恋より遠く、愛に近い-第16話-
そう、ようやくにして愉快な通話が終了したわけだ。
それぞれにそれぞれの言い分があれ、この瞬間をもっとも待ちわびていたのが誰かといえば、そう。
「終わったな、明夜星カイト?」
「え?あ、はむっ?」
状況を見てカウンタまで来ていた名無星カイトに問われた明夜星カイトは、とてもいいお返事をした。
いや、とてもいいお返事をしようと開いたお口に、名無星カイトがすかさずスプーンを突っこんだ。あまりに素早く的確な動きで、拒むことも避けることもできなかった明夜星カイトは、素直にスプーンを咥える。
次いで、こくりとのどを鳴らした。
刹那の間――
きちんと飲みこんだことを確認し、名無星カイトがスプーンを抜き出す。その動きに合わせるように、明夜星カイトはぱちくりさせていた瞳をふんやりと蕩けさせた。
「あ、ココアぁ…っ!」
まさに蕩ける笑みとはこのことという、見本として展示したいような明夜星カイトの笑みだった。天使の降臨だ。
名無星がくぽはもちろんだが、見馴れているはずのおとうと、明夜星がくぽまでもがそろって見入る威力である。
が、そうした張本人、名無星カイトといえば、いたっていつもと同じ、淡々としていた。
「ふぅん……おまえほんと、甘いの好きなんだな…」
「っあ、兄っ!」
――いや、『淡々』でもない。そこには若干の呆れがあった。
とはいえ、全体総括としては淡々と頷いた名無星カイトはそのまま淡々と、明夜星カイトの口から抜き出したスプーンをちろりと舐めた。
目敏く見ていた(というより、なにかおかしなふうにライバル認定せざるを得ない状況へ陥ってしまったため、特性上、よく観察せざるを得ない)おとうとが、当然のごとくに非難の声を上げる。
兄といえば、こちらも当然のようにおとうとの的外れな(少なくとも兄にとってはそうである)非難を聞き流し、シンクにそのスプーンを投げこんだ。
そして冷蔵庫を経由してコンロへ向かうと、小鍋に残っていた中身、最後の味が決めきれずにいた明夜星カイトの分に、蜂蜜と生クリームとを少しずつ足す。
そもそも先に、いくらなんでも甘過ぎるかと頭を抱えたしろものへ、さらなる甘味の追加となるわけだが、名無星カイトの動きにためらいはなかった。
軽く火にかけながらよくかき混ぜると、ようやくカップへ注ぎ入れる。
そのカップと菓子鉢を持ち、名無星カイトはカウンタへ戻った。
まずは菓子鉢をカウンタへ置き、それからカップだ。携帯端末を未だ抱えたまま、いや、逆にかえってきつく握りしめ、瞳をきらきら輝かせて待つ明夜星カイトへ、微笑みとともに差し出した。
「ほら、これでおまえ好みの味になってるはずだから。今度は大丈夫だぞ」
「え、あの、カイトさ…」
――いわば『憧れのカイトさん』に微笑みかけられ、そのうえに大好きなものまで差し出されたわけで、明夜星カイトはのぼせあがってもいいはずだった。
が、名無星カイトの笑みの種類と、ココアとともに差し出された言葉だ。
明夜星カイトは戸惑い、助け手を求め、無為に恋人とおとうととに視線をうろつかせた。
しかし戸惑うのはおとうと、明夜星がくぽもで、彼もまた、名無星カイトと差し出すカップ、それに兄とを訝しげに見比べていた。
なにしろ先に、お味見をさせてもらった兄、明夜星カイトが見せた表情だ。蕩ける笑みだった。
蕩ける笑みとはなにかといえば、『とてもおいしい』ということだ。
そういったところで忖度できる兄ではないし、確かにおいしかったからおいしいと表明したはずなのだ。
だというのに名無星カイトは戻って味を調え直し、挙句に『だいじょうぶだから』とあやす言葉まで付け加えた。まるで不満を表明されたかのような態度を返したわけである。
察しがいいのが、名無星カイトというものだ。まさかここに至って相手の態度を読み違えたということは考えにくいが、そうとなると――
たとえ破れた恋があるとはいえ、名無星カイトがこういった類の意趣返しを企む手合いではないことを、明夜星がくぽは知っている。
とはいえしかしのかかしがしかしで、だとするならどうして今に限ってこんな態度を取るのかがわからない。
さて、そういったふうに明夜星家のきょうだいがそろって頭を悩ませている傍らで、頭を抱えているのは名無星がくぽもだった。
が、くり返そう。そもそも名無星がくぽは名無星カイトのおとうとであり、兄の手管というものをよく知っていた。
