恋より遠く、愛に近い-第17話-
明夜星がくぽはきれいな顔を壮絶に歪めていた。足も一歩引いて、あれほど懐いていた兄へ尖った瞳を向ける。
それは失恋の痛みゆえに、過剰となった感情だった。
言っても詮無いことではあるがそれでも喩えるなら、ただの『大好きな兄さん』が相手であれば、『兄さんは気が多いな』程度の呆れで、明夜星がくぽも流したはずなのである。
流すだけでなく、明夜星カイトのうちでは明確な『コイビト』と『推し』の線引きをも理解し、恋愛と『推し活』の両立をサポートしてやることすらできたかもしれない。
【がくぽ】というのは本来、そういうものだからだ。
情報処理能力が高いがために、ものごとを俯瞰して見るにも向く。ゆえに第三者であるときの彼らは、冷酷なほどに公平であり、公正であるものだが、しかしくり返すことで強調しよう。
それはあくまでも第三者であるときの話なのである。
明夜星がくぽは今回に関して、まったく他人事ではなかった。
失恋した相手なのである。フラれたのだ。明夜星がくぽは、明夜星カイトに『選ばれなかった』。
そして今、兄はまた別のオトコを『選んだ』。
兄が『おとうと』へ懸ける情愛に、疑いはない。
けれどおとうとが欲しかったのは、そちらではなかった。
そちらではなかったけれど、兄がむしろ溺愛というほどに『おとうと』を想ってくれていることも知っているから――
実は明夜星がくぽは、自分が意外に冷静であることに驚いていた。
今日、つい先までの話だ。
名無星がくぽのことは知っていたし、ほんの顔合わせ程度だが、会ったこともある。
けれど兄の恋人となって、こうして兄とそろって顔を合わせるのは今日が初めてだった。
ふたりそろって、恋人として並んで顔を合わせたとき――
明夜星がくぽには、自分が冷静でいられる自信がなかった。
頭に血が上って(よくわからないがよくわからないことを)喚き散らすかもしれなかったし、問答無用で名無星がくぽへ殴りかかるかもしれない。
あるいはとてもその場に居られず、(あの機微ににぶい兄が見てすら)不自然に逃げ出すなどなどなど。
人間ではない。ロイドだ。
きっと【がくぽ】としての自制が働き、ごく普通に対応するだろうとも思ったが、同時に【がくぽ】だ。情報処理能力の高さを下支えする繊細さのせいで、バランスを崩しやすい。
兄とマスターとで懸けてくれた愛情のおかげで、明夜星がくぽはずいぶんバランスのいいほうだが、しかしそう、『兄』だ。
愛情は懸けてくれたが、愛はもらえなかった。
バランスを支える片柱が揺らいでいる。明夜星がくぽも自覚していた。自分は今、危うい――
それで、今日だ。
突然、ふたりそろって来たと知ったときにはさすがに驚いたし、体の芯をきつく掴まれたような不安がこみ上げもした。
視界が眩んだ気がしたものだが、動揺はそれだけだった。
すぐ、名無星カイトに呼ばれたからだ。
――がくぽ、ココア。
動揺を見せたはものの、名無星カイトはほとんど一瞬でいつもの調子に戻った。
自分ひとりで、立て直したのだ。
こういうところ、KAITOだなと明夜星がくぽは思う。
いつもはなにか自信なさげな、頼りなく、気弱なふうに見えるのに、奥のおく、芯が強い。それも無闇な強さではなく、やわらかにしなって、折れにくい強さだ。
――冷めたからな、マスターに取られるなよ?それはおまえのためのココアなんだから。
ちょっとそれはどういう警告なのと、出宵が抗議するのをきれいに聞き流し、名無星カイトはひらりと手を振ると玄関へ向かってしまった。
足取りは軽く、迷いもためらいもなかった。
明夜星がくぽは言われるがままココアに口をつけ、ひと口飲み、ひと口飲み、こくこくこくとすべて飲み干し、カウンタにカップを置くと、断固として立ち上がった。
――ほんとあのひとって、どうしてああもKAITOなの?!
