ひと口でだめで………そしたら、別にどうしても要り用なものでもないから、無理しなくていいって、ミクが。それから、飲んでなくて………」
「………」
がくぽは息を呑み、きりりとくちびるを引き結んだ。
常に大人しく、なんでも口に入れていると思っていたカイトだ。好き嫌いはないようだと、強いて言うなら特に甘いものが好きだと。
迂闊だった。
嫌いなものも、きちんとあったらしい。
「それで、………ずっと飲んでなかったし、わすれてて………でも、出たから、のんだら………それ以上、のめなくて」
カイトは俯いて、ぐすんと洟を啜った。懸命に顔を上げると、うるうるぷるぷると震える瞳で、黙り込むがくぽを見つめる。
「………そしたら、料理長さん、が………すぐに、取り替えて、くれて………。だからひと口は、のんだけど………あとは、最初の日から、ずっと………」
「………そういえば」
最初の日、朝食の席に料理長が姿を見せた。新しい奥様のご機嫌伺いにと言われて、がくぽは深く考えずに頷いた。料理長のその行動は常のことで、普通のことでもあったからだ。
客が来たなら、場合によっては隠しから様子を見て、料理に微調整を加えることもある。
美味しく食べてもらうことは料理人としての矜持もあるが、領主の威厳を保つためにも必要不可欠な要素なのだ。
それが親しい客や、もしくはこれからずっと住まう相手ともなれば、古参の料理長はもっと直截に、本人へ嗜好を確認しに来る。
そのときに、カイトが飲めないと言ったのか、それとも様子を見て気がついたのか、定かではない。
しかし、『子供時分の食事は愉しく、我慢なぞは大人になれば勝手に覚える』が信条の料理長は迷うことなく、取り替えてやったのだろう。特製の、子供用に甘く調えたものと。
「その、あとも………食べられない、ものとか………ちょっとずつ、変えてくれたり」
「…………なるほど」
「ぁの、がくぽさま………っ」
長卓だ。カイトの顔くらいは見えるが、並べられた皿の中身のすべてまで、つぶさに観察することは出来ない。こっそりと、皿の中身が少しずつ違っていても、気がつかない。また、気がつかないように盛り付けられるのが、歴戦の猛者たる料理長の腕というものだ。
好き嫌いしてごめんなさいと、委縮するカイトを見ることなく、がくぽは疲れた様子で振り返った。後ろではらはらと、成り行きを見守っていた家宰に手を振る。
「料理長に、報奨金………ああ、いや。今度から普段の賃金を、三割ほど上げろ。財源は俺の私財を削っていい」
言って、カイトへ戻る。
ため息をつくと、短い髪をくしゃくしゃと撫でてやった。
「怒っているわけではない。気がつかず、悪かった。今後もなにかあれば、あれに相談してやれ。これまでも、食べられんと言ったところで、怒られたことはなかろう?あれは強面でも、そういうところで鷹揚だ」
「がくぽさま………」
「ちっ」
潤む瞳で、祈るように見つめるカイトに、がくぽは舌を鳴らした。軽く振り返ると、食事の再開を待つ給仕と家宰を睨みつける。
「一瞬だ。見逃せ」
「ぁの、がくぽさ………んんっ」
――視線と語調だけで、殺されそうな威迫だった。おそらく反駁の声を上げようものなら、実際に殺されていただろう。
そういった意味で敏かった給仕と家宰は、言われたとおりにちょっぴり目を逸らし心の耳を塞いで、領主の不作法に気がつかないふりをした。
迂闊にも、溺愛する若奥様を怯えさせてしまったがくぽは、肉の脂にとろりと濡れるカイトのくちびるを舐め、反射で開いた口の中に軽く押し入る。あまり腰砕けとはしないよう注意しつつ、カイトの体が解けるまで、やわらかな口づけを続けた。
幸いにも、家宰が命懸けで不作法を咎める覚悟を固めるより先に、カイトの体は甘さを思い出した。
「がくぽさま……」
「中断させて悪かった。今日は嫌いなものはないか?」
「はい」
「よし、いい子だ。腹を壊さない程度に、たくさん食べろ」
「はい、がくぽさま」
にっこり笑って素直に頷くカイトに、がくぽは離れがたく、内心でため息をこぼした。
せめても客がいないときの食事は、もう少し距離を詰めて、カイトの体温や香りが感じられる距離でしたい。
