恋より遠く、愛に近い-第7話-
「ああ、おかえり、マスター」
「なんだ、いよちゃんか。ていうか、『おったまげ』?って、なに、カイト?」
出宵が、ほとんどひっくり返りそうな風情で壁に張りついているのに対し、確認したロイドたちの様子は非常に平静だった。カイトは落ち着き払って迎えるし、がくぽといえばすぐに興味を失い、またカイトにじゃれつく。
じゃれつかせつつ、カイトは出宵のカップにココアをつくり始めた。
「すごくびっくりしたってことだな」
「うん、がっくんね。がっくん……いらっしゃい!いやわかってた。ボクもちろんわかってたからほんと!」
ぶつくさと言いつつ、出宵はカウンタまでやって来た。カウンタに据え付けの椅子の、三脚あるうちの真ん中に座ると、キッチンを覗きこむ。
なんとなし引きつり気味であった表情が、カイトの手元を見てぱっと輝いた。
「ココア!」
そして蕩けた表情まま、わくわくそわそわと、椅子の上で体を揺すり始める。
まあ、おそらく、なんというか、カイトのつくるココアのおいしさはきっと、天にも昇る心地なのだ。さもなければ翼を授けるというか――
どいつもこいつも成人済の分際ながら、どうしてここまでココアに対する期待の高さが並ではないのか(しかしこの感想は偏見である。そもそも先の、第6話だが、がくぽの『中毒性のなにか』という発言に対し、カイトも返していたではないか。マスターもそう言うと)。
「タイミング良かったな」
マスターの期待をさらりと流しつつ、カイトは電子レンジからがくぽ分のカップを取り出す。ふわふわと、まず広がるのが無視できない存在感を放つチョコレートの香りだ。
思わず顔が綻んでしまう香りとともに湯気を立ち昇らせるカップを、カイトはカウンタに置いた。
続いて電子レンジに出宵分のカップを入れ、600W50秒でセット――
電子レンジの利点はこれだ。各人各様の熱耐性に細かく応えられるのである。たとえば猫舌の出宵にはぬるめに仕上げるといった。
「ほら、がくぽ…」
「あのさ、『タイミング』って…もしかして、帰って来る時間だから、ココア?」
再び、カウンタに移動しろと促したカイトからやはり離れることはなく、がくぽは胡乱な様子で訊いた。
つまり、カイトがココアをつくり始めたのはマスターが帰って来る時間を見越した、マスターのための動きだったのではないかという。
『カッコイイ男』へのご褒美かなにかであったはずなのに、マスターのついでであったなら厭だという、あまえんぼうのわがまま王子らしい疑念で、お駄々だ。
格好良さの欠片もない。
カイトは笑って、自分の腹を締め上げるがくぽの手の甲を叩いた。
「タイミングだ。おまえの分は、おまえのためだよ」
「……」
普段の名無星カイトの甘さをビターチョコレートと喩えるなら、今はそれこそミルクチョコレート並みだった。
それでもがくぽはそんなカイトを疑り深く見る。
カイトは構わず自分のカップに湯を注ぎ、ココアパウダーを入れ、砂糖と塩を落として掻き混ぜた。
その間に電子レンジが終了音を響かせ、カイトは一度手を止めると、出宵のカップを取り出した。陶製のティースプーンを追加でカップに入れると、カウンタに置く。
「ありがと、カイト!んで、あ、いや」
「おとうとなら、夕方だ。17時ごろ帰ると聞いた」
「っ、うんっ」
満面の笑みから、どこか泡を食ったように言葉を呑みこんだ出宵に、カイトはさらりと答えた。出宵が訊きたかったことを、正確に察したうえでだ。
――で、がっくんはともかく、うちの子のほうのがくぽは、何時ごろご帰宅だったっけ?