憤然とつぶやきあとを追う明夜星がくぽの足取りに、もはやおそれはなかった。
なぜならココアがおいしかった。とてもおいしかった。
誰かの分をつくるついでの片手間ではなく、『明夜星がくぽ』の好みに合わせて、明夜星がくぽのためにつくってくれた名無星カイトのココアがだ、それはもう、おいしかったからだ。
そうやって明夜星がくぽのことをどこまでも甘やかしてくれるひとが、――戦友が。
今また自分を守ろうと、ひとり征ってしまった。
確かに名無星カイトは強い。ただ強いのではなく、しなやかに、強い。
明夜星がくぽが弱く揺らいでいるうちに自分ひとりで立て直し、明夜星がくぽのことすら立て直してくれるほどに。
だからといって動揺しないわけではないし、傷つかないわけでもないというのに、自分にはまったく無頓着に。
ただただにぶいだけだというのに、まるで傷をないもののように振る舞う――
旧型ロイドらしい、KAITOらしい、困った特性。
――いくら言ってやっても理解しないんだから、兄さんも、カイトも!
自分の説明能力は棚上げして(なにしろ【がくぽ】だ。その気になりさえすればKAITOなどよりよほどに説明能力が高い)、明夜星がくぽは戦陣もとい、玄関先に立つ名無星カイトの背に組みついた。
ノープランでした。
そうなんである――勢いだけで向かったので、ほんとうにまったくなにも考えていなかった明夜星がくぽである。
おかげで無邪気なおっとりさんとはいえ、さすがにふたりの関係性やらなにやらを勘繰らずにはおれない兄を誤魔化すことに、非常に苦労する羽目に陥った。
が、焦ったのはそれだけだ。
恋人として、そろって現れたふたりを見ても、驚くほどなにも感じなかった。
いや、――少しだけ、胸は痛んだ。あの【がくぽ】が、兄の恋人として傍らにあるのが自分だったならどれだけ良かっただろうと、そういった考えがまるで頭を過らなかったとは言わない。
けれど『済んだこと』だと思えた。
ああ、自分の初恋はほんとうに終わったんだなと。
自分勝手に無理やり組みついた背中が、どこか安心したように力を抜くのを感じた。
そうやって預けられる身を受け止めながら、明夜星がくぽは自分の想いもまた、受け止めたのだ。
そう、『終わった』と思ったし、ここまで自分が案外冷静に振る舞えているとも、思っていた。
ただし『終わった』ことと『傷が癒えた』こととは、同義ではない。
あるいは『終わった』ことと『傷ついた』こと、これはまったく別個で考えるべきことなのである。
たとえその傷が癒えていたとしても、いつか傷ついたという事実は変わらず、覆らない。
今の、明夜星カイトの態度は、明夜星がくぽの傷を刺激した。癒えきっていない、塞がりかけの傷だ。当初ほどの痛みはないが、未だじくじくとこころを刺す。
なにもなければ忘れてもいられるけれど、たまさかなにかで刺激を受けると、飛び上がるほど痛い――
ああまだここに傷があったのかと驚き、驚きは苛立ちへ、未だ癒えないのかと、悔しさや哀しみでこころがぐしゃりと潰れる。
なにより、『終わった』ことなのにおかしいじゃないかと。
『終わった』ことなのに、こんなふうに痛むのは、傷むのは、ゆるせない――
明夜星がくぽは自分でも、自分が混乱していることに気がついていた。
動揺して、まともな判断が下せなくなっていると。
――だって兄さんだ。『兄さん』なんだから。そう見えるのは、俺の目が眩んでいるからだ。だって兄さんなのに、兄さんはいつもと同じなのに。俺ひとりで勝手に卑屈になって、歪んで、失恋して、失恋したから、失恋したせいで、ああまだこんな、引きずる?さっき『終わった』って結論したくせに、こんなに情けなく、未練がましく、ばかみたいに、ばかみたいに、ばかみたいに!!
混乱する、花色の瞳は涙に滲む。それも腹立たしさに拍車をかける。
ああもうだめだと、明夜星がくぽは思った。
なにもかもが癇に障る。癇に障る自分が癇に障る。癇に障る自分が癇に障る自分が癇に障る。
悪循環だ。なにもかも、なにもかも、なにもかもが!
