よりく、-22-

とはいえ名無星カイトがそう長い時間、明夜星がくぽのくちびるに吸いついていたというわけでもなかった。多少の誇張はあれ、それでも言うなら、ほとんど一瞬だ。

一瞬ではあるが、『そう』とわかる程度の時間ではあった。感触もはっきりしていた。

たまさか掠ったと疑う余地もなく、くちびるは明確に、意図的に、押しつけられた。

押しつけられても『押しつけられた』だけであり、しかもすぐ離れたのだが、だとしても押しつけられたものであり、押しつけられた場所だ。

切れ長の瞳を丸く、ぎょっとして見つめる明夜星がくぽへ、名無星カイトは笑った。諦めは含んでも、後ろ暗さはない――

「心配するな。おまえも相当、かわいいから」

「それは兄さんに育てられたんだもの、当然でしょう」

ほとんど反射だけで言い返した明夜星がくぽに、名無星カイトの笑みは明るさを増した。ココアのカップを邪魔そうに上げ、体を折ってくつくつくつと笑う。

「そうか」

笑いに呑まれながら、なんとかといった調子で返す。

「そうだよ」

微妙に気勢を削がれたように返し、明夜星がくぽは体から力を抜いた。沈むように椅子へ体を預けると、笑う名無星カイトを胡乱に見る。

「あんたさ…そういうとこだよ。そういうとこだからね………わかってる?」

なにかを言い聞かせるように、訊く。対して、名無星カイトの答えである。

「いや、さっぱりわからない」

「だろうと思った!」

ほとんど無碍な答えを返した名無星カイトだが、あまえんぼうのわがまま王子もまた、あっさり受けて終わった。

いや、終わらなかった。一瞬は気が晴れたといった顔をした明夜星がくぽだが、すぐにまた、胡乱な顔をつくったのだ。

「ちょっと待って。『かわいい』じゃないでしょ。『かっこいい』はどうしたのどこにいったの」

「あー………」

いかにも不満げに詰問され、名無星カイトはくるりと目を回した。

なんの話かというなら、第5話を参照されよ(経過時間で考えると短いのだが、どういうわけかはるか彼方の過去の出来事に思えるから、体感覚というのはむつかしいものである)

目を回し、戻して、名無星カイトもまた、体から力を抜いた。椅子の背ならぬ、明夜星がくぽの体に身を預け、笑う。

「かっこいいし、かわいいし、かっこいいんだ。………うんそうなのかそうか、最強だなおまえ?」

適当なことを返しつつ、途上でなにか、気がついたらしい。名無星カイトはひどくきょとんとした無防備な表情となり、改めてといった調子で明夜星がくぽと目を合わせた。

これに対し、明夜星がくぽはどうしたか?

――にっこり、満面の笑みで返した。自信と誇りがあり、衒いも驕りもない。

明夜星がくぽは満面の笑みとともに身を起こすと、膝の上の名無星カイトをきゅうっときつく、抱きしめた。

「仕様がないなあんたはほんと……ほんと、KAITOなんだから!」

――その意味は名無星カイトにはまったくわからなかったが、構わなかった。

どのみち明夜星がくぽとは、意味不明を成型して服を着せたものだからである。言うにしろやるにしろ、意味がわかることのほうが少ないのだから。

さてところで、その意味不明を成型して服を着せたものの兄である。おとうと曰く、自分をかわいく育てた『親』のひとりである。

「ぅえぇ、いぃ、なあ………っカイトさんも、がくぽも、どっちも……っ」

指を咥え(これはおそらく比喩表現である)、非常に恨みがましい様子でつぶやいていた。

つまり、念のため一応(需要の度合いがまったく知れないということである)、解説しておくとである。

おとうとに、あんなに全力で甘えてもらえる『カイトさん』がうらやましい。

憧れの『カイトさん』に、あんなふうに構ってもらえるおとうとがうらやましい。

略して、うらめしい。

――つぶやきではあるのだが、ソファで隣り合って座る恋人、名無星がくぽにはもちろん、筒抜けにすべて聞こえていた。

筒抜けに聞こえたすべてが意想外も極まり、名無星がくぽはソファに身を預けて天を仰いでいた姿勢を改めた。

ただ身を起こすのみならず、思わずといった風情でまじまじと、恋人を見てしまう。

いや、なんと言えばいいのかわからないのだが、そう、だから、名無星がくぽにとっては恋人であるが、その名無星がくぽの兄が『粗相』した相手、明夜星がくぽにとっては兄(ブラコン、ないしおとうと溺愛、あるいはおとうと偏愛)であるのが明夜星カイトだ。

