恋より遠く、愛に近い-第18話-
たとえばここにはKAITOがふたり、【がくぽ】がふたり、いるわけである。各所属先、マスターは違うものの、機種としては同じ、見た形もほとんど同じ――
まったくもって事態がややこしいことしかない話である。
が、『ややこしい』のは傍から見ている側だけの話であり、当人たちは案外、どちらを呼ばれたものか、どちらを指して言っているものか、聞き分けるなり、見分けるなりができていた。
それで、このとき名無星カイトが呼んだのが、ならばどちらであったかということである。
やはり、傍で見ている分には判別つき難い話だ。
しかし状況から判断し、『どちらである』と推測することはできるだろう。案外に聞き分けられる当人たちとなれば、当然。
では、どちらであったか?
「「っ?!」」
――どちらの【がくぽ】も、つまり明夜星がくぽも名無星がくぽも、名無星カイトは『自分』を呼んだと認識した。
呼ばれたから咄嗟に顔をやって、名無星がくぽは明夜星がくぽまでもが顔をやったことに愕然とし、明夜星がくぽといえば、そもそも冷静さを失っているからただひたすら、無視できない声音でもって呼んだ名無星カイトを凝視していた。
さて、名無星カイトである。
彼の顔は基本、明夜星がくぽに向いていた。
が、素早く視線を巡らせ、おとうとが自分へ顔を向けたことも確認した。
そう、これで正解なんである。
『名無星カイトが呼んだのは【ふたり】である』というのが。
ほんとうにややこしいことしかない話である――しかしてあえてメリットを挙げるとするなら、ふたりを同時に呼びつけたいときにはただひと言で済むということだろうか(どうしてそうまでしてメリットを挙げねばならないのかという問題もあれ、とはいえまったくメリットがないよりはいいはずだ)。
「ココアが冷めるだろ」
おとうとの警戒心が揺れながらも抑えられたことを確かめた名無星カイトは、今度こそ明夜星がくぽと正対した。
痛みに歪んでぶれる花色の瞳を、底深く揺れる湖面の瞳が端然と容れる。
ほとんど冷酷なほどの、名無星カイトの瞳だった。声音も淡々として、呆れているのか怒っているのか、あるいはという、感情がなにも読み取れない。
だからといって、落ち着けるような『なにもない』ではなかった。混乱し、まともな判断が下せなくなっているような状態では喧嘩を売られているも同じ、『なにもない』――
案の定で、明夜星がくぽの眦がびしりと引きつり、戦慄くくちびるが裂けた。
「そもそもあんたがっ、っ」
「がくぽっ、っ!」
激昂した挙句、標的を名無星カイトに替えて咬みつこうとした明夜星がくぽだが、ひどく不自然に言葉は止まった。
違う、止めた。自分でだ。
片手をのどにやってきつく掴み、戦慄くくちびるを噛んで、明夜星がくぽは必死に顔を逸らした。名無星カイトと、兄と、ふたりから。
その兄、明夜星カイトといえば、咄嗟に身を乗り出したものの、やはりまた、名無星がくぽに止められていた。
大好きな恋人だ。自分などよりずっと状況判断に長けて頼りになることも、わかっている。
わかっていても、おとうとの危機だ。大事な、溺愛するおとうとが、なんだかまずい状況なのだ。
思わずきっとして睨み上げた明夜星カイトへ、名無星がくぽは苦い笑みを返した。
――ほんとうは安心させるように、ただやわらかく笑んでやりたかった名無星がくぽである。が、修行不足というもので、その笑みにはどうしても苦みが混じった。
そしてその苦みゆえに、明夜星カイトも逆に止まれた。
これは恋人にとっても本意の行動とは言いきれないのだと、苦慮したうえで、それでも自分を思えばこそ取ってくれた行動なのだと、感覚的に理解できたからである(物難いプログラムの傾向が強い旧型ロイドながら、KAITOは理屈より感覚で理解することを得意とする)。
今の明夜星カイトは相応に焦っていた。
が、思いやりのうえで苦しい選択をしてくれたのだと理解できた相手に対し、礼も取れないほど追いつめられてはいなかった。
険がやわらぎ、それでも訝しさを消しきれず見つめる明夜星カイトへ、名無星がくぽは苦く笑いながら小さく首を振った。横だ。首を横に振るということは、なにかを否定している――
それはわかるが、今、この状況にあって、誰のなにについて否定しているのか?
