恋より遠く、愛に近い-第23話-
「………まあ、とにかくだ。甲斐はカイカイ曲をかく。うまくいけば、カイトと兄とでうたうこともあろう」
「ぅ、ぅおぉうっ…?」
――唐突に戻った状況説明に、出宵の返事がほとんど呻き声となったのは、その戻り方が唐突過ぎたためではない。いや、それも一割ほどはあるが、あとの九割である。うちの子がくぽの様子だ。
出宵の主観において、問題は解決したはずであった。
少しばかり独占欲と執着の強い傾向にある【がくぽ】の例にもれないうちの子がくぽにとって、恋人が返した答えは満点ではなくとも、とりあえず人心地のつくものではあったはずなのである。
が、どうだろう。
見よ、漂う暗雲がはっきり視認できる、うちの子がくぽのへこみようである。
部屋のなかだ。どうして暗雲が視認できるのか。しかも個人の周囲にだ。しかし視認できる。気がする。
珍しくもまともに、いい仕事をしたはずだった――それこそ満点ではなくとも、及第点程度の働きはしたつもりの出宵だ。
であるのに、この結果だ。理由といえば第22話、先述の通りなのだが、同じことを聞いたところで結局、当事者ではない出宵にはそこまで思い至れない(ただし当事者であったとしても、同じ理由で出宵がこうまでへこむかと言うと、そこには疑問が残る)。
どこでなにを読み違えたのかと、仰け反って逃げの体勢を取るマスターを、名無星がくぽはうっそりと見た。
「そういうわけだから、おまえはがくがく曲をかけ」
「そ、『そういうわけ』っ?!」
「え、がくぽ…」
今度の出宵の応えはほとんど声が裏返り、かん高くなった。おかげでなりたての恋人同士が見習うべき(あるいは決して見習ってはいけない)、美事なまでのふたりの世界を創出していた明夜星がくぽと名無星カイトも、なにごとかと目を向ける。
今まさに注目したばかりの彼らにはもちろん話の発端が見えないだろうが、隣に座っていた明夜星カイトにも不明だったし、当事者として振られた出宵にとっても、同じだ。寝耳にミミズクくらいの衝撃だった(水ならともかくミミズクとなると、寝耳になにをやらかしたにしても惨劇しか予想できないわけだが、つまりそういうことだ)。
『そういうわけ』で繋がれる二点の、出発点が出宵には見えなかった。
終点は見えている。『おまえはがくがく曲をかけ』だ。
がくがく曲――カイカイ曲がカイトとカイトでうたう曲の省略形であったのだから、がくがく曲とはがくぽとがくぽでうたう曲の省略形ということになるであろう。
そう、がくぽとカイトとで組んでうたうのでもなく、がくぽひとりでうたうのでもなく、がくぽとがくぽ、同機種をふたりそろえてうたうという。
通常であれば、ひとりでパートを変えてうたった声を重ねるのかと、咄嗟に思う。
が、今ここには確かに、【がくぽ】がふたりいた。そう、『がくがく』である。
さらに言うなら、詳細は未だ推測の域を出ないわけだが(なぜなら誰ひとりとして、出宵に順を追って説明しようとしない)、うちの子カイトもうちの子がくぽの恋人カイトとうたうようである。
で、これの作曲は相手のマスター:カイトラこと明夜星甲斐に依頼済みであり、了承済であり、――
そこから導き出される結論である。終点から逆順で辿って、見出す出発点である。
「え?」
追いこまれた人間あるあるで、出宵の表情は勝手に笑った。追いこまれた人間あるあるで浮かべる笑みであるので、ひどく引きつり、歪んだ。
名無星がくぽもまた、応えてうっそりと笑った。くちびるだけ歪むタイプの笑みだ。目は笑っていない。
そう、実際は笑っていない――くちびるの両端が半月型に吊り上がるため、笑っているように見えるだけである。
正しくは威嚇で牙を剥きだす獣だ。牙が装備されていないので、一瞬、笑ったように錯覚するだけの。
装備といえば、目からレーザーが出る機能など芸能特化型ロイドには装備されていないはずであるのに、出宵はその眼光でとどめを刺されたような気がした。
しかし早計だ。名無星がくぽはまだ、とどめは刺していない。
そうとはいえもはやとどめを刺すまでもない相手のはずだが、名無星がくぽは容赦なく、とどめを刺した。
「言っておくが、中途半端な仕事で済まされると思うな?うたうのは俺とあちらだからな」
「ぉえうっ?!」
「あ、やっぱり…」
案の定で示された方である。『あちら』である。