この場合、重要なのは()内である。

普通だった

「……カイト?」

「ん?」

下手に突けば下手なことになる可能性も高いのだからスルーしておけばいいものを、しかしあまりに意想外が過ぎて、つい、声を上げてしまった名無星がくぽである。

いや、下手なことになる可能性はこの場合、スルーしたところで同率程度で存在する。ならばむしろ、手に入れられる情報には貪欲に喰いついておいたほうがまだましだ。

なんのことかと思われるだろうか。

だから、明夜星カイトがとても普通だという話である。正気と言えばいいのか。

内心、ひどく焦る名無星がくぽに気づく様子もなく、呼ばれた恋人はきょとんと顔を向けた。

『きょとん』だ。正真正銘の『きょとん』である。背後に、蓋を開けた地獄の釜が控えてもいないし、ごく普通に、本心から本気の。

そんなわけがないのである。

だから()内である。先述した『明夜星がくぽの兄()』の、()内である。今回の場合、本文より重要なのは()内なのである。

大事なかわいいおとうとに、いわばなんでもない関係であるはずのうちの兄が『粗相』して、それを目の前で見て――

普通なわけがない。

しかし普通である。

普通でおれるわけがないはずであるというのに、普通である。

逆に、恐怖しかない。

これがたまたまなにかのタイミングで注意が逸れており、見ていなかったというならまだわかるし、ある意味KAITOあるあるだからいいのだが――

「っ、ああ…?」

どうすればもっとも穏やかにことが済むだろうかと、言葉を探しあぐねて咄嗟に見合うだけとなった恋人に、珍しくも明夜星カイトのほうがなにか、察してくれた。

兄であればごく日常的になんでもかでも察するので珍しいことではないが(だからこそおとうとの口癖が『兄はほんとうにKAITOなのか』となる)、KAITOらしいKAITOである明夜星カイトには難易度の高い作業のはずだ。

が、これもある意味、KAITOあるあるではあった。

普段はにぶいのだが、どうしてかこちらがよほどに苦慮しているか、あるいは察しないでほしいと本心から願っているときほど、なんだか察してくれるのである(前者はKAITOの鷹揚なやさしさを顕すものとされ、後者は実は癖が強く複雑なKAITOの裏面が覗いたとされる)

とにもかくにもだ、明夜星カイトはなんだか察した。察してくれ(てしまっ)た。

揺らぐ湖面の瞳を見開いてから、ふわりと笑う。いや待て、笑う要素がなにかあったか。むしろ天の御使いというほどの慈愛に溢れた笑みではあったが、そんな笑みを浮かべる要素がどこに。

――ほとんど表情にも態度にも表さないまま、実は結構めに震撼している名無星がくぽにやはり気づくことはなく、明夜星カイトは天使の笑みまま、ちょこりと首を傾げた。

ずれちゃったんでしょあの角度はむつかしいもの」

「ずれ……」

『ずれ』たわけではない。兄はあからさまにそう意図して、間違いなく思ったとおりにやった。

喉元までこみ上げた反論を、しかし名無星がくぽはすんでのところで飲みこんだ。

とりあえず、タイミングの問題でたまたま見逃していたから『普通』なのではないということは、わかった。

きっちり見たが、解釈が『ずれ』たがために、普通なのであると。

しかしてその、解釈のずれが起こった原因である。根拠である。

なにも明夜星カイトはおっとりほややんとした性質のなせる、過ぎ越した善意でそうしたわけではなかった。あるいはKAITOころりでKAITOキラーな憧れのひとに、忖度したわけでもない。

ただ前提が違うのだ、KAITOであるがために、【がくぽ】と。

まず、よく知られたKAITOのデフォルト設定だ。挨拶のキス(とハグ)の習慣である。

これゆえに、KAITOは『キス』に対する全般の考え方が、【がくぽ】よりずいぶんフランクとなる。

そのうえで、KAITOというキャラクタの特質である。あるあるである。

慈愛に満ちた笑みが、下げた眉尻でわずかに困ったようになり、明夜星カイトは気の抜けたような声を上げた。

「あるあるだもん、怒れないよー。自分に返ってきちゃう!」

「『あるある』?!」

だから――まあ――つまり――そう――…

前提が違うのである。前提が違うために【がくぽ】と考え方が違い、受け止め方も変わる。

ゆえに【がくぽ】にとっては故意以外のなにものでもないあの行動も、明夜星カイトにとっては単なるたまたまの、事故でしかなくなると。

あれは十中八九、口塞ぎの目的で兄が狙ってやったことだという名無星がくぽの確信は揺るがないわけだが、少なくとも明夜星カイトに対し無用な気遣いの必要はなくなる。

いや、なくならない。

あるある』である。

明夜星カイトはなにも、名無星カイトだけが『ドジっ子』だと言ったのではない。KAITO全体の傾向として、よくあることなのだと。

よくあるらしい。

角度なり、距離なりを間違え、目測を誤った挙句、挨拶のキスのつもりが相手のくちびるを奪ってしまうことが。

よくあると!

