恋より遠く、愛に近い-第10話-
さて、そういったてんやわんやの末、→至って戻ル:現在、名無星家の玄関前である。
「あ、カイトさんっ」
「ああ…」
なにを思ったにしろ、ほどなく玄関を開けた名無星カイトはすぐ、あたりを見回した。
そもそも、おとうととデートであったはずの明夜星カイトである。ひとりで来るはずもない。きっと案内役としておとうとがいっしょにいるはずであり、
「…っっ」
「……っ」
――もちろんいっしょに来ていたおとうと、名無星がくぽだったが、その姿に名無星カイトは軽く、目を見張った。
明夜星カイトから二歩分ほど後ろにいたおとうとは両手を拝む形に合わせ、兄へと向かって頭を下げていたのである。
気位の高いおとうとが、不仲の兄を相手には滅多に見せないお願いポーズだ。それも最上級に近い。
ここまでしてなにを頼みこんでいるのかといえば、それは当然、
「あのっ、この間はありがとうございましたっ!これあの、遅くなっちゃったけど、お返しでっ…」
きらぴかきらぴかした表情で紙袋を差し出す明夜星カイト、できたての恋人に粗相しないでくれという。
頼まれることとその理由はわかる。だとしても戸惑いは消しきれず、名無星カイトは明夜星カイトとおとうととを見比べ、わずかに首を傾げた。
「鍵はどうした?なんでインターフォンだ?」
意訳する。
鍵を持っているのだからわざわざインターフォンを鳴らしてひとを呼びつけず、勝手に開けてとっとと入って来いやという。
――実のところおとうとたちがそうしていたなら、きっと若干以上に困った事態が引き起こされていたに違いないのだが、それはそれとしてだ。
常態で考えたとき、おとうとの行動は不合理であり、言い換えるなら異常事態だ。なにかしら良からぬことが起こればこそ、こういうやりようになったのではという。
兄の問いこそもっともであるのだが、名無星がくぽはわずかに表情を苦くした。
が、おとうとが重い口を開くより先に、きらぴかきらぴかした明夜星カイトが、きらぴかきらぴか答えた。
「だってボタン押したい!から!」
「かぃ…っ!」
後ろで名無星がくぽがひきつり、しかし咄嗟に言葉もなく、あぶおぶと無意味に両手を上下させる。
さて、対する名無星カイトである。おとうとへの問いがその恋人から返ってきて、しかもそういった内実であったと判明した。
いったい名無星カイトは、どう答えたか?
「ああ…ボタンだものな」
「はいっ!ボタンだもっ!」
「うん。ひとの家のだしな」
「はいっ!!じぶんちじゃないのっ!」
――あっさり、容れた。それも追従だとか小ばかにしてというのではなく、むしろ非常に腑に落ちたとばかり、すんなり納得して。
「兄っ……っ?!」
明夜星カイトの後ろでおとうとが、さらに妙な顔を晒す。安堵もあるが、もっとも色濃いのは気忙しさだ。
なんなんだとは思うが、どうせ考えたところでおとうとの思考など全部はわからない。ましてや恋人が絡んでいるなら、わかりたい気がまずしない。
だからさっくり無視し、名無星カイトは改めて、明夜星カイトに目をやった。さらには、差し出された紙袋――
ロゴを読んで、ここまで戸惑いから強張りがちであった名無星カイトの表情が、思わずといったふうに緩んだ。
「――おとうとに、なにか入れ知恵でもされたか?」
「ぇあぅううっ!」
ごく素直に、明夜星カイトの顔が赤く染まった。一瞬で美事なものだ。
感心しながら、名無星カイトは差し出されたままの紙袋を受け取った。
このブランドは先日、名無星カイトが明夜星カイトに贈ったものと同じだ。アイスの次に好きだというお菓子の。
ただきっと、中身は違うが――
「ぇ、えと、あの、おれ、ほんとここのお店のお菓子、好きで……大好きでっ!カイトさんにお礼をって考えたとき、おんなじもの贈るんじゃ、失礼だとは、おもったんだけど……でも、がくぽにきいたら、カイトさん、たぶんあんまり、食べたことないって。でもでも、ほんとおいしいし、すっごくおいしいし、しやわせな気持ちになるからっ、………った、食べてみて、ほしーなってっ」
顔どころか耳朶にうなじにと、ほとんど全身を赤くしているのではないかというほど赤く染まりながら、明夜星カイトはなんとか、そこまで言う。
紙袋を抱え、大人しくプレゼンテーションを聴いていた名無星カイトは、ひと段落ついたというあたりでちょこりと首を傾げた。しぱしぱと、瞬く。
微妙に驚いた顔で、くちびるが開いた。
「なんだコレ。かわいいなおい」
「ぅ兄ぃいいいいいいいいっっ!!」
「ふゎやゃっ?!」
真っ赤に熟れた恋人と対照的に、おとうとは血の気の引いた顔で絶叫した。こころからのというやつだ。顔色を失って叫ぶのみならず、名無星がくぽは背後から恋人を抱えこんだ。
