恋より遠く、愛に近い-第12話-
それで、明夜星家のきょうだいに遅れることほんのわずか、名無星家のきょうだいがリビングに入ったときだ。
カウンタを挟んでダイニングからキッチンを覗きこんでいた明夜星カイトが、少し困ったように首を傾げたところだった。
「ええ……っと、えまちゃん?おかね、たりなくなっちゃったの?」
対して、出宵はどう答えたか?
「カイトぉおっ!」
「ふ、ゎわっ?」
――涙目で、カイトの名を叫んだ。なぜか。そう思われるなら第4話を参照されよ。
『カイト』は『カイト』でも、今発言したのはこちらではないだろうとか、だったらそこはもういっそKAITOとしてほしいところだとか考えつつ、呼ばれたほうのKAITO、名無星カイトは適当に頷いた。
「あとで雑誌を貸しておく」
「ああ、あれ。……そういう意味なんだ…」
出宵との間に兄を挟み、並んで立っていた明夜星がくぽがどこか納得したようにつぶやいた。
なんだかんだと言え、明夜星がくぽもまた、【がくぽ】だ。情報処理能力は高い。KAITOらしくなくきれいに片づいた名無星カイトの部屋の隅、なぜか堆く積まれているインテリア雑誌の、その『なぜか』を今の一連で理解したらしい。
「えと、え?えまちゃん?えと、カイトさん……っ」
対してひとりおろついているのは、明夜星カイトだ。
自分の発言で出宵が気を悪くしたとしても、どうして怒られるのが自分ではないのか、どうして『カイトさん』に飛び火してしまったのかが理解できない。
それも当然というもので、これは(KAITOゆえの察しの悪さ以前の問題で)わかろうはずがないのである。
明夜星カイトは、このうちではひとりだけ名無星カイトの部屋に入ったことがないし、あるいは入居当初の出宵とのやり取りも知らないのだから(ところで念のために補記しておくが、出宵はそもそも怒っていない。絶望しているだけである)。
いずれ説明はおとうとに――複雑な表情で自分と恋人とを見比べているおとうとに任せることにして、名無星カイトは一度は止めた歩みを再開した。
入り口で止まって立ち尽くすおとうとを追い抜き、キッチンへ向かう(途中、すり抜けざまに、未だおろつく明夜星カイトの肩を軽く叩き、慰めてやることも忘れなかった)。
で、改めてココアをつくるべくキッチンへと入ったなら、またも背後霊、でなければころもこ毛玉ボール期のこいぬ、もとい明夜星がくぽがごく当然とばかりにあとに続いたと。
「ねえあのさ、あれじゃないならあんた、なんのお菓子が好きなの?お菓子っていうか、おやつでいちばん好きなのって、なに?あ、アイス以外のやつね。でもどうしてもっていうなら、アイスだけでもいいけどじゃあ、なんのアイスがいちばん好きなの?」
「…………………………………」
これはもしかしてお祓い案件なのか、それともペットフェンスを設置すればいいだけの問題であるのか、名無星カイトは少しだけ空漠を晒した。
明夜星がくぽのほうは、誰の反応にも構うことはない。キッチンからカウンタへ手を伸ばし、まずは先に飲んでいた三人分のカップを回収する。
ことことこととシンクに置くと腰を撓め、殊更に下から名無星カイトを覗きこんだ。それでさらに、ちょこりと首を傾げる。
ちょっと信じられないほどかわいかった。
「洗う?」
「ああ、ぅん…」
「わかった」
しばしの空漠から現実に引き戻され、名無星カイトはぱちりと瞬いた。
だとしても返したのは反射的な頷きでしかなかったが、明夜星がくぽはやはり構うことなく、勝手知ったるでスポンジを取り、洗剤を含ませ、カップを洗い始める。
手馴れて器用な動きをわずかに眺め、名無星カイトは軽く、首を振って諦めた。
