恋より遠く、愛に近い-第11話-
【がくぽ】の間で散った一瞬の火花を、いわば『中心地』である名無星カイトが気づいたかどうかは不明だ。
が、少なくとも明夜星カイトはまったく気づかなかった。
そう――『明夜星カイト』であれば言いきれるが、名無星カイトはKAITOらしからぬ鋭敏さを持つ。気づいたようで気づいていないことも多いのだが、気づいていないようで気づいていることもままある。
つまり反応を隠すことにまで長けているということであり、ますます厄介なわけであるが(あるいは単に、とはいえやはりでKAITOらしからず、そもそも感情の表出がうすいために読み取りにくいということも大きい)。
とにかくこのとき、名無星カイトはいつもと変わらない様子で淡々と頷いた。
「ああ、今ならココア…」
言いかけて、自分が腕に抱えた紙袋を見る。わずかに眉をひそめ、首を傾げた。
「おもたせで悪いけど、せっかくだし、おやつにはこれを出したいよな…甘いもの×甘いものになるから、ココアは止め」
「ココア!」
名無星カイトの逡巡を止めたのは、明夜星カイトが上げた歓声だった。
揺らぐ瞳をぱっと上げた名無星カイトの前には明夜星カイトの例のあの、きらっきっらに輝く顔があった。おとうと、明夜星がくぽの出現からこちら、内輪になっていたものが復活したわけだが、そのパワーだ。期待度だ。プレッシャーだ。
「そんなの気にする必要ないよ。兄さん、甘いもの好きだもの。むしろご褒美だから。僕の分はちょっと甘さ控えめにしてくれればいいし……あんたのおとうとは知らないけど」
圧されて咄嗟に言葉が出なかった名無星カイトに、未だ囲いこんだままの明夜星がくぽが兄へ加勢して言う。
知らないと言われた『あんたのおとうと』こと名無星がくぽといえば、明夜星がくぽの言いようにわずかに眉をひそめたものの、咬みつくことはしなかった。ただ、頷く。
「俺も甘さ控えめで」
――つまり全員一致の、ココア推しである。
名無星カイトは戸惑いつつ紙袋をもう一度覗きこみ、曖昧に首を傾げた。
「まあ、……いいなら、いいけど」
ちなみに名無星家はココア以外だと、コーヒーが供せる。
もちろんこれは今さら言うまでもなく、すでにご承知のこととは思う。なぜなら先に明夜星がくぽへ挙げた選択肢がまず、ココアかカフェオレかとなっていた(第6話である)。
それでも念のために補足しておくと、名無星家のカフェオレとはココアと同様、市販のキットを使うものではない。素体としてコーヒーがあり、あるいはコーヒー豆というものがあり、これを加工して完成させる。
であれば当然、ミルクも砂糖も不使用のブラックコーヒーも供することができるし、あるいはミルクのみ、砂糖のみを好みで追加するなど、よりどりみどり花盛りに選択し放題なのである。
明夜星家のきょうだいがそれを知っているかはともかくとして、名無星がくぽは確実に知っているはずである。
しかしココアがいいという。
ココア『で』いいのではない。甘味がお茶菓子として付くらしいので甘さは控えめにしてほしいが、だがしかしココア『が』いいと。
だから、どいつもこいつもどいつもこいつもいったいなぜ、成人済の分際でこうもココアへの期待が並々ならず高いのか(そしてこの感想もまた、第7話に引き続いて偏見である)。
「じゃあ、決まりってことで」
「あ、おい…」
「あっ、がくぽっ!」
さっさと場を締めると、明夜星がくぽは名無星カイトの腕から紙袋を抜き取り、ためらいなく奥へ入って行ってしまった。
まさに勝手知ったる振る舞いだ。そう、他人の家である(自宅に対し、『勝手知ったる』という言葉を枕とすることはない。これは他人の家にある場合に使う冠詞だからだ)。
