恋より遠く、愛に近い-第8話-
さてここで少し、時間を巻き戻す。ところも変わり、街中によくある大手チェーンのカフェである。
本日もそこそこの混雑ぶりを見せる店内の、少し奥まってひと目を避けることのできる席を確保できた名無星がくぽは思う存分、頭を抱えていた(実際の行動としては顔の前面に両手のひらを広げ当てて覆い隠すという、どちらかといえば泣いているときのしぐさに近いのだが)。
とにもかくにも名無星がくぽは懊悩していた。懊悩していたし、恨み骨髄の気分でもあった。
つまりだ。
――ヤってくれたな、兄!
という。
名無星がくぽの『兄』といえば名無星カイトであるが、彼がさて、いったいなにを『ヤって』くれたのかといえばだ。
「がくぽ?ねえ、がくぽ?できればおれね、今日じゅうには買い物して、カイトさんにお返ししたい。じゃないと、あさってくらいまで、また、スケジュール埋まっちゃってるし…カイトさんだってお仕事あるでしょ?どんどん遅くなっちゃう」
向かいの席に座ったカイト、つい先ごろ関係を進展させたばかり、なりたて恋人である明夜星カイトが、ひどく無邪気に追い討ちをかけてくる。
いつもであれば、恋人が無自覚に振りまく愛らしさにでれでれとやに崩れる顔をなんとか誤魔化すため、こういった動きを取りがちながくぽだ。
しかし今日は違った。今は違った。
だから、そう。
「大丈夫だ、カイト…返礼が多少、遅くなったところで咎める兄ではない。というより、礼を欲して起こした行動ではないと思うゆえ、」
「やだ。おれが早く会いたい。ええと、じゃなくて、お返ししたい。です?」
「うん良し、疑問符付きだな今の!あとな、全部すべてきっぱり聞こえておるからな、カイト…っ!」
呻いて、がくぽは顔を覆い隠したままテーブルに伏せった。
頭を抱えるというより、本格的に泣いているような態度だが、実際、がくぽの内心は号泣だった。
それでもこういう恋人が愛らしくて全身が燃え立つようだったりするがしかし号泣だ。大丈夫、名無星がくぽの情緒は現在、著しく不安定である。
つまりだ。
本日、名無星がくぽはなりたて恋人の明夜星カイトと、久々にデートだった。少なくとも再会するまでは、その予定だった。
ほんのひと月ほど前に想いを通じ合わせ、関係を改めて恋人としてのお付き合いを始めたふたりである。
が、時期が悪かった。
カイトのほうが直近に少し大きな仕事を抱えており、その準備にかかりきりとなって、逢瀬もろくにままならない状況となってしまったのである。
その仕事もようやく片づき、束の間のオフとなる今日――
この日はちゃんと時間を取って、ふたりでゆっくり過ごそうと、以前から約束していた。
――うんっ!次のとき、がくぽにちゃんとにっこり笑ってあえるように、おれ、がんばるからっ!
そんな健気なことを言ってくれた恋人に、がくぽは消し炭になるかと思うほど燃え上がったりしたりしたものだが、それで今日だ。待望の日だ。
待ち合わせの駅前からこのカフェまで歩く最中に、だいたいがくぽは打ちのめされ、そしていい具合の席に落ち着いた今となると、完全に沈没していた。
念のために強調しておくが、恋人の前だ。
できたばかり、なりたての恋人の眼前で、比喩でもなんでもなく、がくぽは完全にご臨終だった。いや、――ご臨終とまででは、まだない。しかし片足が棺桶に突っこまれてはいる。
なぜといって、久々に会った恋人がまず振ってきた話題だ。
かかりきりだった大きめの仕事こと、KAITOイベントの最中のことである。
同じく演者であった兄とたまたま会い、ご挨拶かたがた菓子折りをいただいたという。そのお礼をぜひにもしたいから、がくぽに兄の好きなものを教えてほしいと――
一般儀礼的に、なにもおかしな話ではない。あえて強調しておくなら、ごく普通の、非常に常識的かつ良識的な態度である。
そう、もらったからお返しをしたいという、その言葉だけを、額面通りに受け取るのであれば、だ。
――だから厭だと、やめろと言ったのに、ひとの話なぞまったく聞きやしない、あの兄っ!