なにといって、だから、たとえばペットフェンスを設置したとしてもだ――
この器用さであれば、勝手に開けて入ってきてしまうことだろう。つまり出費するだけ無駄だ。しかも名無星カイトが逃げにくい。なおさら出費の意味が不明となる。
それに先のように(おとうとや明夜星カイトが来る前だ)、べったり張りついて邪魔なだけのことのほうが圧倒的に多いが、今のように手伝いに入ってくれることもある。それも、なにも言わないうちからだ。
十回中十回か九回はまとわりつくだけで邪魔だが、役に立たない以上に妨害してくれていることがほとんどだが、まったく邪険にしてしまうほど困っているかというと、そうとまでは言い難い。
なにせ明夜星がくぽといるときの名無星カイトというのは、諦念を成型して服を着せたものである。
鷹揚であるという以上に、諦めるのが早い。考えるだけ無駄だと割りきってしまっているから、なおのこと早い。
というわけでさっくり割りきって、名無星カイトは本題であるココアつくりのほうへ意識をやった。
そのカイトの油断を待っていたかのように、洗いものを終えた明夜星がくぽがのっしり、背後から覆い被さってくる。
「こら、鍋が取れない」
――いや、そこがまず指摘すべき問題だろうか。そこを問題点とすることに問題はないだろうか。
しかして疑問もなくそこをまず注意した名無星カイトから、案の定で明夜星がくぽが離れることはなかった。背後にのっしり取り憑いたまま、きょろきょろとあたりを見回す。
「なべ?おなべ?これ?どれ?」
「そっちの…白い。そう、それ……いや、だからおまえ」
くり返すが、名無星家のキッチンの構造だ。内装だ。決して予算切れなどではなくきちんとお金をかけたうえで、純然としたインテリアの一環としてすべての戸棚に扉がなく、配管までもが丸見えの、いわばフルオープンキッチンである。
見やすいし、あるいは手伝い相手への指示も出しやすい。
明夜星がくぽもすぐ、名無星カイトの意図した鍋を見つけ、片手を伸ばして取った。もう片手はどうしていたかといえば、カイトを抱えこんで離さない。
「今度はお鍋なの?なんで?」
「人数が多いだろ。ひとりずつつくってレンチンじゃ、時間も手間もかかり過ぎる。だからベースを鍋でつくって、カップに入れる段階で味を個別に調えていく」
「ああ……あんたほんと、まめだよね、そういうとこ…」
――といった光景をダイニング側カウンタから見ていた名無星がくぽはつい、一歩引いた。
見馴れない兄の姿に気後れしたわけではない。いや、それもそれであるが、それ以上にだ。
恋人だ。
名無星がくぽの傍らに立ち、にこにこと笑って、同じくキッチンの様子を見ていた明夜星カイトである。
にこにこ笑顔である。
かわいい。
かわいいのだ――かわいい以外のなにがある。
名無星がくぽは必死で自分に言い聞かせ、信じこもうと無為に奮闘していた。
なにしろにこにこ笑顔だ。これがかわいくなくて、なにがかわいいのか。まさかこわいとか、これに比べたらキッチンの内で兄に張りつきなんの気もないふうを装いつつ名無星がくぽに対して全力で威嚇をかけてきている明夜星がくぽのほうがよほどにかわいいとかほんとうにまさかのまさかなのでこころの底から勘弁してほしい。
「あのね、えまちゃん?」
「っひっ?!」
――とても残念な感じに暗示は失敗し、恋人がおっとり口を開いた瞬間、名無星がくぽは小さく悲鳴を漏らした。
が、幸いにしてというかなんというか、ほんとうに小さな悲鳴だったので誰の耳にも届くことなく、衆目を集める羽目には陥らずに済んだ。
済んだが、しかしだ。
問題はいっさい、解決していないのである。
「ん、なに?かい…ちょ、くん?」