呑みこんだ理由はといえば、その『ともかくながっくん』こと、明夜星がくぽがすぐそこにいるからだ。
それでなぜ呑みこまねばならないのかといえば、今日の名無星がくぽの外出理由だ。最近できた恋人、明夜星カイトとのデートのためなのである。
諸事情を、少なくともカイト以上に知っている出宵だ。『家族』であっていろいろ呑みこめているカイトともかく、友人のロイドである明夜星がくぽには過剰に気を遣う。
当人側から言えば、逆にそういう、腫れ物扱いをされたほうが面倒なのだが、加減だ。
気を遣われなければ遣われないで腹が立つし、まさにさじ加減が微妙過ぎて、難易度がチートでしかない。そしてもちろん、出宵にそういったスキルチートはない。
というわけで、カイトはなんでもないことのように流したし、がくぽといえば、まったく聞き流していた。
そもそもカイトに張りつき、その作業を眺めることのほうに熱中したままである(自分のマスターでもなし、明夜星がくぽにとって出宵の優先度はなかなかに低い)。
「まあ、なんていうか、がっくんはほんと、ねこみたいな子だよね」
ぬるめに立ててもらったココアとはいえ、出宵はスプーンでくるくる混ぜながらふうふうと息を吹きかけ、さらに慎重に温度を調節する。そうやって飲みごろを計りつつ、呆れたような、感心したような声音でこぼした。
これは一般論の話だが、一般に【がくぽ】シリーズといえば、物難く、忠義に生きるサムライ気質の特徴から犬に喩えられることが多い。
がしかしだ。かかしだ。明夜星がくぽにはそういった、特徴的な物難さが感じられないのである。
もしも辛うじて犬に喩えるとしてもだ、傍若無人にころころと、こけつまろびつで駆けずり回るもこもこの毛玉ボール期、こいぬがせいぜいだろうという。
そうやって結局、ココアをつくっている間に離れてくれることはなかった毛玉ボール、ではなくこいぬ、もとい背後霊こと明夜星がくぽを負ったまま、カイトは自分のココアカップを持ってキッチンから出た。
そこでようやくがくぽは離れ、三脚ある椅子の窓側に腰かける。同時に出宵も気を利かせて動き、真ん中の椅子から反対端の椅子に移った(言うなら明夜星がくぽは名無星カイトの『ゲスト』であり、ならば並んで座りたかろうという配慮だ。これくらいの気であれば出宵でも利かせられるのである)。
となると三脚のうち空いているのは真ん中の椅子のみであり、必然的にカイトが座る位置も確定したわけである。
ので、カイトはまず、そこをめやすにしてカウンタへカップを置いた。椅子を引いて、落とす腰を座ったがくぽに引かれ、膝に上がる。
「………うん」
抵抗の余地もなく座る位置が最終確定し、その動きの隙もなく素早いことに、カイトは少しだけ空漠を晒した。
空漠を晒したのは、機敏なほうと称される名無星カイトであってすら追いつかない、動きの速さと器用さにだ。
そう、突き抜けて器用である。カイトの意に添わない動きだったというのに、痛みがない。まったくいっさい、痛みはないわけだが――
明夜星がくぽというのは、とにかく意味不明な因縁をこれでもかとつけ、駄々を捏ねまくるわがまま王子であるのだが、こういったときにカイトを痛めつけることは厳としてやらなかった。
そこは評価に値する。器用で、そう、『かっこいい』男だ。
だからこれ以降は大人しく、ココアを飲むことにのみ注力してくれると良い。思考も含めて余計な働きはいっさいせず、ココアを飲むことのみにだ。
「マスター、この椅子、成人オトコふたり分の体重って」
「耐えます。一応。オトコノコノウチ想定で、値段度外視で頑丈なの選んだからボク!でも暴れるとわかんないので、暴れないでくださいカイト。それより訊きたいんだけど、まず気にしたいのってそこかな。まず気にするのがそれで、ほんっとーに、いいかなカイト?!」
淡々と確認したカイトに、出宵はなんとも言えない顔で答えた。
なんとも言えない顔だが答えてくれたし、その答えの中身、もっとも気になる耐荷重の問題もクリアしたため、カイトは返された問いは聞き流した。
恨みがましく言われた『値段度外視』という言葉もある。予算切れ発言を、未だ根に持たれているのだ(第4話である)。つつけば面倒しかない。
それになにより、やっているのはがくぽ、明夜星がくぽだ。