明夜星カイトはただ、推測が当たっていたということにだけ反応したが、出宵はそうはいかないし、もっとそうはいかないのはもちろん、あちらこちらそちらどちらわっちらな明夜星がくぽである。
「っはぁああっ?!」
これこそ寝耳にミミズク並みの惨劇が起こったらしく、明夜星がくぽは意想外と抗議を同時に叫んだ。切れ長の瞳が限界まで丸く見張られ、しかしながらすでに衝撃だけでなく、拒否感がありありと窺える。
「ちょっと、なに勝手に…」
「カイトが兄を口説くゆえな。俺はおまえを口説くことにした」
「はぁあっ?!」
当然の理とばかりに端然と説く名無星がくぽであるが、もちろんそれとこれとで因果関係を結びつけるのは、非常に困難である。
目を剥く明夜星がくぽこそ正しいとも言えたが、それに抱えられている相手だ。いかにも理路整然と無茶苦茶を言い始めた相手の兄だ。
「へえ。おもしろいこと考えたな、がくぽ…」
興味深そうにおとうとと明夜星がくぽとを見比べていた名無星カイトだが、そうつぶやいた。聞きようによってはというか、あからさまに、おとうとの肩を持つ発言である。
致し方ないということは理解しても、明夜星がくぽの顔は堪えきれず、絶望に歪んだ。
「ちょっと、あんたは他人事だと思って…っていうか、他人事なんだから口を挟まないで!」
ぴしゃりと撥ねつけた明夜星がくぽだが、相手は名無星カイトだ。おとうととのやり取りなどもっと激しいのが常であるので、この程度ではびくともしなかった。
びくともせず、平然と話を続けようとしたが、ひと足早く、明夜星カイトが割って入った。
「がくぽ、カイトさんに当たっちゃダメっ!」
「兄さっ…っ」
兄の指摘は正しいが、状況だ。ここに自分の味方はいないのかと、明夜星がくぽの表情は本格的に絶望を宿しかけた。
が、今回の場合、兄はほんとうにまっとうな注意をしただけであり、基本、おとうとの『味方』であった。
まず礼儀として刺すべき釘をおとうとに刺してすぐ、明夜星カイトは恋人へと向き直っていた。揺らぐ湖面の瞳に嘆願の色を浮かべ、うっそりと翳る花色を真摯に覗きこむ。
「あの、ぇえと、えと……先にやるっていっちゃったおれがこういうこというの、ヒキョーだってわかるの。でもがくぽ、あのね、がくぽって、人見知りでね…せめてマスターがやるならまだいいんだけど、えまちゃんと、がくぽなんでしょ?そこに、がくぽひとりでしょ?できないってことはないけど、けっこー、キツイと思うの」
ややこしい。
どうしてここには同名のキャラクタが呼び名も同じまま、複数存在するのか!
ややこしいうえに、明夜星がくぽの人見知り度とはいったいどれほどのものであるのかという問題も再燃するわけだが、とにかくだ。
過保護な兄らしくおとうとを庇った恋人に、名無星がくぽが口を開く。
が、言葉を発する前に、少し顔を逸らした。
健気な恋人の姿を直視していると、なにも言えなくなるからではない。このごたごたの隙に、またもやきのこ違う→タマゴのからにお篭もりしようと、四つん這いでこそこそ逃走するマスターに気がついたのだ。
とにもかくにも、言質を取る前に篭もられては無駄に話が伸びる。その他の説得はその他の説得として、まずは作り手の同意を得なければ進まない話というものもあるからだ。
「大人にせんか」
「んあづっ」
無碍に襟首を掴んで押し伏せたロイドに抵抗もできず、そのマスターはおとなしくテーブルとでこちゅう、つまり額を打ちつけ、二重の痛みに呻いた。
マスター相手に容赦ない所作に及んだ名無星がくぽだが、これはいわば、名無星家の常態だ。やり過ぎたかと慌てて安否確認することもなく、ごく平然と恋人に向き直った。
その恋人はどちらかといえば、大人しく、礼儀正しいご家庭のご出身であった――
「あの、あ、がくぽ、えまちゃ…」
「カイト、すまぬ。言いたいことはわかるが…」
名無星がくぽはいつも通り、恋人とは真摯に向き合っているのだが、その片手ではごく自然とマスターをねじ伏せたままである。
明夜星カイトはおろおろと、ねじ伏せられるままの出宵と恋人とを見比べ、うまい対処法が見つからず、救い手となる第三者を探して視線をうろつかせた。
第三者となり得るのは今の場合、少し離れた椅子に座るおとうとか、恋人の兄――
「俺はおとうとに賛同する」
「え…っ」
「だからちょっと、あんたっ」
目が合ったタイミングで名無星カイトに微笑みながら言われ、ある意味当然の答えではあるわけだが、明夜星カイトはそちらに意識を取られた(そして出宵は忘れ去られた。安定のKAITOクオリティである。なにしろ出宵は自分のマスターではないから、優先度がないにも等しいほど低い)。
