恋より遠く、愛に近い-第9話-
だからといってこれで問題がすべて解決したわけでは、まったくないのである。スタートと同時にマイナス方向へ爆走したのを、ようやくゼロ地点まで戻したとでも言おうか。
つまりだ。
「兄……兄の、好物、なあ………?」
いつも通り、背筋をきっちり伸ばした姿勢で座るがくぽだが、その表情は晴れなかった。相変わらず、愁眉だ。
ただし言うなら、もとの美貌を活かした愁眉である。先ほどまでの、もとの美貌を無為かつ無駄に堕し尽くしたものとは、まったく違う。
さて、がくぽの恋人は突き抜けて鷹揚が過ぎる性質だったので、先ほど晒された醜態はきれいさっぱり不問とし、要するに忘れ去って、憂い顔の恋人もかっこいいなあと、ほれぼれしていた。
なにが言いたいかというと、他人事だということである。
今、がくぽが悩んでいるのはカイトが振った問いに答えるためである。この憂い顔はカイトがつくったとも言えるわけで、他人事扱いでほれぼれしている場合ではない。
「アイス………アイ、ス………?」
「それはさっき聞いた。ていうかよく考えたら、カイトさんもKAITOだもの。アイス好きでしょ。だから、じゃないやつで…」
さて、この明夜星カイトの発言で気をつけるべきポイントは、『よく考えたら』というところである。
よく考えれば、名無星カイトもKAITOであるので好物:アイスというのはほぼ基幹設定であり、あまりに当然過ぎてなんの足しにもならな答えであると思い至ることができる。
逆に言うならよく考えない限り、そんな当然のことであってすらすっぱんと頭から消え去っているという。
リスペクトのあまり、頭に血が上って失念したわけではない。
それがKAITOというものだという話である。
が、ともかくだ。
カイトが知りたいのは、名無星カイトが自分へ贈ってくれたようなものだ。基幹設定で、いわば殿堂入り好物とでもいうべきアイスとは別に、『自分』として『生きて』きたから見つけた――
「あの、がくぽ……、別に、食べものでなくても………服とか、アクセとかでも」
『自分』として『生きて』いれば、たとえば食べる以外にたのしみを見つけるものも多い。
なにしろKAITOも芸能特化型だ。ファッションへの興味はもとより強い。
娯楽向きでもあるからマンガや映画などに嵌まるものも多いし、あるいは、やはりアイス好きと同じような特性だが、よくわからないガラクタ収集に走ったり――
ほれぼれする憂いっぷりとはいえ、カイトもすべて他人事で恋人を悩ませていたいわけではない。相応に難易度を下げてみたつもりだが、しかしだ。かかしだ。へのへのもへじだ。
がくぽはさっぱり、そういった意味での兄の『好物』に思い当たらなかった。
これはなにも、不仲だからというのではない。
そもそも【がくぽ】だ。芸能特化型ではあるが、情報処理能力の高さも売りとしている。繊細に機微を読み、情報を集積し分析して、豊かな表現力へと変えるための――
表現力に変わるかどうかはともかく、家族だ。
【がくぽ】は『情報』を集めずにはおれないし、まして不仲となれば、なおさらだ。繊細さから警戒心が尖り、先への備えとして、ありとあらゆる『情報』を掻き集めずにはおれない。そういう習性だ。
だからがくぽはむしろ、不仲な兄についてとても詳しかった。詳しいはずだった。
が、思い当たらない。
よく考えても、どう考えても、――
よく考えたら、兄は案外に鷹揚であったよなと。
厳しく激しく、KAITOらしからずの極みで鷹揚さなどかけらもないと思っていたが、しかし実はきちんと鷹揚さも持ち合わせていたよなと。
ふと過った考えに、がくぽは悩むふりでそっと、目の前の恋人から視線を逸らした。
実のところここ最近、このひと月ほどだが、名無星家のロイドきょうだいは以前ほど喧嘩をしていなかった。
なぜか。
がくぽが咬みつくことを止めたからである。
止めたというか、まず堪えるようになった。
もとは、明夜星カイトと付き合い始めたことがきっかけである。
確かにどんな話であっても鷹揚に聞いてくれる恋人ではあるが、それにしてもいつまでも家族のことをぐだぐだと言っているのは大人げないし情けない。
なにより相手が誰であろうと、がくぽが誰かと不仲であると言えば、カイトは気を揉む。
かまってちゃんでは、ないのだ。
心配させたいから、なった恋人ではない。
愛おしみ、安んじて暮らす助けとなりたいからなった、恋人だ。
そのカイトの心配事のいちばんといえば、まあ、だいたい、あまえんぼうに育ててしまったおとうとのことであるが、次点くらいで、がくぽと兄の仲のことも、とてもとても気にしてくれている。
だから晴れて恋人となったとき、がくぽは誓ったのである。あくまでも、自らのこころのうちでのみだが。
いきなり兄と仲良くなるのは、すでにこじれた仲であるために、まず無理だ。
けれど自分から兄に喧嘩を売らないようにすることくらいは、できる。
兄から喧嘩を売られるのは仕様がないし、兄が勝手に買う(なんの気もない言動が癇に障って喧嘩となるような場合である)のも致し方ないにしても、自分からやらなければ、単純計算で喧嘩の率は半減だ――
結果だ。
激減した。
らしからずらしからぬと頻繁に腐していた兄だが、やはりKAITOだった。根本的に、鷹揚なのだ。
がくぽが喧嘩を売りさえしなければ、だいたいのことは流す。少し困ったように考える間を挟んだりすることもあるが、結局、呑みこむ。