おとうとの暴挙に、明夜星カイトが忘れかけていたおにぃちゃん魂を蘇らせる。慌ててあとを追い、名無星家に足を踏み入れた。
――とはいえさすがに、三和土で止まる。そのまま駆けこんでおとうとを追うような不作法はしない。
勢いと焦りはあるので足踏みしたものの、それでも明夜星カイトは玄関脇に立つ名無星カイトへ、まずぺこんと頭を下げた。
「えと、おじゃじゃましますっ、あとあの、重ねがさねもおとうとが…」
「いいから」
いろいろ相俟って焦りの募るおにぃちゃんの言葉を、名無星カイトはさっくりと切った。切って、足元を指差す。
「まず、靴を脱ぐ」
「あ、はいっ」
特に声を荒げているわけでもないのだが、どうしてか名無星カイトには有無を言わせぬタイプの迫力がある。それで明夜星カイトは言われるがまま、素直に靴を脱いだ。
当然の流れで家に上がった明夜星カイトの足元に、名無星カイトはタイミングよく来客用スリッパを置いた。
「で、スリッパ」
「はいっ、ありが…」
「ちゃんと足入れる」
「っと、っ、れましたっ」
「うん。でな、滑り止めはついてるけど、万全じゃない。から、走るな。おまえ焦ってるから、コケるだろ。走らず、まっすぐだ。突き当りに扉、見えるな?」
「はいっ、トビラっ」
「おまえのおとうとが入っていったろ?そこがLDK。ノブを回して押すと扉が開く。いいか?ノブを回す→押す→開く、だ。復唱」
「はいっ、ノブ回す!ます!押す?!ます!開く!ますっ!!」
「うん。返事はよし。いいか、『歩け』。で?」
「ぅえぇえっと、と、トビラについたら、ノブ回して、押して、開けて、入るっ?!ですっ!」
――まさかの細かさでの指示だが、明夜星カイトは疑問もなく、素直にこくこくこくと頷く。行程を復唱する際には、指折り数えまでした。
まじめというか、高難度の講義を必死で追いかけている生徒という感じだ。内容は上記通りである。言葉の裏に隠されたミッションもない。しかして決死の覚悟すら垣間見える。
そこまで終わったところで、名無星カイトは漲る明夜星カイトの肩をなだめるように軽く、ぽんぽんと叩いた。
「うん、よし。大丈夫だ。行け」
「はいっ!カイト、いっきまーーーすっ!」
促されて、明夜星カイトが足を踏み出す。
とはいえ結局、歩くのではなく小走りにはなった。が、滑って転ぶこともなく、扉を開けないまま激突していくということもなく、どうにか無事、リビングに入る。
そう、KAITOというのは『そう』いうことを天然でやらかすものなんである。
ことに今の明夜星カイトのように焦っていれば、なおのことだ。
滑り止め付きのスリッパを履きながら足を滑らせて転ぶだとか、開き戸を引き戸扱いで開けられない、あるいはそもそも扉自体を認識できずに全力懸けて激突しに行くなどなどなど、ほぼ都市伝説級の実話に事欠かない。
もうひとつ言うなら、あそこまで言い聞かせてすらやらかしてくれるのが逆説的なKAITOクオリティというものなのだが。
「相変わらず美事な操縦っぷりよな、兄…」
呆れたとも皮肉とも取れる口ぶりでつぶやきつつ、そのあとから名無星がくぽが続く。
ただしこれは、純然と事実でもあった。この美事なKAITO操縦術は、KAITOころり、あるいはKAITOキラーの異名を持つ名無星カイトの、対KAITO特殊スキルのひとつなのである。
『それでもやらかす』KAITOにやらかさせることなく、無事にしおおせさせるという。
もちろん、自分がKAITOころりであるということに無自覚であるのと同様、このスキルも名無星カイトの自覚するところではない。
結果、たまたま、運よくそうなったという程度の認識だ。
ために、なにごともなく無事に済んだことを自分の手柄と思うこともなくただ安堵して、名無星カイトは傍らに立ったおとうとへ、なんの気もなく目を向けた。