不意を突かれたのと、滅多になく乱暴なしぐさに、明夜星カイトが小さく悲鳴を上げる。それでも基本、大人しく恋人の腕に収まったが――
まったく余裕のないおとうとを、名無星家長男は醒めた目で見やった。
「ジョークを理解しない男だな」
「ジョークなのだな?!」
名無星がくぽは本気で、こころの底から怯えきっていた。俺の恋人だかわいいに決まっているとでも返し、嗤っておけばいいものを、むしろ兄が恋人をかわいいと思っていない確証をこそ欲しがる。
余裕がないにもほどがあるおとうとから、兄はなにも答えず、すっと目を逸らした。
「おいなぜそこで目を逸らす?!どうして黙る兄!」
「ぁー……」
玄関先で面倒なことになったと、名無星カイトは考えていた。
ここはマンションだ。言い方を換えれば集合住宅である。玄関先であまり騒がれたくない。
おとうとこそ、ここに住んでいるのだ。面倒はよくわかっているだろうに、これが恋は盲目というものかと――
用法が違うことは当然だが、とにかくどう収拾をつけたものかと、名無星カイトが束の間、空漠を晒した瞬間である。いろいろとても、無防備となった瞬間だ。
「あれ、これ、兄さんの好きなやつでしょ?ふぅん…その手で来たんだ、兄さん……案外、策士だね?」
――場の空気にまったくそぐわず、のんびりと言いながら名無星カイトの背に伸し掛かってきたのは、誰あろう、明夜星がくぽであった。
なんだろう、【がくぽ】というのはひとに背後から覆い被さる特質があるんだろうかと、明夜星がくぽの腕のなかに囲いこまれつつ、名無星カイトは少しだけ考えた。
なぜなら目の前のおとうとも、恋人を相手にそんな格好だ。
大丈夫、逃避である。
そんな場合ではない――しかし逃げたい一瞬というのは、どうしても存在するものなんである(たとえなにからどうと、はっきり説明できないとしてもだ。とにもかくにもでなにもかものすべてを投げて逃げたい瞬間というものが、生きれば生きるほど増えていく)。
「え、あれ、がくぽ…?」
逃避に走った名無星カイトに対し、明夜星カイトのほうは小さく声を上げた。
同じ名前であるためにややこしいが、自分を呼んだものではないということは、抱えこむ恋人、名無星がくぽにはすぐわかった。
同時に、我が家の内から出てきてひどくなれなれしく兄を抱えこんだのがどこの馬の骨もとい、誰の【がくぽ】であるのかということも。
余裕を失くして泡を食っていた名無星がくぽの表情が、すっと沈んだ。くちびるも引き結ばれ、兄を囲いこむ明夜星がくぽを静かに見据える。
対する明夜星がくぽといえばどこまでも自由、もといマイペースであった。
「それともあんたもこれ、好きなの?KAITOのなかで流行ってるとか?」
「いや…」
中身をよく見ようと、明夜星がくぽは断りもなく紙袋へ片手を突っこみながら訊く。
片手だ。
もう片手は名無星カイトを抱えこんで離さない。いや、抱えこむというより、囲いこみだ。拘束力が強い。片手であるというのに。
結構めに不自由な思いをしつつ、名無星カイトは首を横に振った。
「あまり知らない。たぶん、ラングドシャ?…は、食べたことあると思うけど」
「へえ」
不自由しつつも素直に答えた名無星カイトに、明夜星がくぽは軽く顔を浮かせた。それで取り戻したわずかな自由に振り仰いだ名無星カイトへ、返るのは笑みだ。どこかあくどい。
言い換えるなら、あまえんぼうのわがまま王子そのものの。
蠱惑的な笑みを湛えた王子さまは、振り仰ぐ名無星カイトの顎をさらりと撫でるふりで固定し、爛々と瞳を覗きこんできた。
「じゃあカイト、ラングドシャは食べなくてもいいね?僕、好きなんだよねー」
「ちょっと、がくぽ!」
ここでようやく、呑まれていた明夜星カイトが我に返り、声を上げた。同時に名無星がくぽの腕から出て一歩進み、名無星カイト、『憧れのカイトさん』に図々しく甘ったれるおとうとと対する。
【がくぽ】はふたりいるわけであるが、こういう呼び方をされるとしたら『自分』だと、案外にわかるものだ。
しらりと顔を向けたおとうと、明夜星がくぽを、普段はおっとりさんである兄はきりりとして見据えた。
「あのねっ」
「だって兄さん。このひとの好物かどうかわかんないで買ってきたってことは、バラエティセットでしょう?いろんな種類がお試しで入ってるやつ……じゃあ、食べたことあるっていうの、俺がもらっても問題ないじゃない」
「がくぽっ」
もの言わす暇を与えずしらしらと言い立てたおとうとに、明夜星カイトは本格的なお説教モードへ移行した。
が、発動には至らなかった。
それより先に、おとうとが笑ったからだ。表情としては笑みだが、背後に噴火寸前の火山が見えるという――