名無星がくぽほど明確ではないものの、なにかしら訝しさを感じたらしい出宵が微妙に噛む。
にこにこ笑顔の愛らしい明夜星カイトが、それにこと細かにツッコむことはなかった。ただ、愛らしいにこにこ笑顔のまま、キッチンの内を指差す。
ちょうどそのとき、名無星カイトが小鍋に張った湯にココアパウダーを入れた。鍋から立ち昇るほこほことした湯気に乗り、ひと続きであるLDKの全体に、ふんわりと甘いチョコレートの香りが広がる。
そう、とりあえず香りだけは、すでに甘い。
これは『チョコレートは甘いもの』という味覚学習に基づく嗅覚判断であり、未だ砂糖を入れられていないそれはひどく苦いのだという事実に即さない。
そういう香りをバックに、明夜星カイトはにこにこちょっこりと首を傾げた。
「仲いーのかな、うちのおとーとと、カイトさん?」
「え?………ああ?」
示されて、出宵が改めてといった様子でキッチンの内を見やり、眺め、観察して、同じく首を傾げた。
「まあ、仲は悪くないとおもうけど……とりあえずうちの子相手みたいなケンカはしないよね、おんなし【がくぽ】っても」
曖昧な声音で言ってから顔を戻し、出宵はうちの子がくぽと目を合わせた。こっくり、頷く。
「ケンカするほど仲がいいっても言うからね、がくぽ?」
「そのフォローは死ぬほど要らんからな、マスター?」
ロイドがマスターに返したのは、わかりやすく獰猛な笑顔だった。日常であって馴れっこである出宵といえば、軽く肩を竦めただけで流したが。
さて、わかりやすく獰猛な笑顔のほうはそれで片づいたと言えるのだが、まったくわかりやすくなく愛らしいにこにこ笑顔のほうである。明夜星カイトである。
相変わらず、にこにこ笑顔だった。人間であればそろそろ筋肉が引き攣れて表情が崩れる頃合いだが、明夜星カイトことKAITOとはロイドであり、たとえば表情のつくり方にしても人間とは若干、仕様が違う。
というわけで明夜星カイトはまったく歪みもないにこにこ笑顔を――どこまでもどこまでもにこにことしたにこにこ笑顔のまま、主従のやり取りがひと段落したところでもう一度、口を開いた。
「じゃあ、うちのおとーと、カイトさんにご迷惑、おかけしてない?」
「っっ!」
流れで迂闊に目をやった名無星がくぽはびくりと竦み、しかし先の学習があるため、すんでのところで悲鳴は呑みこんだ。
いやだから、にこにこ笑顔である。にこにこ愛らしい笑顔である。なにがそうもおそろしいのかと訊かれると、いやおそろしいことなどなにもなく愛らしいの極みだと、目を泳がせて答える――
実際、愛らしいことに嘘はない。
嘘はないが、いわば、先の明夜星がくぽの笑顔だ(第10話である)。背後に噴火寸前の火山が見えた。
あれと同じものが、明夜星カイトのにこにこ笑顔の背後にもあるだけだ。ただ、見えるものは違う。窺える気配と言おうか。
明夜星がくぽが火山であるなら、明夜星カイトは開きかけの地獄の釜の蓋といった。
とにもかくにも【がくぽ】としての情報処理能力の高さ、繊細に機微を読む能力が完全に裏目に出たという話だが、出宵だ。
そこまでにぶくはないが、そこまで敏くもないという。
一応、出宵としても、うちの子カイトと明夜星がくぽの仲というのは、そこそこ気になるものではあった。逆に言うなら、そうまで詳しくない(なぜならだから、明夜星がくぽは出宵が苦手なのである。だいたい、いないときを狙って来る。あるいは、いたとしても顔を合わせず済むようなタイミングでだ)。
普段のうちの子カイトの様子からなんとなし、関係を読み取っていたのがメインであり、こうまでじっくりとっくりとふたりの様子を見るということは、あまりなかった(さすがに初めてとは言わないが、けれど極めて初めてに近い)。
