恋より遠く、愛に近い-第5話-
「じゃないんだよ」
なでなでよしよしをおよそ十分ほども堪能し、カイトがそろそろ飽きてくるころ、絶妙なタイミングでがくぽははっと、顔を上げた。
タイミングこそ絶妙であったが、がくぽがカイトの醸す倦みかけの空気を読んだわけではないということは、はっきりしていた。
もしも機微に敏いと言われる機種としての真価を発揮したのであれば、こうまで愕然とした表情を晒す理由がないからだ。
なにせ明夜星がくぽだ。もしもカイトの醸す倦んだ空気を察して反応したなら、むしろ非常に得意そうに、恩着せがましく主張するはずだ。仕様がないから赦してあげるよと。
さもなければ、逆だ。腕がもげるまで撫でていいんだよと、さらなるなでなでを要求する――
「あー……そういえば、なんか言ってたか?ええと…」
カイトは寝起きのように瞳を瞬かせ、こきりと首を傾げた。
寝起きのようなというか、実際この十分ほど、カイトはほとんど寝ているレベルで思考を働かせていなかった。
一応、がくぽの反応を窺いつつ、撫でる場所や角度、力の強弱といったものを少しずつ変えてはいたのだが、これはあまり思考力を要する作業ではない。
いわば単純作業の一種であり、眠いもとい、思考がひたすら暇だ。
暇だがとりあえず体は動いているので寝ているわけでもなく、しかし寝ているのも同じほど、思考は動いていない――
こんなにぼんやりぼややんと過ごす時間は、名無星カイトの日常には滅多にない。なかった。
ごく最近だ。こうして、明夜星がくぽをあやしなだめているときのみの。
補記しておくと、持て余すほど暇なカイトに対し、がくぽはそこまで暇ではない。
つまり、なでなでよしよしとあやしなだめられることに浸りきり、堪能し尽くすことに全力を注ぎこんでいるからだ(それは暇と同義だとあなたは思うだろうか。なにが違うのかと首を傾げるかもしれない――しかしなんであれ、『全力を注ぎこむ』手合いは暇ではないということに世間ではなっている)。
とにもかくにもその穏やかな時間も唐突に終わりを告げ、がくぽはしがみつく腕は離さないものの、ようやく自分から顔を上げた。そうでなくとも切れ長の瞳をさらにきっとさせ、カイトを睨む。
恨みがましい。
しかもきっと、逆恨み以外のなにものでもない。
そう予測しつつ、しかしカイトはなぜか、胸がきゅうっと締まるような心地を覚えた。不愉快なそれではない。心地よいかと問われるとそれはそれで答えに詰まるのだが、とにかく決して不愉快なものではない。
働きが鈍ったままの思考でなんだろうと、うすらぼんやり感覚を追いかけたカイトだが、追いつく前にがくぽが声を上げた。
「だからあんたたちだ、あんたたち。あんたたちきょうだいときたら、そろってうちの兄さんを誘惑してっ………僕にいったい、なんの恨みがあるんだっ」
やはり逆恨みだった。
カイトは推測を確信に変えつつ、眉間を揉んだ。兆す頭痛を散らすそぶりでぼやける思考も覚まし、呆れた顔でがくぽを見下ろす。
「なんなんだ、誘惑って………おとうとはともかく、俺はおまえの兄になんにもしてないだろ」
――菓子折りは渡したけれど。
言いながら過った思考を、カイトはばかばかしいと流した。
不仲のおとうとから、できたての恋人の好物を聞きだすことは、なかなか苦労した。
が、とにかく苦労の甲斐はあって、聞きだした内容は正しかった。もちろん、そういうところで嘘の言えるおとうとでないことは、カイトもよくよく知っているのだが――
カイトが差し出したものを素直に受け取った明夜星カイトは、ブランドと中身を確かめるや、きらきらとまばゆく表情を輝かせた。それこそ同じKAITOである名無星カイトであっても、見惚れるほど。
誘惑したというならそれこそ、明夜星カイトのあのきらきらぶりがまず、うちのおとうとを誘惑したのではと思うカイトだが、明夜星がくぽには言わない。
忖度しているわけではない――すでに言ったことがある。
明夜星がくぽが八つ当たりに現れた当初だ。未だ名無星カイトも諦念を固めて服を着せたものとなっておらず、なにより『明夜星がくぽ』というものをまったく理解しておらず、だからこそまともに反論した。してしまった。
うちのおとうとがどうこうしたのではなく、おまえの兄がまず、うちのおとうとを誘惑したのではないのかと。
それに明夜星がくぽは胸を張り、むしろ呆れ返ったとばかりの態度で、きっぱり返してきたのである。
――当たりまえでしょう!兄さんだよ?兄さん見て誘惑されない【がくぽ】がいたら、それは【がくぽ】じゃないから!
