恋より遠く、愛に近い-第6話-
ひたすら謎が多く、むしろ謎しかなくても、とりあえず褒められたことは確かだ。
カイトは笑いながらがくぽの髪を掴むと、再度、引いた。
「じゃあ、ほら……かっこいい記念に、かっこいい男にココアをつくってやるよ」
だから少し離せと。
要するにご褒美をやると、『おもてなし』してやるから離せと言っているのだが、そのために繋げた言葉だ。これはこれで謎の文脈である。
髪を引かれて素直に顔を上げたがくぽもだから、胡乱な表情であった。
「カッコイイって言いながら、ココアなわけ?」
これは一般的な印象の話となる。
ココアは甘い飲み物であり、もしも形容詞を付随させるとしたら、『かわいい』となるのが大勢ではないだろうか。
たとえばハードボイルド小説などの主役がカフェに入り、注文したのがココアであったらどういう印象を受けるかという。
腐されても、カイトは構わなかった。むしろ不思議そうに、ちょこりと首を傾げる。
「カフェオレのほうがいいのか?」
「その選択肢……っ」
まあ、――個々人の好みあれ、一般的なレシピの話だ。
カフェオレも甘みともあれ、ミルク分が多い。ハードボイルドたり得るかという。
がくぽはがっくりと、またカイトの太腿に顔を埋めた。カイトは相変わらず髪を掴んだままだが、なにしろがくぽの――【がくぽ】の髪は長い。
引き綱の要領だ。きつく掴んでいるのでなく、動くに任せてするすると手の内を流してやると、この程度の距離であればそれでも十分な長さの髪が残る。
残った髪をなんとなしにいじりつつ、カイトは太腿に懐くがくぽを見下ろした。
文句をつけてはいるものの、雰囲気はやわらかい。不愉快なわけではなく、むしろご機嫌――
「いらないのか?」
「いる!ココア!」
再度、ちょこりと首を傾げて訊いたカイトに、がくぽも今度は素直に答えた。まあ、――素直である。
言いながらぎゅうっと、しがみつく腕に力をこめたがくぽに、カイトはつい、吹きだす。髪束を手から落とすと、離れろというように軽く、がくぽの肩を叩いた。
「じゃあ、…っ」
「はいはい、仕様がないね」
言いようこそ手間を疎むようなものだが、がくぽの動きだ。さっと身を起こすと、流れるような動きで立ち上がった。カイトを抱えて。
急な視界転換に目が眩み、カイトは反射でがくぽの首に腕を回した。
しがみついた体を腕に乗せ、難なく抱えたがくぽは軽い足取りでカイトの部屋から出る。
いや、待て――
しがみつき、カイトは視界以上に眩む思考をなんとか整理しようと試みる。
どうして立ち上がれるのか。
――これでまず浮かぶのがこちらの疑問であることに疑問がないので、明夜星がくぽは名無星カイトを『KAITOらしいKAITO』であると評するのだが、一応、この疑問もそうそう的外れというわけでもないので、このままカイトの思考を追いかける。
なぜなら、ふたりの体格差だ。
名無星カイトは特にカスタムしたわけでもない汎用型であり、当然ながら成人体だ。明夜星がくぽの、【がくぽ】のほうが若干、体格に迫力があるものの、そうそう大きな差があるわけではない。
が、軽々抱えた。
それも、一般に俵担ぎと言われるような、いかにも重いものをなんとか運ぼうとする形ではなく、いわば横抱きだ。まるで抱えているのは子供だとでも言わんばかりに腕に乗せているのだが、もちろん抱えられているのはカイトである。オトナである(少なくとも設定上は)。
これでもし、カイトががくぽを抱えようと思ったら、おそらく俵担ぎでも無理だ。
まず持ち上げられない、立ち上がれない、潰れる。
三拍子そろって気持ちよく――まったくもってこれこそ意味不明な表現の最たるものであるが、気持ちよく共倒れだ。
それをがくぽは、ついでに小物を拾ったとばかりの気軽さでカイトを抱え、まさに流れるような動きで立ち上がった。あまりに流麗な動きで無理もなく、カイトはひと瞬きしたら視界が変わっていたという感覚だ(おかげで余計に目が眩む)。
どうやったらこんな動きが可能なのかと。
言っても豪邸ではなく、あくまで日本らしい広さの、庶民向けマンションである。
カイトの部屋からキッチンまでの距離で考えられたのはその程度であり、そもそもどうして抱えて運ばなければならないのかといったことを考えつく暇はなかった。
ただし、もしも距離や時間があったとしても、カイトがそれを思いつくという保証はしかねる。
なぜなら『KAITOらしいKAITO』というのはそういうものだからであり、少なくとも明夜星がくぽが主張するところ、名無星カイトは非常に『KAITOらしいKAITO』であるからだ。
「はい、ココア」
どこか弾む調子で言いながら、がくぽはすとんと、キッチンの床にカイトを下ろした。
いや、最適な擬音表現こそは『すとん』であるのだが、これでは表しきれないところもある。
つまり、がくぽの下ろし方は軽々していたが、丁寧だったということだ。重労働の果てに投げだすようにするとか、カイトの体を傷めるような扱いは、いっさいなかった。
動きに合わせてがくぽの首から手を離したカイトだが、なにをするより先に、なんとも言えない顔で相手を見ることは堪えられなかった。
ここで強調のためのただし書きをくり返すが、ただし、その『なんとも言えない顔』の内訳はあくまでも、『どうして成人体を抱えて身軽に立ち上がり、かつ、軽々運べるのか』というところに止まる。
『どうしてまったき成人体であり、ことにどういった関係でもないというのに、横抱きで家のなかを運ばれなければならなかったのか』というところには、やはり行きつかない。