もちろん『手管』などという表現は、兄にとっては謂われなき非難というものである。
が、兄の手管をよく知る名無星家のおとうとは頭を抱え、「この兄がこの兄がこの兄が」と高速でつぶやいていた。
先に片づけたいのは手に持ったココアとその主のほうであるのでおとうとの奇行は流し、名無星カイトは戸惑うばかりの明夜星カイトへ、小さく首を傾げてみせた。
「それで、ひとつ訊いておくけど」
「あ、はいっ!なんでも訊いてっ!くださいっ!って、ととっ、あの、ありがとうございますっ、いただきますっ!」
受け答えのテンプレ、もとい、反射でどーんと胸を張ってから、明夜星カイトも自分が名無星カイトの手を不法に塞いでいることに思い至った。握り締めたままだった出宵の端末をカウンタへ置くと、代わりにココアのカップを受け取る。
すぐにも口をつけたくてそわついたが、名無星カイトの質問を受けている最中だ。そうでなくともおとうとが不調法を重ねているときに(少なくとも仔細を知らない明夜星カイトから見れば、そうである)、兄としてこれ以上の不作法は重ねられない。
未練がましい視線はやってしまったものの、すぐに顔を戻した明夜星カイトを真正面から受け止め、名無星カイトはやはり淡々と、どこまでも淡々と続けた。
「俺は今の話、聞かなかったことにしておくか?それとも、別に忘れなくても構わない?」
「………ほぇ?」
名無星カイトの確認の意図が理解できず、明夜星カイトはきょとんとした。にぶい反応だが、これは明夜星カイトが特異なわけではなく、KAITOの通常だ。
同機種だからということ以上に理解がある名無星カイトは苛立つこともなく、やわらかな声音で説明を足した。
「おまえ今、ワルダクミしてたんだろ?マスターまで巻きこんで………俺のこと、正攻法で口説くんじゃなくて、カラメテでなんとかしようって、そういう。俺は『ここ』にいたから当然、おまえたちの会話は全部、聞こえてたんだけど」
「ほ、ぇ……」
名無星カイトの言う『ここ』がどこかといえば、キッチンだ。明夜星カイトのいるダイニングとは、カウンタで隔てただけの。
では『カウンタ』とはなにかといえば、完全に塞がれた壁や、天井高さまでの収納棚といったもののことではなく、だいたい腰より少し高い程度の、作業台とも意訳される――
つまりまったく塞がれていない。なにもだ。視界もだが、聴覚も。
「ほ………」
「で、だからそれ、どうするって。ヒミツだから聞かなかったことにしといてほしいのか、ヒミツじゃないから覚えてても構わないのか」
「ぇ…゛……っ」
ゆっくりじわじわと名無星カイトの問いの意味を理解していく明夜星カイトの表情が、ゆっくりじわじわと固まり、青褪めていく。
ココアカップを抱える手が、ぷるぷると震えていた。
むしろぎゅうっときつく抱えこんだようにも見えるが、いつ取り落としても対応できるようにと様子を窺いつつ(だからこういったことが『意識して』できるのが、名無星カイトがKAITOらしからずと言われる由縁のひとつであるのだが)、名無星カイトはふわりと笑った。
人差し指を立てると、そっと自らのくちびるへ当てる。
「おまえはかわいいからな、トクベツだ。言えば、聞いてやるよ。で、どうする?」
「ぅ兄ぃいいいーーーーーーーーーーっ!!」
――名無星がくぽ、こころの奥底からの絶望の叫び、魂ぎる悲鳴が轟き、リビングの隅でうっかりうたた寝していたきのこ→違う、たまごのカラがびくっと跳ねた。跳ねた拍子に胞子が→違う、カラが落ちてヒナが出てきたが、誰も気がつかない。
叩き起こされて寝惚けまなこのヒナはきょときょととあたりを見回し、カウンタに固まるロイドの様子に首を傾げた。傾げてから、気がつく。
どうやらうちのKAITOころり、ないしKAITOキラーが、おとうとのコイビト相手にやらかした――
「だいさんじのよかん…」
もそりとつぶやき、ヒナもとい出宵は、落ちたたまごのカラをそっと拾った。ロイドたちの様子をよくよく窺いつつ、再び被る。
音も篭もって(魂ぎるような悲鳴でもない限り)よく聞こえない薄闇のなかへ無事に戻ることができると、出宵は膝を抱き、さらに小さく小さく固まった。その状態でかたぷるかたぷる震えながら、亜光速で思考をぶん回す。
たとえ卑怯と謗られようと、マスター失格だと責められようと、無理なものは無理なとき、無理だ。