カイトが堪えているというのに、それが常識で育った自分が心折れてどうすると思うが、折れたい。折れることで進展したこともあっただろうと、無闇と演説をぶりたい気分だ。
「がくぽさま?」
「いや」
なかなか離れないがくぽに、カイトは笑顔のまま不思議そうに首を傾げる。
さすがに背後の家宰の視線が、威圧を増して来た。主を威圧するとはいい度胸だと思うが、実際はそれくらいの気概があるほうが、なににつけ使える。
今日のところは引き下がってやるがと、誰かへとなにかしら、心の中でのみ遠吠えしたがくぽに、カイトの表情がぱっと輝いた。
「あ、あのっ、そうだった!」
「ん?」
どうしたと、顔を向けたがくぽに、カイトはきらきらしい笑みを向ける。わずかに腰を浮かせると、合わせて屈んだがくぽの耳にそっとくちびるを寄せた。
「ぁの、あのね……?初めのとき、味を変えましたって、いわれても……やっぱりちょっと、口をつけるの、こわかったんです。そしたら料理長さんが、これはお小さいがくぽさまが、大好きだったものですって言って。だから僕も飲めて、毎日でも平気なくらい、好きになった、………ん、です」
「……………」
ぐらりと、がくぽの体が傾いだ。
がくぽが生きる上での支柱となっている、カイトだ。今日までで、それなりに理解してきてはいる。カイトは人間ではない――ではなにかというと、不明だが。
「ぇへ、がくぽさま………」
「ああ、うん。そうだな………お小さいというか、今でも好きだったらしいと、判明はしたな………『器』が限定されるが」
疲れ切ってつぶやいたがくぽは、うっそりと体を起こした。領主へ讒言するための武装を探す家宰へ、気怠く手を振る。
「やはり料理長に、報奨金も渡しておけ。同じだ。俺の私財を削れ。ついでに、あとで覚えておけよ糞爺とも伝えろ」
「がくぽさま?」
きょとんとするカイトを置いて、今度こそがくぽは自分の席へと戻った。
カイトがなにかというのは、不明だ。人間ではない。確かなのは、それだけだ。
自分の成長を自分で操り、止めるも進むも自由自在だ。出来ること出来ないことは一応あるらしいが、明後日な進化を遂げることもある。
その、明後日な進化だ。
カイトが、がくぽのためだけだと限定して出した、男にあるべからざる乳。
甘かった。味も香りもだ。
遥か昔には母親の乳を吸って成長したがくぽだが、すでに味も香りも記憶にない。が、人間の乳の味や香りが、家畜のものとそう大きく変わらないだろうとは、推測できる。母乳の出が悪いときには、家畜の乳で代用することもあるくらいだ。差異は、ヤギや牛と同じ程度だろう。
そこでカイトだ。カイトは家畜ではないが、だからといって人間ですらない。
そう、人間ではない。
カイトは二度試して、どちらもひと口でへこたれるほど、家畜の乳がだめだった。
一年という短い生で、口にしたのはたった二口。味や諸々に対して、嫌悪感もあるだろうが知識も経験も浅い。
そこに、料理長が出した特製の――もはや家畜の乳とは言えない、加工飲料だ。
ここ数か月、毎日のように飲んだカイトにとっては、乳といえば自然と、あの味と香りが思い浮かんだだろう。
甘かったのだ。味も香りも。ついでに言えば、ひどく覚えがあった。
覚えもあるはずだ――どういう原理か、カイトは出せそうだから出すと決めた明後日過ぎる進化の過程で、味と香りをよく馴染んだものにしたのだろう。しかもあれは、がくぽの好物だという刷り込みがある。
がくぽのための限定品なら、がくぽの好きな味にもするだろう。
今の今まで、カイトがあの特製飲料を飲んでいたことに、気がつかなかったが――
「朝から疲れた」
思いつきを確かめたのは良かったが、まだ朝だというのに異常に疲れた。
領主としてなんとか、最低限の威厳を持って椅子に戻ったがくぽに、伝えるのは構いませんが、おそらく返り討ちに遭うと思われますがよろしいので?という、実直に過ぎる家宰の言葉が届いた。
「ふっ」
笑うと、がくぽはぱりっと皮の張った腸詰に肉叉を突き刺し、大口を開けてかぶりついた。
がくぽには、あまりの不調法ぶりに目を見張る家宰の後ろに、肝心要の料理長がにっこり笑っているのが見えていた。