恋より遠く、愛に近い-第24話-
さて、明夜星カイトの感動と興奮はあくまでもKAITOであるがためであり、本筋とは関係がない。
では現在の本筋とはなにかといえば、その笑みを向けられた渦中たる、明夜星がくぽだ。そして自分の影響力になど、まったくおかまいなしで無関心な名無星カイトである。
「『お試し』として、ちょうどいいんじゃないかと思って」
「『お試し』?」
反射で訊き返した明夜星がくぽであったが、『お試し』の意味自体はわかっていた。
おそらく本番はそれこそ、『マスター交換/ロイド交換』にある。その前に一度、片方ずつがそれぞれのマスターを経験してみてという話だろうが、しかしだ。
「いきなりふたり交換すると、マスターの癖とかそういうのまで、いきなり経験することになるだろ。それは俺も考えてみると、ちょっとキツイ。やるってなったら、やるけどな。でも、とりあえず片方ずつなら、どちらかがどちらかのマスターの癖とか、わかんなかったり、困ったりすることとか、説明できるだろ。それで受け入れるかどうかはまた別だけど、でもなにか感じたその場で相談できる相手がいるかいないかってのは、この場合、結構、デカいんじゃないのか」
「それは」
言われれば、もっともである。持ち帰って相談することもできなくはないが、その場にいるから伝わることや、言葉にし難くても状況から飲みこんでもらえることもあるのだから。
そしてこういった現場では、そういう、咄嗟には言葉にし難く、空気感から伝わることのほうが多い。
なにより『持ち帰る』ということは、時間を置くということだ。時間を置いて頭が冷めれば、こんなことを相談してもいいものだろうかと、ためらう気持ちが湧くことも多い。
なにしろこの企画の場合、自分ひとりが大変なわけではない。相手もまた同じか、より以上に大変な状況にいるかもしれないのだから。
だからといって下手に溜めこめばそれこそ、繊細でバランスの難しいと言われる【がくぽ】にはかなりの負担となるがしかし、――
『がしかし』が、ループだ。悪循環だ。負の連鎖が起こることは、想像に難くない。
自分たちの性向を強く自覚すればこそ、企画を聞いた段階で即座に【がくぽ】は難色を示すのである。
対して名無星カイトから為された提案である。妙案に近い。【がくぽ】の弱点をうまくカバーできるし、KAITOにとってもまったく不安がないわけではないから、特に断る理由がない。
一瞬は口を噤んだ明夜星がくぽだったが、すぐに思いついた様子で表情を輝かせた。
「だったら、じゃあ、別に、あんたでもいいでしょ。なにもまるで馴染みのないあいつじゃなくても」
『あいつ』と言って示されるのは当然、名無星がくぽであるが、それにしてもいかにもいやそうな顔だった。本人も、その恋人にして最愛の兄もすぐそこにいるというのに、隠す気も取り繕おうという気も、まるでない。
理由は明白だ。少なくとも、明夜星カイト以外には。
それで、名無星がくぽだ。明夜星がくぽと対照的に、完璧でなくとも表情も態度も取り繕う努力を怠らない、無闇と大人な男である。
いっそ清々しい気持ちになるのはなぜなのかと、懸命に取り繕った表情の下で、実は結構、動揺していた。
罪悪感や嫌悪感を抱くならまだわかるのだが、どうしてか胸が透く。透いている場合ではない。厭われているのは、まさに自分だ。矛先は自分に向いている。
しかもこれから共に『仕事』をしようと、口説く相手であるというのに。
動揺しつつもなんとか取り繕っているおとうとと、まったくいっさい、取り繕うところのない明夜星がくぽとを見比べ、名無星カイトは曖昧に瞳を細めた。明夜星がくぽの顎を捉えていた手で、やわらかに肌をなぞる。
「そんなに、どうしても、いやか?」
――明夜星がくぽが、名無星がくぽと組んで仕事をすることを、『そんなに、どうしてもいや』な理由を、名無星カイトは知っている。だから今、明夜星がくぽとこんな関係なのだ。どういう関係なのかと問われれば、『どう見えるのか教えてくれ』と逆に真顔で教示を乞う、意味不明も極まる――
曖昧な表情と同じく、曖昧な声音で訊いた名無星カイトに対し、明夜星がくぽ、取り繕うことのないあまえんぼうのわがまま王子は、明快だった。
最愛の兄、明夜星カイトの隣に座る名無星がくぽへ、白手袋でも投げつけるかのような勢いでびしりと、人差し指を突きつける(ところで如何なる理由があれ、こういったふうに誰かを指差し示すようなまねはしてはならないと世間では決まっている)。
勢いままきっと睨み、明夜星がくぽは烈と吐きだした。
「いやだよ!だってあいつ、僕のわがまま、聞かなそうだもの!そうじゃなくてもいよちゃんは自分のほうがわがままで、僕のわがまま聞かないのに、あいつも聞かないんだよ?!しかもぜったい怒るよ!耐えられないでしょ!!」
「そんな理由か?!」
「ぇあぁうっ、ぁくほ…っ」
さすがに取り繕うどころでなく、名無星がくぽが驚愕を叫ぶ。同時に明夜星カイトが、あぶおぶしながら恋人と、おとうととを忙しなく見比べた。
もちろん、明夜星カイトにとってはかわいい。もうこんなにどーしようもないわがままいって甘ったれるんだから、うちのおとーとはどこまでかわいいの!