進んだ一歩を反射的に戻った兄へ、名無星カイトを囲いこむ明夜星がくぽはにっこりにこにこと続けた。
「にしても、ちょうど良かったよ、兄さん。こういうの、なんて言うんだっけ……飛んで火に入る夏の虫?兄さんだとなにかな。落ち着きないし、バッタとか?まあなんでもいいけど。とにかく、ここで会ったが百年目ってやつだからね。俺は兄さんに、ちょっと訊きたいことがあります。ので、正座ができるとこに移動しましょう。リビングかな?」
「ぇええっ?!」
首を傾げつつではあったものの、とにもかくにもでおとうとが移動先として示した場所だ。
名無星家の内だった。他人の家のなかである。
いろいろ失礼なことも言われたわけだが、その内容もすべて飛ぶほどの結論だった。
今からいっしょにおうちに、明夜星の家に帰ってと言われてもそれはそれで詮議の的というものだが、それにしても他人の家だ。
いったいなにをいけ図々しく、やらかし続けてくれているのかうちのおとうとはという話で、さすがの明夜星カイトでも頭痛を覚えた。
が、同時に、誘うために使われた言葉だ。並べられた慣用句だ。
不穏以外のなにものでもない。
明夜星がくぽというのは確かにあまえんぼうのわがまま王子であり、頻繁に駄々を捏ねはする。
が、基幹となる感情波はむしろフラットであり、起伏が少なく安定していて、滅多にはことを荒立てないのである。
だというのに、その滅多にないことが起こったようだ。荒ぶらずにはおれないことがなにか、あったらしい。
くり返すが、滅多にないことだ。これを放り置くことは、とても危険だ。
危険だがしかし、それで示されたのが恋人のとはいえ、他人のおうちであることだ。あまえんぼうのわがまま王子であっても、そこのところの分別はついていた子なのに、どうして今日に限ってという――
「不穏だな」
身動きが取れなくなった明夜星カイトに代わり一歩出たのは、そこまで静観していた名無星がくぽだった。出たとはいえ、恋人の前ではない。あくまでも後ろだが、すぐに手を伸ばして庇える位置だ。
ぱっと振り仰いだ明夜星カイトへ、恋人は笑みを返した。落ち着いて、鷹揚な――
明夜星カイトにはよく見慣れて、名無星カイトにとっては馴染みのない。
名無星がくぽはその笑みまま、恋人の肩をそっと前へ、つまり名無星家へ上がるようにと押した。
「確かに予定はなかったが、だからと入られて困るような家でもないゆえ…先に来ていた『客』もあるようだしな?なおのこと、遠慮してもらう理由はあるまい。良ければ上がっていってくれ」
「あ……」
おとうとのわがままを容れてくれた恋人へ、明夜星カイトがわずかに眉尻を下げる。
安堵もあるが、情けなさが強い。無邪気な明夜星カイトとはいえ、今はさすがに気後れする状況だ。
名無星がくぽは笑みを深め、そんな明夜星カイトの気を鎮めるよう、軽く肩を叩いてやった。
そうしておいて、自らの兄へも顔を向ける。どこの『馬の骨』かは判明しているが、関係性については未だ不透明な相手に大人しく囲いこまれている、まったくもって見慣れない姿の兄へ。
「良いな、兄?」
――念を押すものだが、名無星がくぽの声音はやわらかかった。先に咬みついていたときの勢いはまったくない。
それでもその目が瞬間、鋭く尖った。
念押しをごり押しに、兄を威迫するためではない。名無星がくぽが兄へ、名無星カイトへ『向かった』と気づいた瞬間、明夜星がくぽが見せた反応だ。
囲いこむ腕に、力が入った。
背後に噴火寸前の火山を据えていたとしても、あくまでもしらりとした笑みを浮かべていた表情が、堪えきれず険を孕んだ。
棘の向かう先はもちろん、名無星がくぽだ。
が、問題はその理由だ。
『最愛の兄』を奪った男への、敵愾心ではない。単に傷心というのでもないし、恨みがましさとも違う。
ならば、未だ関係が明確となっていないもののすでに依存が窺える兄、名無星カイトに縋ったのかというと、それも少し合わない。
だからと、自分のもの扱いで、名無星がくぽを威嚇したわけでもない――
もっとも近い感覚は、『守った』だ。
あるいは、『守ろうとした』――誰から誰をといって、名無星がくぽから、名無星カイトをだ。
まさかあの兄を、守ろうという発想に至る相手がいるとは思わなかった名無星がくぽだ。
まさかあの兄を、強いつよい、誰より強くつよい、しなやかに麗々しくひたすらつよい名無星がくぽの兄を、よりにもよって、たかがおとうとでしかない自分から。
意想外も甚だしい、唖然とするしかない発想で、態度だが、それで確実にわかることもあった。
明夜星がくぽは名無星カイトと名無星がくぽの『関係』をよく知っているし、よくよく理解してもいる――