「なに?」
「いや………」
見返すがくぽは、むしろ無邪気だった。
より正確に言うなら、顔には『ココア』としか書かれていなかった。それもでかでかとした『ココア』である。今ならオプション:きらきら付きだ。お得感は個人の感想で、万人に保証するものではない。
しかし一枚しか欲しくないフライパンが二枚三枚になる(収納が圧迫される!スペースは一枚分しかないのに!)とか、欲しいのはフライパンだけであるのにさらにフライ返しや行平鍋までついてきてしまう(それを減らした分の、さらなるお値引きをこそ要求したいのが人情ではないのか?)ようなオプションよりは、ずいぶん良心的であるとカイトは考える。
それで、疑問もなくそういう結論に行きついたので、カイトはいろいろ諦めた。
なにしろこの、意味不明を成型して服を着せたものと過ごすとき、カイトは諦念を成型して服を着せたものであるのだから。
さて、第4話で説明したとおり、名無星家のキッチンというのは戸棚という戸棚から扉を外し、配管までもが丸見えという仕様である。一応、カウンタを挟んでリビングダイニングと隔ててはいるが、とにかく見晴らしというか、見通しがいい。
これを初めて見たとき、明夜星がくぽは特に驚くでもなく、むしろ平然と頷いた。
――ああ、インダストリアル系だっけ?『らしい』ね、いよちゃん。がんばったじゃん。
この感想を聞いた出宵は、それはもう、喜んだ。なにしろ自分のロイドからは、予算切れ扱いされたのである(同じく第4話を参照されよ。それでも一応補記しておくと、失礼だったのは兄のほうだけである。おとうとは失言していない。フォローもしていないわけだが)。
カイトからすればどこから目線の上から目線だと呆れる明夜星がくぽの感想だったのだが、とにかく出宵は泣いて喜んだ。
結果、こころが挫けて予定未定の白塗りであったリビングの壁に、レンガが貼られた(こういった用途のために開発された、薄っぺたい、軽量レンガのことである)。壁の隅、一部分だけの装飾だが、休日を潰し、かつロイドきょうだいもそろって手伝わされての、家族総出のDIYであった。
ただ言うなら、カイトはこの、レンガの装飾は気に入っていた(もちろん炭ついた古木の梁に勝るものはないという意見に変わりはないが)。
とにもかくにもこのキッチンのいいところは、なにがどこにあるかすぐわかるところと、取り出すのに手間が少ないということだ。
すぐわかって手間が少ないということは、なににも勝る正義だ――ことにこう、どこに行くにもなにをするにもべったりと張りついたままの明夜星がくぽがいるようなときは。
棚の上のほうにあるものを取ってくれと頼めば素直に取ってくれるが、それ以外に、がくぽは特に手伝うわけでもない。
できもしないくせにあれこれと口うるさく指図するわけでもないが、まったく比喩でなくべったりと張りついているので、それはもう、背後から伸しかかるように腕を回すか、腰から腹へと腕を回すか、とにかくほんとうにべったり張りついたままであるので、邪魔だ。
いや、――いや。いくらどうでも、そういう言い方はどうだ。
であるからしてつまり、動きが逐一阻害されるし、制限されるし、自由がなく、そう。
邪魔だ。
大事なこと以上に真実であるので三度言うが、非常に邪魔でしかないがくぽを背後霊に、カイトは器用に動いた。なにしろ、つくり馴れている。
ちなみにカイトの『ココア』は、すでに調味料もろもろを配合済のパウダーキットをミルクに溶かしてつくるものではない。製菓用のココアパウダー、甘味もバターもなにも入っていない純パウダーに、自分好みの味付けをしてミルクと混ぜるものだ。
これはパウダーが、いわゆる『だま』になりやすいところが難点ではあるのだが、とにかくまったく自分の好きなように味付けができるというところがポイントだ。
覚えるともう、市販のキットココアを飲むことができなくなると――
これはカイトに『餌付け』された出宵の言いようだが。
「♪」
手伝うわけではなく、だからと大上段に構えて指図するわけでもなく、がくぽはただたのしそうにカイトの作業を見ている。
カイトもカイトで、作業の邪魔でしかなくとも邪険にすることはなく、好きに張りつかせていた。
まずは必要な材料をすべて作業台に並べる。ココアパウダーに、砂糖、塩、ミルク――あとは保温ポットから、朝に沸かして入れておいた熱湯を少々。
初めにカップの底、1センチ程度に熱湯を注ぎ、そこにパウダーと砂糖を好みの量、それに塩少なめひとつまみを投入したなら、スプーンなどで根気よく掻き混ぜてだまを潰していく。
だまがなくなったらミルクを入れ、軽く掻き混ぜたなら電子レンジで1分程度あたためれば出来上がりだ(ちなみにどんなに熱々が好きであっても、電子レンジでミルクをあたためるときは説明書きの範囲を超えてはいけない。でなければミルクボムで、それはそれはひどい地獄を見ることとなる)。
「あんたのココアって、中毒性のなんかだよね」
「マスターもそう言うな。ほら、そっち座れ」
がくぽのためのカップを電子レンジに入れたところで、カイトはカウンタへ移動するよう促した。しかし腰に回されていたがくぽの腕は、むしろ力を増してカイトにしがみつく。
「こら」
「だってまだカイト」
「ぅおったまげえっ?!」
がくぽが駄々を捏ねようとしたところで、リビングダイニング、つまりキッチン外から素っ頓狂も過ぎる声が上がった。
カイトとがくぽがそろって顔をやれば、こころの底から竦み上がったというような表情を晒す人間――名無星出宵がいた。