『明夜星がくぽ』とはなにかといえば、意味不明を成型して服を着せたものであり、あまえんぼうのわがまま王子である。
言動の逐一を取り沙汰したところで、理解できる確率があまりに低い。時間の無駄だ。
それに今、がくぽがカイトを抱えこんだ理由は、そこまで意味不明でもなかった。
盾だ。
――正直なところ、明夜星がくぽは名無星出宵を苦手としていた。
『名無星がくぽのマスター』だからではない(それを言うなら『名無星カイトのマスター』でもあるのが出宵だ)。
そうではなく、単純に人間的な、キャラクタの問題らしい。純然と個人の資質が、得意ではないと。
それで、出宵だ。一時的にうちの子たちの関係性について頭を悩ませたものの、すぐに気を取り直した。
うちの長男を盾されてもめげることなく、がくぽへとわずかに身を乗り出す。
「ねえねえがっくん、あのさ、ボクのとこでうた、うたってみーないっ?」
「マスター?」
これに先に反応したのは、ある意味当然ながら、カイトのほうだった。
くり返すが、出宵はカイトのマスターだ。より正確には名無星カイトと名無星がくぽのマスターであり、つまりすでに【がくぽ】を所有している。
でありながら、よその【がくぽ】にうたをうたわせるという。
他者への楽曲提供はよく行われることのひとつだが、今の出宵の言い方だ。ただ楽曲を提供するだけでなく、調声からうたいこみ、演出まですべて、出宵がやるというニュアンスに聞こえた。
ざっくり言えば、自分のロイドと同じ扱いだ。だからもう、出宵は【がくぽ】を持っているというのに。
出宵が乗り出した分、わずかに仰け反って離れていたがくぽだが、さらにカイトの反応を見て、『そう』いうことだと確信を得たらしい。あからさまに、眉をひそめた。
「なにそれ」
けんもほろろといった様子で、返す。取りつく島が、あまりなさそうな。
そう、――『あまりない』だ。
『ない』わけではない。今のところ、はっきりいやだと言ったわけではないのだから。
出宵はボルダリングの名手さながらの鋭さでその小さな取り掛かりを見つけ、逃さず掴むもとい、放りだしていたバッグのなかから、携帯端末を取り出した。いくつか操作して、コミュニケーションツールを呼びだす。
「なにも、ボクの勝手なアイデアってわけじゃ、なくてさ…カイトラさんと話してて、ちょっと。取り返っこしてうたわせてみるの、お互い?マスタもロイドも、どっちもスキルアップになんないかなって。いう」
ツールを呼びだす間にそう説明し、出宵はその件と思しき画面をカイトとがくぽとに向けた。
<カイトラ:良ございますよ~。うちの子に話してみて、OKしたら~>
画面表示には限りがあり、話の端緒や全容といったことまでは不明だが、とにかくそこにはそう、書いてある。
眉をひそめて読み、がくぽはカイトの腹に回した腕に、縋るような力をこめた。
「カイトと?」
「…」
感情表現の豊かな明夜星がくぽにしては淡々とした、感情の窺えない言い方だった。
思わずきょとんとして振り仰いだカイトだが、がくぽが見返すことはない。ただ、言い方同様、見た目にも窺える感情がなかった。あるいは複雑に入り組み過ぎて、カイトに読めない――
問われた出宵といえば、あっけらかんと答えた。
「ううん。きょうだいそろってお取り換え予定。ボク明夜星家担当、カイトラさんボクんち担当っていう感じの」
「じゃあいやだ」
「はっっやっ!」
がくぽの答えも確かに早かったが、出宵の応えも早かった。しかもまったくめげていない。
そもそもカイトラこと、明夜星家マスター:甲斐の答え方もある。マスターふたりにとって、ロイドがこういう反応を返すことは想定内であったということだ。
それでも、粉をかけてみる。
そして粘る。
それが出宵であり、そう、出宵は粘るのだった――
「だいたいにして口で言えばわかるのに、なんでわざわざ画面まで見せるわけ?俺のこと、どれだけばかだと思ってるのっていう話でしょ」
がくぽは横を向き、すれた様子でけっと吐きだす。取りつく島のなくなってきた態度だが、出宵は言うなら、オリンピック級のボルダーだった。
一度掴んだ以上、簡単には落ちない。
「そりゃ、明夜星ルールじゃん。うち…名無星家じゃあ、まず見せないと進まないもん」
「はあ?」
「そうだな」
「………は?」