つまり、まあ、………――『そう』いうことなんである。
言うだけ無駄なのだ。
こういったことは、ままある。ことに、明夜星がくぽが相手であると、非常に高い頻度で。
今さらながら、ここひと月の苦労がのっしりと伸し掛かってきて、カイトは非常に疲れた。
そのカイトに構うこともなく、がくぽはしがみつく腕にやたらと力をこめる。
「なにが『かっこいー』だ。『すてき』だ……ちくしょう」
「はあ?」
悔しそうにこぼされた言葉を拾い、カイトは明夜星カイトと出会った場面を改めて思い返してみた。
KAITOだけを演者として集めたイベントに、参加した際だ。
そろそろ出番だからと控室から顔を出したところでちょうど、出番が終わったらしく下がってきた明夜星カイトと会った。
それでとりあえずここで会ったが百年目を実行し、用意して以降しばらく、どこに行くのでも持ち歩いていた菓子折りをようやく渡したと。
ところで『ここで会ったが~』で会うのは、だいたいが仇である。渡すのは復讐の、あるいはかたき討ちの引導である。
つまりカイトが渡したものと、そのときの心境がいかなものであったかという話だが。
とにもかくにも、そこで、該当の言葉だ。
明夜星がくぽがこぼした兄の、明夜星カイトの、名無星カイトに対する感想らしい、『かっこいい』と『すてき』。
KAITOと思えないほど鋭敏と称されるカイトの思考は今日もよく働き、なるほど、これですべて謎はきれいに見通せた。
「衣装か。確かにおまえの兄の衣装と、ずいぶん系統が違ったものな。でも今回、曲調がハードだからそれに合わせただけで…」
「はあ?」
――明夜星がくぽに対しての名無星カイトの口癖を、そのがくぽのほうが返してきた。それも、カイト以上に不信感を山盛りに。
カイトは瞳を瞬かせ、不思議そうにがくぽを見下ろした。
「違うのか?――じゃあ、パフォーマンスか?でもおまえたち、あそこでしばらく揉めてたんだろ、どうせ。俺のステージには、間に合わないよな?」
首を捻りつつ、あと思い当たれそうな候補を探すカイトに、がくぽはぷるぷると震えた。
ぷるぷるわなわなと震え、とうとう、しがみついていたカイトから手を離す。ばふばふばっふんと、ベッドを叩いた。
「あんた、ほんっっっとにKAITOだよっ!もうほんっっっと、KAITO!別に忘れてたわけじゃないけど、ああもう、ほんと、KAITOっていうのは……っ」
「………」
喚き散らしたがくぽはがっくりと項垂れると、今度はカイトの太腿に顔を埋める。
そのがくぽを、カイトは瞳を瞬かせて見た。
――それでも兄は、ほんとうにKAITOなのかっ?!