出宵はなんの気なしにもう一度、キッチンへ顔を向けた。
「そういえばあんた、あのインテリア誌、全部読んだんでしょ?なにか気に入ったの、あった?」
「ん?気に入った…?――………古民家系?か?配管より梁が出ているほうが、風情があると思う」
「ぐっはあっ!」
――最前にもそれとなく言われたが、こうしてここでまた、改めて言われた。いや、出宵に直接言ったわけではないが、だからこそなおのこと、深く刺さるものもある。
趣味はひとそれぞれであるし、ロイドがマスターの趣味に倣わなければならないという法もない。
出宵はそこでロイドに強制するような性質ではなかったが、それとダメージを受ける受けないは、また別の話である。
「えまちゃん?」
軽く白目を剥いた出宵の様子に、さすがに明夜星カイトも地獄の釜の蓋を閉めた。もとい、純然と驚いた顔となり、あの、ひたすらにこにことしたにこにこ笑顔ではなくなった。
これこそ驚くほどの効果で意味不明な威迫も霧散した明夜星カイトだが、そういった委細に構う余裕もなく、出宵は涙目を向けた。
「だってだってだってマンションだお?マンションで梁剥き出しはムリじゃん!だからってハリッパな古民家ある地域に引っ越せとか、ボクにも仕事とか付き合いとかっていうものがあって」
「え?あ、うん?うんうん?」
圧されて親切に頷く明夜星カイトに、出宵はさらに目を潤ませ、身を乗り出す。
が、さらに言葉を重ねるより先に、恋人を庇って抱えこんだうちの子がくぽにより押しやられた。それも無情にも、顔面を掴まれてだ。
「わかった。わかったから、それはあとで兄と話し合え、マスター。KAITO違いに訴えたところで、仕様あるまいが。いいから一寸、カラに篭もって落ち着いて来い」
「ぅえーーーい……」
やりようこそ無情だったが、名無星がくぽの声はよほどに落ち着いて静かだった。むしろ思いやりすら感じる。
出宵もまた、言いようともかくの扱いに文句をつけることもなく大人しく頷くと、傷心の身を引きずってよたよたとリビングの隅に向かった。
「『から』?」
きょとんとしたのは明夜星カイトで、出宵の行く手を目で追いかけた。
するとリビングの隅、キッチンとは対極となる場所に、確かに『カラ』としか呼べないものがあった。
真白で、ふちが大きめにぎざぎざしている、すでに割れたたまごのカラ半分だ。
すぐそばにあるソファには座らず、出宵はその影へ隠れるようにして床へと腰を下ろした。その身に、簡易テント扱いで『カラ』を被る。
ふちのぎざぎざから『中身』がなんとなしに見えはするのだが、だいたい、膝を抱えた全身がきれいにすっぽりと収まった。
「『から』………」
「マスターはメンタルの弱い現代っこゆえな。家のなかとはいえ、シェルターが必須なのだ」
「しぇるたー……」
腰に腕を回され、抱えこまれたまま見上げた明夜星カイトに、名無星がくぽはよくその口で立派に言いきれたという説明を返した(たとえば第8話である)。
素直に説明を受けた明夜星カイトといえば、またその、シェルターとかいう『カラ』へ視線を戻した。
名無星がくぽはそんな恋人の腹を、あやすように軽く叩いてやる。
「五分か十分も篭もれば、復活する。また喧しくなって戻ってくるゆえ…」
「あれいいなあ……いいなあ………ほしい……すごくたのしそう………」
「ぅむ………」
名無星がくぽにはわかっていた。
あれが恋人の、KAITOのガラクタ愛を非常に刺激する形状であることを。とてもわくわくしてしまう使い方であり、『システム』であることを――
というわけで非常に礼儀正しく、つまり全力で保身に走り、名無星がくぽは恋人のつぶやきを聞こえないふりで流すことに尽くした。