がくぽは内心、号泣とともに兄を詰っていた。
さてこれで何度目か、しかし懲りず飽かずくり返そう。
名無星家のロイドきょうだい、名無星カイトと名無星がくぽとの仲は、取り繕いようもなく、よろしくない。
よろしくないにも関わらず、兄はあてつけのように、不仲のおとうとに新しくできた恋人へ、菓子折りなぞを渡したのだ――
が、今、名無星がくぽが号泣とともに兄を詰る理由とは、そういう、不仲に由来するものではなかった(ついでに言うと、『あてつけ』で渡したとも思っていない。問題は多々あれ、兄は決してそういうやり口は取らないからだ。ので、ほんとうに純然と、『礼儀』として渡したと――わかっていても救われないときは救われないのである)。
では、なにか。
ご臨終しかけの恋人を前に、カイトはおずおずもじもじと、身を乗りだした。決して静かとは言えない店内ではすぐと掻き消されそうな小さな声を、恋人の耳朶にくちびるを寄せ、そっと吹きこむ。
「がくぽ、あのね、ごめんね……がくぽがカイトさんと、その、あんまりうまくいってないの、知ってはいるんだけど……」
「では諦めて」
「うん。会いたいからやだ」
がぶりと耳朶を咬まれ(これが比喩表現であるのか、それとも実際の行動であったのか、そこはあえて明記しない)、がくぽは思考を白く弾き飛ばした。
そう、問題とはまさにこれだ。
がくぽの兄:名無星カイトとは、KAITOキラーなのである。
――なんだそれはと訊かれるなら、同じ言葉を返そう。なぜならそれしかない。
名無星カイトとは、KAITOころり、もしくはKAITOキラーなのである。
どうして『そう』なるのか、がくぽにはわからない。コロばれる名無星カイトにしても、理由はさっぱり不明らしい。
名無星カイトにコロぶKAITOに訊いたところで、だからKAITOであるがためにそういったことに構わないし、あるいは説明能力が独特の発展を遂げていて、聞けば聞くほどもっとわからない。
あえて言うなら、がくぽがよく腐す兄の、KAITOらしさのないKAITOという点であろうか――
とにもかくにも名無星カイトはKAITOころりであり、KAITOキラーであった。
会って三秒で、だいたいのKAITOをオトす。
いや、これはさすがに多分な誇張が含まれているが、しかしだ。かかしなのである。
明夜星カイトを見よ――
だからがくぽは厭だと言ったのだ、兄に。兄手ずから、兄が直接手渡しするなどやめてくれと、せめて自分を介してほしいと。
がくぽは兄と恋人とを会わせたくなかった。なるべく、絶対的にだ。
不仲だからではない。恋人がKAITOだからだ。そして兄が無自覚KAITOキラーだからだ。
せめて自覚があれば、そのときには控えてくれよと頼めば済むが、無自覚だ。
当の本人は至って普通にしていたつもりであり、どうしてKAITOが次から次へところころころころ参ってしまうのか、さっぱりわからない。
――でも、特に困ることもないだろ。友人は多いにこしたこともないわけだし。
お言葉だが兄よと、がくぽは記憶のなかの兄へ喰らいついた。
あれらを友人とは呼べない。親衛隊かフリークかグルーピーか、とにかくまともな友人とは呼ばない――
ここの議論は何度尽くしても、平行線だ。
確かにまともな友人ではなく、親衛隊かフリークかグルーピーかという兄周辺のKAITO事情なのだが、だからKAITOだ。
突き抜けておっとりさんなのである。
――まあ、そこは変わらないわけである。性格や特性まで豹変させるほどではない。
もし『そう』であったらさすがにがくぽも、いや、マスターである名無星出宵も泡を食ってラボに相談し、解決策を模索していたことだろう。
しかして名無星カイトにコロんだとしてもKAITOはKAITO、相変わらずおっとり鷹揚、春の陽だまりのごとき様相であることに変わりはないので、身の危険を感じるだとか、修羅場が多発するだとかいったことはない。
逆に言って、そういったことが滅多に起こらないがために兄の危機感もいっこうに育たないのだが、今、がくぽはかつてないほどの危機を感じていた。未曾有レベルの危機だ。
なにあれ、なんだかんだと腐しながらも危機感が足らなかったのは自分もだという話なんである。
今回、兄がオトしたKAITOである。明夜星カイトである。がくぽの恋人である――
がくぽは今、自身の内の『危険人物リスト』を迷いもなく組み換えた。
最前、今日、カイトと逢うまで、リストの一位にはカイトのおとうと、明夜星がくぽがいた(この理由は第4話以降を確認されたし)。
しかしてその一位を蹴落とし、もはや決して揺らぐことのない、誰とて並び立つことのできない殿堂入り一位に、兄を据えた。
なにより、強く確信もしていた。自身の敗北をだ。
――明夜星がくぽとであれば、がくぽは張り合って五分五分と考えることもできた。だからこそ、その動きを細心の注意を払って確認もしていたし、それとなく威嚇もした。
が、もはやその必要もない。なぜなら無駄以外のなにものでもないからだ。
たとえどんなに細心の注意を払おうが策謀を張り巡らせようが、すべて薙ぎ倒し薙ぎ払い、巨神兵だのロボット兵だの以上の威力でもって無造作に突き進む相手が敵してしまったのだから(しかも後年の、こわれかけのあれらではない。過去に語られる、全盛期のあれらだ。そのうえで『それ以上』なのである)。
敗北以外、ないではないか!