とはいえ今回、うちのこがやらかしている相手だ。うちのこのおとうと、もうひとりのうちのこの恋人であると同時に、友人のロイドだ。
いつもの要領で『むりぷー』などと嘯き、放置しておくことは幾重にもまずい。
まずいが、だったらどうしろという話だ。ここで『マスター』が出ていったからといって、どうにかなるうちのこではなく、うちのこのチートスキルではない。あれはラボも意図していない、なにか偶発的なものがバケガク変化を起こした挙句にバクハツしたかなにかで生じた、バグに近いのだから。
所詮ただびとにしか過ぎない出宵に、いったいなにがどう、対処できるというのか――
一方、KAITOころり、でなければKAITOキラーからの、無自覚極まるがゆえに強烈な誘幻香に晒された明夜星カイト、無垢なるKAITOである。
「ほ、ぇあ、わゃゎわ………っ」
意味不明の声を上げ、顔どころか耳に首、手まで、およそ見える範囲の肌という肌を赤く染め上げた。ということはおそらく、見えない範囲の肌も赤く染まっていることであろう。見えないが。
まったくもって名無星がくぽが悲嘆に暮れ、絶望に陥るのも無理からぬことであった。
最前にも述べたとおり(第8話である)、名無星家のおとうとは、兄が本気を出したなら自分に勝ち目はないと知っていた。
しかしてもう少し言うなら、別に本気を出す必要もないのである。たとえ名無星カイトが片手間であったとしても、同じなのだ。
名無星カイトが対するのがKAITOである限り、【がくぽ】に勝ち目はない。
なぜなら名無星カイトとはKAITOころりもといKAITOキラーであり、そういうチートぶりをごく平然と発揮すればこそ、この称号を冠せられるのだから。
そして名無星がくぽの恋人とは、まさにKAITOであった。
もうこころの底から敗北しか見えない――
覗く深淵から覗くものすら、完敗の諦念に滲むではないか。存在意義を勘案したとき、せめても深淵くらいはやる気を保っていて欲しいものではあるが、地獄を逆さに振ったところで無理なことというのはあるのである。たとえどんな相手であれ、あまり無茶ばかり振ってはいけない。
ところでここにはもうひとりロイドがいて、そのもうひとりは幸か不幸か、KAITOではなかった。
明夜星がくぽである。
しかしこれは確実に不幸な事実として、彼は実のところ、名無星カイトの天然スキルを知らなかった。
当然だ。そもそも名無星カイトが無自覚であり、そういったスキルの存在を認めていない。
認めていないものを言うわけもないし、たとえ認めていたとしても、相手は明夜星がくぽだ。【がくぽ】なのだ。KAITOではないのである。
いったい言うことに、なんの意味があるだろう?
それが失恋の傷を癒しに来ているだけの相手と、なんの関係があるというのか?
そういうわけで、明夜星がくぽはそのキラースキルについて名無星カイトから聞かされたこともなく、ふたりの付き合いをうすうす知っていたマスターたちにしろ、ことに言い聞かせることはなかった。
なぜならだから、明夜星がくぽは【がくぽ】だからである。KAITOではないのだ。
伝えて、なにがどうなるというのか?
そこに、おもしろ半分に引っ掻き回すという以外の意図を感じさせることが、どうやったらできると?
名無星カイトはあくまでもKAITOころり、あるいはKAITOキラーであって、これまでのところむしろ【がくぽ】との相性はKAITOほどではなさそうであったから、そういった意味でも危機感がない。
そのうえで、明夜星がくぽと名無星カイトとは、だいたいがいつも、ふたりきりで会っていた(他人には言えない、癒え難い傷を舐めあうための密会だからである)。
ゆえに、明夜星がくぽは名無星カイトの対KAITOスキル、ある意味致命的なその影響力を目にする機会すらなかったのである。
それで、そういった感じで知らなかったので、して当然の誤解をした。
つまりだ。
できたばかりのコイビトに見向きもせず、ならば当然、おとうとのことなどもっと見ることなく、出会ったばかりの『オトコ』にうつつを抜かす兄の、その貞節とでも言うべきものにだ。
明夜星がくぽは愕然としてカウンタ越しに兄を見つめ、震えるくちびるから、堪えきれないこころをこぼした。
「兄さん……嘘でしょう、兄さん………兄さんがこんな、こんなにカルイオトコだったなんて」