「おかえり、がくぽ」
「………ただいま」
ひどく無邪気な口ぶりだった。かろうじて挨拶を返したものの、がくぽは微妙な沈黙を挟まざるを得ない。
らしからずらしからぬと常日頃から評する兄だが、たまにこうしてKAITOらしい一面を見せる。
たとえば今のようなことだ。『家族』が家に帰って来たなら、とにもかくにも『おかえりと言う』といったような。
手酷い喧嘩をしていてもだ。言わない限り、なにも先に進まなくなることもある。そしてそうであることにまず、疑問がない。
物難いプログラムの傾向が強い、旧型ロイドに見られる特性のひとつではあるのだが――
そういうときの兄は日頃の厳しさや機敏さがなりを潜め、なぜか無邪気に見える。
違和感しかない。
言っては難だが、違和感しかない。違和感を成型して服を着せたがごときだ。
これが兄であるという確信が揺らぐ。それは実存の根幹を揺さぶられるにも似ていて、不快だ。
不快だが、いわばがくぽの勝手な感想というものであって、兄に非があることではない。
いや、そういえば、今はもうひとつあった。ひどく不快だが、兄に非があるわけではないという。
兄を責めるのはお門違いも甚だしいが、しかしてまったく無関係でもないというところがネックの――
そう、あれだ。
あの『馬の骨』とは、全体、どういう付き合いであるのかという。
ずいぶん馴れ馴れしくしていたし、させていた。いかにKAITOが人懐っこい性質だとしても、だから兄だ。名無星カイトなのだ。
昨日今日の付き合いでああいったことを赦す兄ではないと、がくぽは把握している。
根掘り葉掘り訊き尽くしたい気はあれ、であればこそだ。逆にがくぽはなにも訊けなかったし、言えもしなかった。
どうやってもきっと、詰問になるからだ。
責めてしまうだろう。兄に非があると確定してもいないのに、まるで『わるいこと』でもしていたかのように。
そんな権利をがくぽは持たないというのに、自ら放棄したというのに、あまりに理不尽だとわかっていて、それでも――
情報処理能力の高さを謳われる【がくぽ】の悪しき面が、出た形だ。情報処理能力の高さを下支えする繊細な感覚と性質の、裏返って弱い面が。
がくぽの神経は未だひりついていて、落ち着けずにいた。先に明夜星がくぽから向けられた敵意が、警戒心が、肌の上に残ってざらざらしている。不快の極みだ。
ただしくり返すが、それをがくぽへ向けたのは兄ではなく、兄に組みついていたどこぞの馬の骨だ。氏素性は判明しているが、兄との愉快な関係性だけが不明な、馬と鹿のハイブリッドな骨。
そうだとしても、やはり兄に咎はない――
兄を咎める権利を、がくぽは持たない。
放棄したのだ。今さらどの面下げてという話で、もしやらかそうものなら、がくぽこそ馬と鹿のハイブリッド、しかもサラブレッド級だ。某あしながおじさんの、ジュリア・ペンドルトン嬢の家系披瀝同様、由緒正しいも極めれば喜劇でしかないという好例となろう(聞いている分にはとても愉快なのだが、言うほうとなるのはぜひにも避けたい例ということだ)。
それでも肌がざらついてひたすら気が立つから、口を開けばきっと、兄に当たるだろう。
望みもあって願いもあって、それでも当たらずにはおれないだろう――
「先に言っておくけど」
なにも言えず先にも進めず、押し黙って立ち尽くすおとうとへ、兄のほうはいつもと変わらない声で、いつもと同じものの言いをした。
「おまえも無関係じゃないから」
「なに?」
ざらざらした肌の上を撫でられれば、たとえどういった意図であれ、不快だ。まして後ろ暗さを抱えていれば、なおのこと――