もちろん日常のことであれば、がくぽも正面から兄と対するし、ここまでの敗北を確信しはしない。
が、これはだめだ。ことKAITOが絡んだときは、もはや問題の次元が違う。
圧倒的な存在の前に、まず勝負という概念が成立し得ない――立ち向かうという選択肢など、存在しようもない。
そもそも名無星カイトには戦う意思がまずないのだが、そんなこと、がくぽの知ったことではなかった。知ったことではないが、だからといって手も足も出ない――
たとえ不仲であろうとも、がくぽは名無星カイトのおとうととして、もっとも間近で兄の影響力を見てきた。
ために、よほどにそう、刷りこまれていた。
そういったわけで、ここに、ようやく両想いとなったばかりの名無星がくぽの失恋が決定(仮)したわけである。
ただし、『(仮)』である。『(仮)』とはなにかという話である。
なぜならそうなると必定、明夜星カイトも恋人を失って云々という話になるのであるが、そもそもカイトにそんなつもりは毛頭ないからである。
喩えて言うなら、そう。
推しは推し、ヨメはヨメ、コイビトはコイビトなんである。
似ているようでも、三者が混淆されることは、カイトのなかでは決してない。
「がくぽ…」
揺らぐ瞳で邪気もなく覗きこむカイトを、がくぽはテーブルに伏せったまま、虚ろな目で見返した。
「兄の好きなものな、兄……そうだな、兄は、アイスが好きだな……」
KAITOである。
くり返す、がくぽの兄:名無星カイトはKAITOである。
これに明夜星カイトは、どう返したか?
「わぁあ、そうなんだ…っ!カイトさん、アイス、好きなんだぁっ……!おれとおんなじっ…っ」
両手を胸の前で組んでの、感激の表情である。オプション:きらきら付きである。無邪気が眩しい。
がくぽは堪えきれず、涙で前が見えなくなった。
しかし顔はにやける。情緒不安定を極めた挙句、なにかのたがが、決定的に緩んでトんでしまったがためだ。
ために隠すこともできず、がくぽは泣きながらにやけた。
かわいい、カイトかわいい、なんだこの無邪気かわいいイキモノ、もうこの世のものとか思えない、そうか、そうだったのだ、ここはあの世だったのだ――
だいたいそれが、名無星がくぽの辞世の句だった(これは冗句というものである。おそらく)。
「っていうか、あの、がくぽ」
「カイト、ひとつだけ訊きたい…」
「うんっ?」
戸惑うように覗きこんできたカイトが、間際の願いといった感を醸すがくぽの言いにちょこりと居住まいを正す。その様子もまた、突き抜けて愛らしいの極みだが、とにかくだ。
テーブルに伏せったまま起き上がるよすがもなく、がくぽはそのまま訊いた。
「兄と俺……おまえにとっては、どちらのほうが格好良いのだ?」
――片や思い出のなかのうるわしきあのひと、片や、テーブルにだらしなく伏せり、泣きながらにやけるという情緒不安定を極めた男である。
訊いたのはむしろ、とどめを望んでのことだ。そうとしか思えない。
実際がくぽは、泣きながらにやけるという極めた情緒不安定のうちで、その覚悟を固めていた。ハラはキったので、あとはクビをトばされるの待ちという。
せめて最後は愛したおまえの手でイかせてくれよと。
が。
「え………っ、と…………ぉ、………………っっ」
質問を理解するまでの間があり、吟味する間があり、回答を――
間に間に、カイトは赤く染まり上がっていく。がくぽから顔を逸らすこともできないまま、それこそゆでだこのように真っ赤に、顔だけでなく耳からうなじから、全身の肌という肌にかけて。なぜだ。
――なぜかはいっさい不明だが、まったくもって理解不能の極みというものだが、揺らぐ湖面の瞳がさらに揺らぎ、ゆらゆら揺らぎ、堪えきれない熱を宿してがくぽを映す。
目の前、テーブルにだらしなく伏せり、泣きながらにやける――いや、そんなカイトに、どこか呆然と見入るがくぽを。
涙の痕は残しても、もう泣いてはいない。
表情は緩んでいても、もはやにやけてはいない。
復活の兆しを確かに掴んだがくぽは、自然な流れで身を起こしていた。
そのがくぽを見つめたまま、カイトはもはや頭の天辺から湯気でも噴きだしそうな様相で(おそらくその前に、駆動系が過負荷に耐えかねて切れる)、羞恥に戦慄くくちびるを懸命に開いた。
「もっ、ちろ、っ……」
ことここに至って、ようやくがくぽは真価を――機微に敏く情報処理に優れるという【がくぽ】としての真価を発揮したのである。
カイトが熱を吐きこぼすより先に答えを拾い上げたがくぽは、堪えきれずそのくちびるにくちびるを重ねていた。
彼らが奥まった、人目につきにくい席を確保できていたことは、誰にとっても幸いであった。日本という国にあっては、ことに。