――という具合に、ときめきがぎゅんぎゅんで止まるところを知らない。
自分に対してやったのであればだ。
しかして今やらかした相手は、恋人だ。明夜星カイトの。
おとうとにとっては、他人だ。
他人だが、微妙に他人ではない――が、最終的には他人に転び、軍配が上がりそうな。
あたおたする兄はもちろん視界に入っているだろうが、あまえんぼうのわがまま王子が思い止まることはなかった。
むしろふんすと胸を張り、名無星がくぽをはっきりと睨み据える。
「『そんな理由』って、なに?!あんたが俺にどうこう言うなんて、それこそわがままだって、どうせわかってないんでしょう!いい?あんたはそもそも、好き勝手やりたい放題できる『自分のマスター』が担当なんだからね!この時点で俺よりはるかに恵まれてるんだってこと、まず自覚を持ってほしいんだけど?!」
「っぐ、ぅっ!」
――さて、朗報である。誰にといって、名無星出宵、忘れ去られた名無星家のマスターにとってだ。
そう、『好き勝手やりたい放題できる』の流れで、名無星がくぽはようやく、自分が未だにマスターをねじ伏せたままであったことを思い出した。なにかしら反駁しようと開いた口が、すんでのところで止まる。
もはやどう足掻いても言い訳のしようもないとは、こういうことを言うのだ――まるでこの流れに至ることを読んでいたかのような、美事なまでに好き勝手やりたい放題の見本ではないか。
せめてぐうの音を返したことだけが、名無星がくぽの意地を示している。もちろん意味はない。
意味はないから、名無星がくぽは取り繕いようもなく苦い顔で、そろそろそわそわと出宵から手を離した。
顔は向けない。確かめない。謝りたくないからだ。やり過ぎたとは思うが、だとしても謝りたくはない――
対して、出宵である。
名無星家ではこういった扱いが日常であるため、出宵はことに感興も覚えていなかった。ただ、解放を歓ぶ。
解放と、あとは話の流れだ。若干、微妙なところもあるものの、なんだか目的が果たせそうな気がする。
そういうわけで解放されるや即、出宵は鼻息も荒く胸を張った。
「いやいやいや、がっくん…うちの子、なめないでほしいな!伊達に普段、ボクのお守りしてないよ!たとえおんなしおとうと同士だとしても、がっくんのわがままくらい、どーーーんと受け止めるから!」
――まあ、つまり。
どいつもこいつもという話なんである。
当然だが、勝手に安請け合いする出宵に、名無星がくぽは牙を剥きだした。しかしなにか言い返すより先に、明夜星カイトがぱんと、手を打つ。得心がいった模様であった。
「そっかぁー、なっとく!マスターのお守りかぁー!だからがくぽって、ちょっと見ないくらい頼りがいがあるんだねっ!」
「ぐっはあっ!」
無邪気にして純粋な感想というものは、時としてなにより致命的な毒となり得る。
明夜星カイトはきらきらと輝く顔で恋人を仰ぎ見て言ったわけで、むしろ出宵のことなどまったく見ていなかった。
が、とても正確かつ深く、的の真ん中雄牛の目玉を射貫かれた出宵である。せっかくホールドから解放されたというのにあえなく後ろに倒れ、体を捻ると床に突っ伏してべえべえと泣いた。
「あれ?えまちゃん?あの、がくぽ…」
「うむ、カイト……」
きょときょとと、背後の出宵と見比べる明夜星カイトに、名無星がくぽは頷いた。頷いただけで終わらせた。
雑も極まる対応だが、それ以外にやりようがないということは、ままあるのである。
さて一方、いわばこの騒動のたねを撒いた張本人、名無星カイトである。
彼は黙ってしばらく、おとうとへ喚き散らす明夜星がくぽを観察していた。そしてひとつの確信へ至った。
本心だと。
――つまり、明夜星がくぽが名無星がくぽを忌避する本来の理由は、今、この場で言えるものではない。理解していないのはこの場にいるたったひとりだけなのだが、そのたったひとりに、永久に理解してもらっては困るからだ。
そういうわけで苦し紛れに、咄嗟に、あるいは第二の理由を、もっともらしく出したのではないかと懸念したのである。
しかし名無星カイトが見た限り、明夜星がくぽは本気だった。こう言っては難だが、『本来の理由』のほうが二の次程度には、これが本気で明夜星がくぽが名無星がくぽを忌避する理由だった。
自分のわがままを怒ることはあっても、聞いてくれそうにないというのが。
いや、名無星がくぽそれ自体への忌避であるなら、本来の理由のほうにきっと比重があるだろう。
けれど今の、『仕事』に絡む話となると、こちらの理由のほうがはるかに重くなる――
どれだけ甘ったれてわがまま放題したいのかこの王子はという話だが、同時に今さらでもある。
なにしろ明夜星がくぽとは、兄が恋人をつくって甘えられなくなった分の代替を、(いろいろ理由はあったにしても)見ず知らずの他人であった名無星カイトに求めたほどのあまえんぼうだ。まったくもって、いくつの幼児かという。