喧嘩となると、おとうとは必ずそう言った。喧嘩とまで発展しないときもだ、よくそう腐した。
名無星がくぽにとって兄:名無星カイトは、KAITOではない。
いや――これに関してはおとうとの感覚だけがおかしいというわけでもなかった。カイトはこれまで、出会っただいたいのひとからKAITOらしくないと言われてきたのだから。
だというのに明夜星がくぽは、カイトをKAITOだという。今だけではない。頻繁に、そう言う。なんてあんたはKAITOらしいKAITOなんだと。
名無星カイトは、名無星カイトもまた、KAITOであると。
「こんなあんたのどこがかっこいーんだ、ほんと!意味不明過ぎる」
意味不明を凝り固めて成型し服を着せたものが、失礼極まりないことをカイトに言う。
一瞬は眉を跳ね上げたカイトだが、結局、笑った。
笑う。笑ってしまう――胸の奥の、おくの奥がきゅうきゅうして、どうしてか笑ってしまう。
笑いながらカイトは、太腿に懐くがくぽの頭を撫でた。よしよしと、先に飽きるほどやった動きをもう一度、飽きも懲りもせずにやってやる。
「そうだな。おまえのほうがかっこいい。だから、心配するなって」
「またそういう、いい加減な……」
撫でられても今度は堪能することなく、がくぽは壮絶に据わらせた目を上げた。じとりと、笑うカイトを睨む。
「じゃあ訊くけど、あn………っっ」
「?」
言いかけて、しかしがくぽはひどく中途半端なところで止まった。まずいものを呑みこむ顔でくちびるを引き結び、カイトから目を逸らす。
どこか、今にも泣きだしそうに見えるその顔を不可思議に眺め、カイトははたと気がついた。
がくぽが勢い、訊こうとしたことがなんであったのか、わかったのだ。わかって、思わず、――
破顔した。
――じゃあ、あんたのおとうとと僕なら、どっちのほうがかっこいいの。
会話の流れで考えれば言って当然の、訊くほうが自然なそれを訊けず、呑みこんで、挙句ひどい自責に駆られる。
なぜかといえば、明夜星がくぽにとって名無星カイトはいわば、『失恋仲間』だからなのである。
そう、明夜星がくぽはただ、名無星がくぽのきょうだいであるからという理由だけで、名無星カイトに因縁をつけたわけではなかった。
どんなに不仲であり、どんなに喧嘩をくり返していたきょうだいだとしても――
名無星カイトは、明夜星がくぽが兄へ寄せていたのと同じ種類の好意を、おとうとへ抱いていた。
そして、破れた。あるいは、敗れた。
どちらにしても、同じだ。名無星カイトもまた、今回の一連で痛手を被ったひとりだった。
明夜星がくぽと同じく、失恋した。
ただし名無星カイトのほうは、明夜星がくぽほど明確に自分の想いを認識できていたわけでもなかった。
もしもできていたなら、KAITOと思えないほど機微に敏く器用だと称えられる名無星カイトだ。おそらくおとうとと不仲になることなどなく、もっと良好な関係を築けていた。
そうしたならもしかして、名無星がくぽは明夜星カイトに目を向けることもなかったかもしれず――
けれど常は鋭敏とされる名無星カイトは、ことこの問題に関して、自分のこころをうまく把握できなかった。
肝心のところから目を逸らしているがためにおとうとの神経を逐一逆撫でしてしまい、不仲は加速していくばかり、さらにこころも遠のいていくという、悪循環。
――じゃあ、おまえの失恋の一因は、俺にもあるなと。
初めのころ、ぽつりとこぼした名無星カイトに、明夜星がくぽはひどく呆れたように返した。
――そこを気に病んだって仕様ないでしょ、あんたKAITOなんだから。KAITO相手にそこの責任を押し被せるとか、アタマ悪い以前の問題だよ。僕はわがままかもしれないけど、ばかじゃないんだからね。そこをあんたの責任にする気はないよ。
『かもしれない』ではなく明確にわがままだが、実際、明夜星がくぽは『ばか』ではなかった。
『ばか』ではないから、名無星カイトを見つけた。自分と同じ傷を、あるいは自分よりよほどに深く負った相手を。
そして懸命に労わってくれる。
ともすると『傷』をないものとして動き、癒し難く広げてしまうカイトを。
――こういう『キズ』でもさ、ひとりじゃなくて、ふたりで舐めあったほうがはやく治るかもしれないでしょ。
そんなふうに言って甘えてくる明夜星がくぽを、名無星カイトは拒めなかった。結果、休日となると意味不明な因縁をつけられ、時間を無為と取られようともだ。
無為に取られる時間は、意味不明を成型して服を着せたものと過ごす時間で、まさに嵐の渦中だ。余計なことを考えている暇もなく、気がつけば過ぎている。