険しい瞳を向けたがくぽだが、カイトはリビングのほうへ顔を向けており、目が合うことはなかった。
「兄」
「マスターがちょっと前に、帰って来てる」
KAITOらしからずの機敏を称えられるがくぽの兄は、そう言って軽く、振り返った。がくぽを見て、リビングのほうへ顎をしゃくる。
そう――兄は理解していた。たとえ不仲であれ、おとうとにはそれで十分、十二分に伝わるのだと。
言葉を尽くし、詳細な説明をする必要はない。端的な言葉、しぐさを繊細に読み取り、即座に解析して理解できてしまうのが、自分のおとうとなのだと。
かわいそうな話だと、兄はおとうとを憐れに思う――それが余計におとうとの気を逆撫でするのだと、わかっていてもだ。憐れまずにはおれない。
繊細に読み取れるのは、なにより気質が繊細であればこそだ。
気質が繊細であり、些細なことが大きな傷として刻まれてしまうというのに、繊細であるがゆえに些細なことを無視できず、むしろより多く読み取ってしまう。
結果、バランスを崩す。
一般に【がくぽ】シリーズは、バランスが難しいと言われる。情報処理能力が高く、繊細な機微を読み取り、解析して理解し、感情に反映してうたえるが、その分、精神バランスも崩しやすい――
KAITOらしいKAITOであれば、そこまで深刻におとうとの『傷』を思いやることはなかっただろう。
が、なんの因果か、名無星がくぽの兄、名無星カイトはどちらかといえば機微に敏かった。おとうとの傷が、ひとごとでなく思いやれてしまう。
それがなによりおとうとを追いつめるのだと、大きく傷つけるのだと理解しながら。
案の定で、やはりがくぽはカイトの端的な言葉としぐさで、なにがあったかだいたいのところを察した。つまりだ。
「またやらかしたのか、あのウマシカ長が。それも、よりによって…」
切れ長の瞳をますます険しくしてリビングの扉を睨んだがくぽから、カイトは上手に目を逸らした。
がくぽが罵倒したのも、睨みつけたのも自分ではなく『マスター』であり、『マスター』だけだ。
けれどおとうとは兄がまた、懲りもせずに自らを憐れんだということに敏く気づいた。気がついたがこれまでのように兄へ牙を剥くことなく、止めた――
代わりにマスターがとばっちりだが、ある意味『やらかした』ことは事実である。
いや、カイト個人としては今回、マスターはそうまで『やらかした』とは思わないのだが、明夜星【がくぽ】は抵抗があるようだった。ということは名無星【がくぽ】とても、抵抗を覚える可能性は高い(あとはまあ、これまでの積み重ねというものである。普段の行いはこういったところで大いにものを言う。というわけで、名無星出宵には健闘が期待されるところである)。
こころの内で合掌しつつもさっくり割りきったカイトの横を、罵倒と同時に足を踏み出していたがくぽがすり抜けていく。
「恋人の前だろ。ほどほどにな」
「っ」
釘を刺したカイトを、おとうとはなにかしら、驚いたように振り返った。けれどその驚きの由縁が、カイトにはわからない。
わからないがどうせまた、繊細なおとうとのなにかの琴線に触れたのだろうと。
カイトがひとごとでなくおとうとの繊細さを思いやれたとしてもだ。なにもかもすべてを見通せるわけではなく、理解できるわけでもない。ほとんどの場合、うっすらとした感触がある程度だ。
なにより逐一そんなものを追いかけていては、そもそも『カイト』が成り立たなくなる。
ゆえに驚きを受けることなく流し、カイトもまた、リビングへ向かって足を踏み出した。
「……言われずとも、わかっている」
「そうだな」
カイトが追い抜いて、わずかあと。
低い声で這うように返し、足を踏み出したおとうとの歩幅は広く、狭い廊下でも器用にまた、カイトの横をすり抜けていった。