「ふあ、え、がくぽ?」
おとうとのこぼした小さなちいさな声で、明夜星カイトは我に返った。
とはいえ、なにを言ったのかまでは聞き取れていない。なにしろもう、全霊を懸けてというほどの熱意で名無星カイトに見惚れてしまっていたし、明夜星がくぽとて、聞かせようと思ってこぼした声ではない。ただ、堪えきれずにこぼれてしまっただけなのだ。
それでも、全霊を懸けてもというほどに集中していながら明夜星カイトは声を拾ったし、我にも返った。
それがKAITOにとってどれほどの難業か、普段の明夜星がくぽなら気がついたはずだ。見失った自信もすぐ、見つけられたことだろう。
ほら、兄さんはほんと、おとうとのことを溺愛してくれていると。
自信を失うことほど、この兄の懸けてくれる愛情を裏切ることもないと――
思えず、見失ったままであるのは、なにより混乱しているからだ。
「がくぽ、ど……、っ?」
明夜星カイトは未だ抱えていたココアのカップを、慌ててカウンタに置いた。
おとうとがなにを考えているかまではわからないものの、不穏な気配はわかる。そう、突き抜けて無邪気な傾向の強い明夜星カイトにすらわかるほど、今の明夜星がくぽは不穏さを醸していた。
先にも言ったが(第10話である)、基本、感情がフラットで波立たないのが、明夜星カイトのおとうとなのである。冷静であるというのとはまた違うが、とにかく大きく波立つということが滅多にない。
だというのに、ひどく波立っている。
危険だ。
理由はわからないが、危険だ。理由がわからないことが、なにより危険だ。なにといって、おとうとにとってだ。
このままでは、かわいいかわいいおとうとが、きっととんでもなく傷つく。傷ついてしまう、カイトの大事なだいじなおとうとが!
わけがわからないまでもなんとかしなければと、カウンタへ身を乗り出したのは兄としての明夜星カイトの責任感だし、なによりもおとうとへ懸ける深い愛情に由来する。
たとえその原因が自分であることにまでは気がつけないとしても、明夜星カイトがおとうとへ懸ける愛情が嘘であるとか、薄いといった証左にはならない。それとこれとは、また別個で語られるべき問題である。
問題を別個とはするが、この場合、原因が兄たる明夜星カイトであることは否定しようがなかったし、彼が対処しようとすることは、くすぶる火薬庫に火種を投げこむも同じことだった。
そんな恋人の傍らへ、名無星がくぽが一歩、出た。明夜星カイトの胸を押さえ、出るなと示しながらである。
反射的に見上げた恋人の花色の瞳は、厳しい光を湛え、最大級の警戒をもってカイトのおとうとを注視していた。
それが『失恋』の痛みゆえに過剰になったものであることを、名無星がくぽもまた、わかっていた。
憐れに思えばこそ、名無星がくぽは明夜星がくぽを注視せざるを得ない。いわば『傷』を負わせた張本人たる自分からの憐れみなど、それこそ腹立たしさに拍車をかけて逆効果だと理解して、それでもだ。
守らねばならない。
明夜星がくぽだ。
これで激情から兄を痛めつけるようなことがあれば、ほんとうに取り返しのつかない傷を負うことになる。
そしておとうとが傷つけば、おとうと思いの兄である恋人もまた、苦しむことになるだろう。
痛めつけられたことを恨むのではなく、痛めつけずにはおれなかったおとうとを思って、そうさせた自分を責めて、苦しむ。その兄を見るおとうともまた、新たに傷を深め、――
ループだ。悪循環だ。負の連鎖だ。どうしようもなく。
だからこそ事前に断ち切るべく、名無星がくぽは緊張感とともに警戒して、明夜星がくぽを注視する。
向けられる警戒心は感じていて、それでも明夜星がくぽは止まれなかった。
あれほど懐いていた、慕っていた兄を睨み、戦慄くくちびるを開く。
過ぎる激情にのどが閊え、潰れ、ほんの数拍、声は遅れた。
「やめろ、【がくぽ】」
――その間隙に割って入ったのは、凪いだ湖面のような声だった。