「……?」
ひとの意図することを読むのは、苦手だ。KAITO全般に見られる傾向だが、そもそも面と向かって告げられてすら、理解するかしないかが時の運というのがKAITOだ。
そして名無星カイトとは対極に、らしいKAITOたる明夜星カイトである。
ますます眉をひそめた明夜星カイトへ、名無星がくぽはゆっくり、くちびるだけ動かした。
――兄に預けろ。
「………っ」
だいたいそんなふうに読み取れて、明夜星カイトはなぜか視界が真っ白になり、真っ赤になり、ひどく混乱しながら、ほとんど反射の動きでカウンタの内、キッチンへ顔を向けた。
名無星カイトといえば、先までの端然とした様子はなくなり、どちらかといえばひどい渋面で明夜星がくぽを見ていた。
自分で自分ののどを締め上げ、『いってはいけないこと』を懸命に呑みこむ、あまえんぼうのわがまま王子をだ。
あまえんぼうのわがまま王子のくせに、もっとも肝心なところで甘えず、わがままを呑みこむ――
「やめろ、がくぽ」
もう一度、先の言葉をくり返し、ただし今度は明確に『明夜星がくぽ』を呼んで、名無星カイトはのどを締め上げる手へ、手を伸ばした。筋張る甲を撫で、表皮をつまみ、引く。
「なにやってんだ、おまえ」
「……うるさいな」
苛立ちが滲んで荒っぽい口調となった名無星カイトへ、明夜星がくぽもまた、掠れながらも険を含んだ声を返した。掠れながらも声を返す、締め上げる手は相変わらずのどにあったが、その力が少しだけ緩んだ。
顔自体は背けたままながらも、明夜星がくぽはちらりと名無星カイトへ視線をやり、くちびるを歪めた。
「あんたに言われたくない」
「ちがう」
吐き捨てる明夜星がくぽの語尾にほとんど被せるように、名無星カイトは声を上げた。未だのどを締め上げる明夜星がくぽの手の、つまんだ表皮をもう少し力をこめ、引く。
つねられているも同じ状態だ。
さすがに抗議のため顔を向けた明夜星がくぽから、名無星カイトは手を離した。離した手を上げ、ようやくこちらを向いたあまえんぼうの前髪を、くしゃりと掻き上げる。
「おまえはなにしに来てるんだって、訊いてるんだ、俺は」
「なにって」
相変わらず苛立ちを含んで荒っぽい口調で言いながら、名無星カイトはくしゃぐしゃと明夜星がくぽの前髪を掻き撫ぜる。手つきも多少荒っぽいが、その荒っぽさは苛立ちというより、大型犬を相手にしているときの力加減だ。
犬でもなく幼子でもない明夜星がくぽだが、撫でる手を邪険に払うようなことはしなかった。顔はしかめられている。不愉快だ。あるいは不機嫌。
顔をしかめ、くちびるを開き、閉じる。閉じて、開き、のどを締める手が緩んで、浮いた。
「なにって…」
なにをしに来ているか?
名無星家に?
なんだかマスターたちがろくでもないことを企んでいたらしいので、その『対策会議』のために――
「あー……あーあー………違うちがう…違う………」
強張っていた明夜星がくぽの肩から力が抜け、のどから完全に手が離れた。
明夜星がくぽが、なにをしに来ているか?
名無星家に?
違う。
明夜星がくぽは、『名無星家に』来ているのではない。
明夜星がくぽは、『名無星カイトのもとに』来ているのである。
では明夜星がくぽはなにをしに、名無星カイトのもとを訪れているのか?
――甘えて、わがままを言うためだ。
ならば名無星カイトはなんのために、明夜星がくぽを迎え入れるのか?
――甘えさせて、わがままを聞くためにだ。
そうやって寄り添い、傷を舐めあい、ふたりで癒そうと決めたのだった。そうしたほうがひとりでうずくまっているより、はやく治るかもしれないから。
もしも傷がひどく痛むようなときには、誰でもない、お互いに――
「だいたい、そもそも…今日ははじめっから、あんたが悪いんだった」
しかめた顔を上げた明夜星がくぽは胸を張り、のどから離した手を腰に当て、偉そうに主張した(今が何話めであれ、曰くの『今日の初め』がどこかといえば、第4話のことである)。
因縁をつけられた名無星カイトといえば、薄く笑った。やわらかな眼差しで、あまえんぼうのわがまま王子を受け止める。
「知らないって言ってるだろ。俺はなんにもしてない。けど、まあ…」
「ぅわっ?」
そこで名無星カイトは手を伸ばし、明夜星がくぽの顎を押しやった。
いや、だからといって明夜星がくぽが無遠慮に顔を近づけたというわけではない。ごく普通に偉そうにしていた明夜星がくぽはふんぞり返っているのに近く、つまりむしろ顔は遠く、それであってすら名無星カイトは顎に手をやり、押し上げたのだ。
そうやってのどを開かせ、顔を寄せて、名無星カイトは眉をひそめた。
のどだ。明夜星がくぽの――
言葉を呑みこむため、物理的な抑えとして自分の手できつく、締め上げた。
「ちょっとっ……っ」
ぐいぐいと顎を押し上げられ、しゃべるのも苦労する。
後ずさって逃げようとする明夜星がくぽだが、いくら引いても名無星カイトは引いた分をきっちり詰めてくる。外そうとして手首を掴んだが、迂闊なことをすれば引く気のない名無星カイトを逆に害する危惧があり、今ひとつ力が入りきらない。