以前はその、考え呑みこむまでの間にがくぽが重ねて咬みつき、むっとした反射で返された言葉にさらに逆上したがくぽが喰らいつきとして――
負の連鎖もいいところだが、だからきっかけだ。
兄がなんの気もなく言ったことに、がくぽが過剰反応を返す。先に言った、『兄が勝手に買う』の逆だ。がくぽが『勝手に買う』。
なんの気もなく言ったことであるのにがくぽが咬みつき、喰らいつくから、不意を突かれて驚いた兄も――らしからずらしからぬ機敏さと厳しさを併せ持つKAITOであるから、やられっぱなしでいることなく、喰い返す。
それで結局、喧嘩となる。
がくぽが冷静さをこころがけ、これは兄にとってなんの気もない言動であると見越して流せば、名無星家ロイドきょうだいにはほとんど、喧嘩のたねがなかった。
だからといって、兄がよほどにこころない言動をするのを、無理に堪えているというわけではない。兄はものの言いこそ厳しいが、言っている中身まではそう厳しくない。
――厳しくないのだと、気がついた。
ではなにがそうもといえば、見た目こそKAITOでありながら、とにかくらしからずらしからぬ兄が、ただただ罠だったという。
そうやってよくよく思い返し、ひとつひとつ考えてみれば、むしろ兄はがくぽに親切だったし、鷹揚でもあった。少し過ぎ越していたほど。
「………っ」
堪えきれず奥歯を食いしばり、がくぽは浮かんだ考えを遠くへ投げた。
今さらだ。今さらだ――
今さら思い至ったところで、もはや意味もないどころか、むしろ害にしかならない。がくぽにとっても、兄にとっても、誰にとってもだ。
がくぽに想いびとができ、付き合い始めたと告げた当初、兄も相応に戸惑った様子を見せた。戸惑い、がくぽとの距離を図りかねるような、ぎこちなく、不安定な。
ひと月も経ち、ようやく兄の態度も落ち着いてきたところだ。落ち着いてきたと思ったらこうしてやらかしてくださったわけだが、いい。これくらい、なにほどのこともない。
『兄』に甘えた挙句、自分がこれまでやらかした、そしてこのままやらかし続けることに比べれば、おとうとを思ってくれた兄のやらかしなど、なにほどのことか――
なぜならもはやどうあっても、がくぽは明夜星カイト以外を『そう』とは想えないのだから。
「あのね、がくぽ……?ごめ、んっ」
「うむ」
またもや人目につきにくい席である利点を堪能し、無為な謝罪に走ろうとした恋人のくちびるを掠めて、がくぽはようやく笑みを取り戻した。
「やはり、アイスだ」
「ええ……って、いうか、がくぽ、あの、もう、おれ……」
あまりに深刻さを増したがくぽの様相に、いくら機微に疎いカイトとはいえ、なにかしら感じることがあったらしい。
会ったときからあんなにはしゃいでたのしみにしていた『おねだり』を引っこめようとするのに、がくぽは微笑んだまま、首を横に振った。
「言ってもな。兄はそもそも、『付き合い』が広い。俺の知る限りでも、大概のものをもらい済だ」
「わゎ……っ」
がくぽの言いに、カイトはおそれをなしたように居住まいを正した。
ちなみにがくぽのこの言葉をより正確に直すと、『親衛隊やらフリークやらグルーピーやらからしょっちゅう貢ぎ物をされている』となる。もちろんカイトでは、そんな裏の意図は読めない。
がくぽもまた詳細に解説することはなく、微笑んだまま続けた。
「それで特に歓んだものというとな。俺にはアイス以上のものは、ことに記憶がない。が、ただ、ひとつ…」
「はいっ」
笑みを思わせぶりにしたがくぽにうかうかと誘われ、カイトは身を乗り出した。
がくぽといえば、恋人の無邪気に愛らしいさまを少しばかり愉しみ、堪能したところで(実際は言葉を発せるまでに興奮を治める時間を取ったに過ぎないのだが、はた目にはそう見えるのである。損得は論じない)口を開いた。
「最前、兄が言っていたことがある。『うれしいのは、俺のこと一所懸命考えて、俺のために選ぶ時間を割いてくれたってことだろ。その時間、そいつのこころは俺のものだったってことなんだから…こんな贅沢、ほかにないぞ』とな」
「ふ、わぁ、あ………っ」
一度は沈んだカイトの表情が、きらきらきらと輝きだす。がくぽのよく知る表情だ。
兄を相手にKAITOの、どこにあるのか不明なために解除方法も不明なツボが押されたときの。
この顔を恋人が浮かべることを、受け入れられたわけではない。
カイトにとってはアイドルを応援するような気持ちであったとしても、けれどもし、もしも万が一、兄が本気になって口説くようなことがあれば――
もやつく腹はある。腹は治まらない。
それでもだ。
がくぽはちょこりと首を傾げ、思うこともなく、ただ相手がなにより愛おしい恋人であるがために自然と浮かんでしまう笑みを向けた。
手を伸ばし、身を乗り出すカイトの顎をさらりと撫でる。
「そういうわけだからな、カイト?さすがに嫌いなものは教えてやるが、あとはおまえが自身で、兄に渡すべきものを考えよ――さて、おまえはいったい、どれほどの時間とこころとを我が兄へ捧げてくれるだろうな?」
その恋人の問いに、カイトはどう返したか?
――どうも返さなかった。いや、返せなかった。
恋人のあまりに過ぎて蕩ける色香に完全に中てられ、駆動系が軽く灼き切れたからだ。
これをとても簡単に言うと、意識が飛んだのである。