いかにも胡散臭そうに返したがくぽに、抱えこまれているほかはわりと暇なため、ひとりココアを啜っていたカイトがこっくり頷いた。
「マスターは目的を遂げるためなら手段を選ばないからな。嘘も方便が多用され過ぎて軽いったらない。から、まず証拠だ。おまえもな、うちのマスターが振った以上、そう大したことでもないと思っても、こういう話は証拠をまず押さえたほうがいい」
「……信用、なさ過ぎじゃないの」
ここまでがくぽが浮かべていた『胡散臭さ』はある程度偽装だったのだが、本気の色合いを帯びてきた。
しかし出宵はめげない(だから明夜星がくぽに苦手とされるのだが、そんなことは出宵の知ったことではない)。
「だいじょーぶ!『犯罪行為、ダメ、絶対』は厳守してるから!じゃないと、そもそもうちの子とも遊べなくなって、本末転倒だし!」
胸を張って言う。いや、胸を張って言う内容なのかこれは。
閉口するがくぽだが、カイトにとってはいつものことだ。淡々と返した。
「その証拠は?」
「は?」
――念のために補記しておくと、カイトが証拠提出を求めた先はマスター:出宵である。『厳守している』という、その証拠を見せてみろと。
ほとんど愕然として抱えこんだ相手のつむじを見つめるがくぽに、構うこともなくつむじ違う→カイトは端然と続けた。
「でもな、証拠を押さえたからって油断するな?その証拠の証拠が必要なことも多い…がんばれ」
「なんで他人事なの!」
なんだか背後でがくぽの声が涙を帯びた気がしたが、まあ、カイトにとっては他人事に等しい。縋るあまり、がくぽの抱く腕が腹に食いこんで痛いし苦しいが、だいたい他人事だ。
なにしろ今、マスターが話を振っているのはがくぽだし、――
カイト個人に振られたとしても、可もなく不可もなくという案件だからだ。
<マスター>以外に調声されると考えると、確かに少し、腹がもやつく。が、これは第一義に『マスター』を設定されるロイドの条件反射だとわかっているから、治めるも容易い。
それにカイトは相手のマスター:明夜星甲斐について、明夜星がくぽが名無星出宵に抱くほどの苦手意識を持っていなかった。
マスターと、出宵と気が合うくらいなので、一筋縄ではいかない相手だとすでに認定しているが、同時に甲斐は、明夜星家のカイトとがくぽのマスターでもある――
カイトが欲しい『証拠』としては、それで十分なのだ。
「てか、がっくん。カイトとうたいたいの?ボクんちの?それならオーケイくれるの?」
「ここぞとばかりに食いついてくるな、こわいから!」
「かわいいっ!」
「うざいっ!」
さて、カイトがひとりのんびりとココアをたのしんでいるうちに、挟むふたりが大分、白熱してきた。
普段なら逆だ――カイトとがくぽ(名無星がくぽである)がマスターを挟んで座り、白熱している。
なるほどこういう感じなのかと、カイトがまったく他人事扱いで納得し、頷いたときだ。
来客を告げるインターフォンが鳴り響いた。まるで、なかなか仲裁に入らないカイトの代わりとばかりに。
とはいえ、特に思い当たる予定がない。
時計を見れば、15時半だった。おとうとが帰る予定時刻にも早いが、そもそも鍵を持って出かけている。帰って来たにしても、わざわざインターフォンを鳴らす理由も習慣もない。
勢いを削がれ、つい黙りこんだ三人が意味もなく互いの顔を確かめる刹那の間に、再びインターフォンが鳴った。
それが妙に間延びして聞こえる気がして、カイトは内心、首を傾げた。
傾げながらも、がくぽの腕が緩んだことをこれ幸い、身軽に立ち上がってモニタの前へ行く。
相手によってはマスターへ繋ぐが、そう、『マスター』が在宅である今、とりあえずの第一応答が法的効力の弱いロイドである自分であっても、そう問題はないはずだ――(ここの反応と判断の速さが、カイトがKAITOらしからぬと評される原因のひとつなのだが、それはともかく)。
考えるより先の勢い、あるいはモニタの前に来たときの惰性というものだ。
誰が来たものか確認する前に応答ボタンを押してしまったカイトだが、遅れてそこに映る姿を認め、反射的にカウンタを振り返っていた。
追ってこちらへ向かうために腰を浮かせる出宵、その奥、悠然と座り、ようやくココアに口をつけられた客、明夜星がくぽ――
『…にちはー!明夜星カイトですー!カイトさーん、いませんかー?』