仕方なく、明夜星がくぽは思いきり首を振って名無星カイトの手を払った。つくったのは一瞬の隙だが、それで素早く二歩分ほど下がる。
逃げるだけでは不足とばかりに両手で自分ののどを覆い隠すと、いかにも恨みがましい目を向けた。
「あんたにはデリカシってもんがないの?!ひとの黒歴史を、真正面からまじまじと!」
「起きてから五分も経っていないことを『歴史』とは認めない!」
――クダラナイコトでキレた自分が気まずいので配慮をお願いします(意訳)と喚いた明夜星がくぽへ、名無星カイトは無情なほどきっぱり返した。
言っていることの正否は置くが、置かないのは論点だ。そうではない。
そうではないのだが構うことなく、名無星カイトは明夜星がくぽがさらになにか喚くより先に、ひどい渋面で片手を上げた。
手のひらを上に軽く拳様とし、親指と人差し指を立てる。その立てた人差し指の関節だけを曲げ伸ばしして、逃げる相手へ自分から見せに来いと招くしぐさだ。
行儀が悪い挙句に無茶振りも甚だしいが、しかしだ。
「問題がないことを確かめたら、なかったことにしてやる。――のどに障るようなことするとか、おまえ、自分がボカロだってわかってんのか?」
「………」
再び苛立ちの混ざった荒っぽい口調で吐き捨てられ、明夜星がくぽは両手でのどを覆い隠したまま、ぱちくりと瞬いた。
ひどく無邪気な表情で瞬き、渋面の名無星カイトを見て、見つめて、揺らぐ湖面の瞳がまったく譲らないことを認め、小さく肩を落とす。
肩を落とすとともに両手も外すと、明夜星がくぽは逃げた分以上に戻って名無星カイトの前に立ち、屈んだ(確かに【がくぽ】のほうが背丈はあるが、正直、首であればそこまでする必要はない。しかしおかげで移動せずとも、後ろ首まで確認できる)。
「あんたさ、どうせ僕のことを相当にばかか、自傷趣味のあぶないやつだとでも思ってるんでしょう!失礼にもほどがあるからね、それ。僕が好きなのは甘えるのとわがままを言うことであって、ひとを脅して言うことを聞かせるようなやり方は嫌いなんだ。わかってる?」
ぶつくさと、なんだかご立派な志がこぼされていたがきれいに聞き流し、名無星カイトは晒された明夜星がくぽの首を注意深く見た。
言うとおり、傷らしい傷はない。わずかに赤みが残っているが、このあと黒く、痣に変色するほどのものでもなさそうだ。
爪を立てた痕も若干見えるが、勢い食いこんだ程度で、皮膚を掻き破るまではしていない。補修パッチを貼る必要もなく、ロイドの自然修復力に任せて良さそうだ。
それに今、聞いている限り、声にも変質や障害は認められない。
ので、実は内側器官は傷ついていたといったこともなさそうである。
問題なしを確認し、ようやく顔を離した名無星カイトを、しかし明夜星がくぽが追ってきた。
こつんと額と額を合わせ、間近でぶれる視界で、それでも名無星カイトの揺らぐ瞳を覗きこんでくる。
「あのさ、ほんと、今日のこれは、ええと、……だからさ。あんたほんと、――忘れて、くれる?」
声が気弱だ。聞いたこともないほどに。
ほんとうにまずいことになる直前、寸前にはきちんと止めてやったはずだが、それですらこうだ。あと一週間くらいは引きずれそうなほど、落ちこんでいる。
名無星カイトは額を合わせたままぱちりと瞬き、少しだけ首を引いた。すぐ、戻す。
「ったっ」
名無星カイトはこつんと軽く当てただけだが、明夜星がくぽは大仰な苦鳴を上げ、首を引いた。片手で額をさすりながら、恨みがましげに名無星カイトを見る、もう片手が、名無星カイトの袖を頼りなくちょんまりつまんで、離れない。
胸の奥がきゅうっとなって、名無星カイトは笑った。笑うしかなくなった。
笑いながら腕を軽く振ると、ちょんまりつまんでいただけの明夜星がくぽの指はあえなく外れる。間断を置かずその手を掴んで、もう片手でぽんぽんとあやすように叩き、名無星カイトは首を傾げた。
「『おまえがなにを心配しているのか、俺にはわからない』」
「っ」
ぱっと花色の瞳を開き、咄嗟に反駁しようとして、明夜星がくぽはすぐ、名無星カイトの意図を悟った。
すでに『約束』は守られているのだと。
求めたことは叶えられ、それでも明夜星がくぽはしばらく微妙な表情で、笑う名無星カイトを見ていた。
ほんのわずかだ。
今度は明夜星がくぽが名無星カイトの手を振り払うと、背に回し、ぎゅうっと抱きついた。ハグではない。感謝ではあるが、同時に、より以上に、さらに甘やかしてくれと強請る。
「………おまえはほんと、かわいいな」
きゅうきゅう、きゅうきゅうとする胸がどうしてか泣きたい心地を呼んで、気を散らすため、名無星カイトはため息のようにつぶやいた。
それに、明夜星がくぽはどう答えたか?
「わ、わかったっ……!」
――明夜星がくぽより先にカウンタから声が上がったため、その答えは一旦、保留となる。