明夜星がくぽが帰ったあとはほどほどしく疲れきって、それはそれで余計なことを考える力も残っておらず――
それでもたまに、こうして、『余計なこと』が割り入ってきてしまうことがある。迂闊な話の流れで、避け得ず。
がくぽはきっと、カイトにとっておとうとこそが『かっこいい』ことに未だ違いはないはずだと、すぐに思い至った。なにしろまだ、失恋して一ヵ月ほどしか経っていない。
明夜星がくぽのこころに、未だ兄の存在が重くあるように、名無星カイトだとて――
それでも訊いたなら、カイトは答えるだろう。迷うそぶりもなく、笑って、おまえのほうがかっこいいよと。
そう答えてやらなければならない理由にこころを抉られても、がくぽの頭を撫でて、慰めあやすだろう。浮かべる笑みは傷など存在していないとばかりの、けれどその瞬間も深くふかく深く抉られていく。
泣きそうながくぽは、カイトのためだ。
カイトが負っているであろう傷の深さを思い、案じて、それを話の流れとはいえ、勢い踏みにじろうとした自分を恥じて、ひどく責めて――
明夜星がくぽは、あまえんぼうの、わがまま王子だ。
けれどそれは、ひとの痛みがわからないということと同義ではない。ひとの傷を思いやれず、自分ばかりが傷つき、痛んでいる気でいるタイプではないのだ。
明夜星がくぽは兄とマスターとに目いっぱい、愛情を懸けて育てられた。それこそ、蝶よ花よとばかりに愛おしまれ、大事に大切に育てられた結果としての、あまえんぼうのわがまま王子なのである。
がくぽの言動には常に、自分は愛されているという確固とした基盤がある。たとえ兄が自分の想いに気づいてくれず、別の男を選んだとしてもだ――
だからといって『おとうと』として愛してくれたことまでが嘘になるわけではないと、がくぽはきちんと理解していた。
未だ尽きせず注いでくれる愛情すら偽りであると拗ねられるほど、兄がおとうとに懸ける愛情は軽くなかったし、がくぽも『ばか』ではなかった。
ただ、明夜星カイトはきょうだいを『きょうだい』としてしか、見られない。
それだけのことだ。
それだけのことであるのに、薄情であるとか冷酷であると評するのでは、それこそがくぽのほうが薄情で、冷酷も極まるというもの――
そういったことを理解するだけでなく、容れる度量もある。
それが、名無星カイトが知る明夜星がくぽという男だ。
明夜星がくぽという、あまえんぼうのわがまま王子だ。
カイトは堪えきれず笑い崩れながら、顔を背けるばかりでなく悄然と身も離したがくぽの首に抱きついた。頭を抱えこんで、大型犬相手でもあるかのように荒っぽく、撫で回す。
「おまえのほうだよ。決まってるだろ。うちのおとうとより、おまえのほうがずっとかっこよくて、いい男だ」
「カイトっ」
がくぽのほうが悲鳴のような声を上げて、カイトはますます愉快になってしまった。
抱えこんでいた頭を浮かせ、額に額をこつんとぶつける。あまえんぼうのわがまま王子らしく、いつもいつも自信に漲る花色の瞳が、気弱に揺れていた。
つつき方を間違えれば、これはこぼれだすだろう。
それすべて、カイトのためだ――
「おまえだよ、がくぽ。おまえはやさしくて、かっこいい男だ。おまえは言う前にダメだって自分で気がつけて、気がついたら自分で自分を止めることができる。そういうの、かっこいいって、俺は言うんだ」
「………っ」
言い聞かせるカイトが浮かべるのは、まさに花のような笑みだった。おとうと相手にはついぞ、咲かなかった花。
がくぽは揺らぐ瞳でカイトを見つめ、ややしてぷいと、顔を背けた。
それできちんと解放してやったカイトに、その腹に、がくぽはまたも、タックルをかける。もとい、しがみつく。
「別に、わかってるから。いちいち言わなくてもいいんだよ。僕は賢いんだから」
「はいはい……よしよし」
笑って撫でるカイトに、がくぽはさらにぐりぐりと、抉るように腹へ擦りついた。
「おい」
さすがに痛いと声を上げたカイトに髪を引っ張られたがくぽは、動きは止めたが引くことはなく、吐きだした。
「僕は賢いから……あんたがすっごくかっこいいって、ほんとはちゃんと知ってるから。兄さんに言われるまでもなく、あんたがかっこいいんだってこと、僕は先に知ってたんだから………心配しないでよ」
「あー………」
意味不明だ。
なにを心配するというのか、まったくもって明夜星がくぽの思考回路、論法というのは、カイトにとって謎だ。謎しかない。
これでほんとうにおとうとと同じ機種だというのだから、もはや『ロイド』というもの自体が、カイトにとって意味不明の塊だ。