ちなみにこれを訊くと、明夜星がくぽはまるで悪びれず首を傾げ、『設定年齢の話?それとも、稼働年数?』と訊き返してくる。そして、そのどちらで答えても結果は同じだ。あまえんぼうのわがまま王子らしい屁理屈理屈で、容赦なくへし折りにくる――
それはともかくだ。
そういう理由であるなら、遠慮もいらない。
と、名無星カイトは判断した。結論が乱暴だろうか?乱暴な結論であると、あなたは思うだろうか。
KAITOである。
らしからずらしからぬと言われても、所詮、名無星カイトはKAITOであった。なにより明夜星がくぽは頻繁にそう言う。あんたはなんて、KAITOらしいKAITOなんだと――
「そうだな。マスターの肩を持つわけじゃないけど、――先にそう言っておけば、問題ない。ちょっと見ないくらい頼りがいがあるかどうかまでは、俺は保証できないけど…少なくともそれで約束したなら、守る気概くらいはあるだろ」
「ちょっと、あんた…」
オススメモードに戻った名無星カイトを、明夜星がくぽは壮絶にいやそうに見下ろした。
「あんた、僕の話を聞く耳ってある?なんか、やること前提で話、進めようとしてない?それもオプション盛りだくさんで……あれこれ言うくせに、どうしてそう、マスターの肩を持つの?」
『持つわけではない』と前置きされても、結局、話の流れを見るとそうとしか思えない。
とはいえ、たとえKAITOらしからずらしからぬとしても、名無星カイトもロイドである。『マスター』の肩を持って責められる謂われはないはずだが、ごねる相手が明夜星がくぽだ。
そんなまっとうな理屈が通じると端から思っていない。明夜星がくぽといるときには諦念を成型して服を着せたもの、それが名無星カイトである。
なので、理をもって説き伏せるなどという、甚だしく無駄な労力を費やすことはしなかった。
無情なほどの本音をきっぱり、告げる。
「それはな、マスターが話を振ってきたからだ。つまり実現確率がほぼ100%だからだ」
「は?」
「え?」
意想外の声を上げたのは、当然ながら明夜星家のきょうだいだけだった。べえべえと泣き伏す出宵の様子を気にしつつも、タイミングで声を拾った明夜星カイトも、驚いたように名無星カイトへ目を向ける。
名無星カイトといえば、感心なことに明夜星がくぽから目を逸らさなかった。
逸らさせてもやらなかった。
まっすぐ見合い、言いきる。
「こういう、他人を巻きこむようなことで、巻きこむ『他人』に話を振った場合、マスターの下準備はほとんど終わってるんだ。他人にYESと、首を縦に振らせるための下準備も含めてな?だからそっちのほうで抵抗したって、労力が無駄だ。じゃあどうする?――って、話」
「どうするって…」
唖然としながらくり返した明夜星がくぽに、名無星カイトは軽く、肩を竦めた。答えを待つことはなく、先に口を開く。
「こうなった以上、労力を割くべきはもう、やるかやらないかじゃない。せめて自分たちに負担が少なく、有利な状態で巻きこまれようって、そういう」
これに、明夜星がくぽは、どう答えたか?
「え、なにそれサイアク……」
――ある意味、至極まっとうな答えであった。ほんとうはこころに秘めて口に出さないことがオトナとしてまっとうな態度であるということにさえ、目を瞑れば。
ところで、名無星がくぽである。兄に『わかっていて目を逸らしてやる』と評されたおとうとである。
兄からもマスターからも、ついでに恋人からすら目を逸らし(つまりどこを見ているのかよくわからない)、ぼそりと返した。
「兄よ。マスターはそこまで賢くない――ただ、悪魔との契約が、並外れて得意なだけだ」
「え、そうなの?」
傍らの恋人が驚いたように、揺らぐ湖面の瞳を瞬かせる(ちなみにそのおとうとのほうは、若干、いやそうに眉をひそめた。また、名無星カイトを抱く腕にもあえかに力が入ったことを、一応、報告しておく)。
念のために補記しておくが、名無星がくぽは場を和ませようとジョークを言ったわけではない。だからといって(明夜星がくぽが危惧したように)兄へ反駁を試みたものでもない。
名無星がくぽがロイドらしさを発揮し、精いっぱいマスターをフォローしようとした結果である。
別の言い方をするなら、精いっぱいフォローしてもこの結果となるのが名無星出宵という人物であった。
それでも咄嗟にフォローしようとしてしまうから、おとうとは兄に『ツメが甘い』と断言されてしまうのである。
さて、おとうとを『ツメが甘い』と断じる兄、名無星カイトである。これに、どう答えたか?
「下準備って、そういうことを言うんだろ」
――これについては、まったくもって真顔であったことのみ、補記して続く。