ところで、これをなぜ明夜星カイトが『当然の答え』と判じたかといえば、先日、初めて顔を合わせた際の見立てだ。
中らずといえども遠からずで、明夜星カイトは名無星カイトを自分と同類、つまりおとうと大好き溺愛なおにぃちゃん、通称:ブラコンと認定していた。詳細は第2話を参照されたい。
であれば、こういった場面でおとうとの肩を持つのは考えるまでもなく、当然なのである。
苦慮するのは、当然とは理解しても相手は憧れのひとであるということであり、しかし明夜星カイトだとておにぃちゃんとして、おとうとの味方をやめるわけにはいかないということである。たとえその肝心のおとうとが、敵となった(かもしれない)相手にこそ懐いているのだとしてもだ。
それはそれ、これはこれ、明夜星カイトは明夜星がくぽの兄をやめた覚えはないし、クビになった覚えもない――
が、苦慮はする。
そもそも敵したい相手ではない。ありとあらゆる意味で。勝てる気もまるでしないわけであるし。
苦慮のあまり言葉が続かず詰まった明夜星カイトに対し、とりあえず最愛の兄が自分の味方であることは確認できた明夜星がくぽである。
つまり千人力である。たとえ言葉に詰まったとしてもだ。
そもそもKAITOに言葉でがんばってもらおうなどと考えるのはよほど詳しくない手合いくらいであるので、もう、味方であるとわかっているだけでいい(より実情に近く、あけすけに言えば、このあとは下手になにか言おうとすればするほど墓穴を量産していくばかりなので、もはや黙っていてくれたほうが助かるという)。
勢いを取り戻した明夜星がくぽは、膝に抱え上げたまま放す気のない相手をきっとして見た。
しかしてだから、相手は名無星カイトなのである。
荒ぶる【がくぽ】など、馴れっこだ。それもこんな、抱えこんだまま離さないでいるような相手など、おそるるに足らない以前で、むしろ愛らしい。
あまりに過ぎて愛らしいから睨まれても胸の奥がきゅんきゅん疼くのであって、それ以上の理由はない――
「あんたにとっては、他人事でしょ。口を挟まないでって」
「聞け、甘ったれ」
明夜星がくぽの(おとうと、名無星がくぽと比べればまったくもって穏やかな)抗議に耳を貸すことなく、名無星カイトはばっさり、切った。
ばっさり言いきるだけでなく、あまえんぼうのわがまま王子の顎をやわらかな手つきで撫で、自分と向き合わせた。いや、すでにふたりはほとんど向き合っていたのだから、これは逃げ道を塞いだというのが正しいか。
そうやって臆することなく正対して、けれど表情はやわらかに、名無星カイトは明夜星がくぽの揺れる花色を覗きこんだ。
「だから俺は、逆に賛成するんだ。おまえにとっては、こっちのほうが絶対いいから」
「僕?」
「兄?」
『おとうとの肩を持つ』と宣言したにも関わらず、名無星カイトは明夜星がくぽの味方であると言う。
明夜星がくぽがきょとんとしたのは当然だが、厳しい目で行く末を見定めようとしていた名無星がくぽもまた、思わずといった調子で声を上げた(ところでこのとき、片手は未だ、出宵を押さえつけたままである。実のところ名無星がくぽもまた、出宵のことを忘れている。押さえつけているのに?――そう、常態化とは往々にしてこういったことを引き起こすから侮れない)。
そのふたりをちらりと見比べ、名無星カイトは微笑んだ。蠱惑的な、あまりに妖艶な――
苦慮しながらも、なんとかおとうとの肩を持とうと割り入る隙を探していた明夜星カイトの頬が染まる。
色香に中てられたということも、もちろんある。だが、なによりは興奮だ。だからといって、その蠱惑的であることや、妖艶さへの、性的情動に基づくものではない。
KAITOでもここまでの感情を表せるのだと、表情に乗せることができるのだと、見通しのついていたはずの『自分』に秘められた可能性を目の当たりにしてだ。
可能性があることと実現できることとは、同義ではない。わかっている。
可能性があることと実現したいこともまた、同義ではない。わかっている。
わかっている。わかっている!
けれど可能性がないと諦めていたものを、諦めていることすら気がつけずにいるほど深く諦めていた世界を、生き方を、KAITOそのものを、名無星カイトはあまりに鮮やかに裏切る。裏切ってくれる。
裏切って、世界を鮮やかに、艶やかに、塗り替え、彩る――