「か、……っ、かい、あ、……っ」

だとしてもだ、おとうと相手にやらかされたことについて、おとうとを溺愛する恋人が鬱屈を抱えていないということがわかったのは、良かった。

良かったが、そこで憂慮のたねがなくなったために、名無星がくぽはよりいっそう、動揺せざるを得なくなった。

恋人の貞操的なものである。

いや、そこまで言うとおおげさではあるが、しかしそういう的なものである(『的なもの』としているところに、名無星がくぽのなけなしの正気であるとか、理性であるとかいったものが託されていることをどうか察して上げて欲しい)

なぜなら明夜星カイトのおとうとである。明夜星がくぽである。兄に懸想もとい恋情つまり欲情を抱いていた男である!

兄とおとうとであるからにはひとつ屋根の下に暮らし、おはようからおやすみまで毎日まいにちまいにちエンドレス毎日、習慣としてことあるごとに(挨拶の)キスをしているだろう。してきたことだろう。

回数が多ければ多いほど、失敗の確率というのは上がるものである。なによりもう片方に思惑があれば、確率はさらに倍々で上がると相場が決まっている。

挙句、明夜星カイトにとってこれはKAITOあるあるであり、ひとのことを言えば必ず自分に返るほどのものである。そう、もとから失敗する確率が高いということだ。

名無星がくぽの思考の片隅には、自分のこころの狭さと余裕のなさを嘆く声があった。

そうはいっても最終的にカイトが選んだ恋人は自分であるのだから、こんなことで悩んだり憤ったりするのは、いかにも偏執的であると。

そもそも相手のほうには思惑があったとしても、恋人にとってはうっかりであり、うっかりでしかなく、うっかり以外のなにものでもないことだ。そんなことでちくちくと刺されるなど、それこそ理不尽極まるというものでしかなかろう――

そうとは思う。

思うがしかしだ。かかしだ。いっそほんとうにかかしなら良かった。いや、こころがないのはブリキのほうだったか。

「ん?」

「……っ」

声に出せば間違いなく、ろくでもないことを言う。

ふたりきりでやってもまずいが、今はその、ふたりきりですらない。外で、赤の他人が無関心に通り過ぎていくなか、たまたま耳にしてしまうということでもなく、いるのはがくぽの兄にマスターに、恋人のおとうとにと、いわば身内ばかりである。

しかしてこのまま見合っていても、まずいことはまずい。先にも発揮した、KAITOあるあるである。どういうタイミングでなにを察してくるのか、KAITOというのはほんとうに読めないのだ。

読めない以上、逡巡の間はない。なんとかして、早く、はやく、はやく――

きょとんと無垢な瞳を向ける恋人を見返しつつ、名無星がくぽは無為にくちびるを開閉させ、悶絶した(現実の動きとしては、くちびるの開閉だけである。ほかは微動だにしていない。『悶絶した』というのは、こころのうちだけの話である)

「あー……」

さて、ここまで(いろいろ危機回避のため)存在感を極限まで薄めていた名無星出宵、名無星カイトと名無星がくぽのマスターである。

が、さすがに諦めた。

これはもう、存在感を消したままのほうが、危険であるからだ。なにしろ、言い訳となるはずのココアもきれいに飲みきってしまったし、菓子鉢の菓子だけに責任を押し被せるのは、いかにも無理がある。

それになんだかんだといえ、出宵にも出宵なりに、自分のロイドに対して責任感と庇護欲というものがあった。

うちの子が困っているなら、たまには助けないといけないのである。たまには(ここを二度言った意味は明白である。だからあくまでも『たまには』の話なのである。それでこれで三度めなので、真実ということだが)

「『あるある』ならさあ、カイトくん…」

「え?」

そういうわけで、軽く言ってもギロチンを目の前にした程度の覚悟で口を開いた出宵だったが、普段の行いというものがあり、本人が被りたいキャラクタというものがある。

傍目にはいつも通り、ごく無邪気に考えなしと見えた。

だから明夜星カイトも警戒心なく、目を向ける。

特に笑みを浮かべるでもなく(この場合、下手に笑うと媚びたりへつらったりと不自然に歪み、不信感を煽ることとなる)、ただ純粋に疑問に思ったからという風情で、出宵はあえかに首を傾げた。

カイトくんにもよくあることなのたとえば、カイトラさんとか、がっくんとかさー?」

「ますっ…っ」

がくぽが目を剥いて声を上げかけ、すんでのところで思い止まった。

こちらのことを気にする風情もなくいちゃついている(傍目にはそうとしか見えない。そしてもうひとつ言うなら、ここにきちんと成立している恋人同士のふたりがいるのだが、そちらがむしろ節度ある距離を保っているのに対し、そういった仲でないはずのふたりのほうが目に余る状況である)、自分の兄と恋人のおとうととを慮ったのだ。

これだけの近距離にありながら美事なまでのふたりの世界を創出し(もはや成立している恋人同士のふたりのほうが見習うべきではないかという段階にまで至っている)、まずい状況に気がつかないでくれているのだ。

できることならこの話題は、気がつかれる前に終わっておきたい。そうでなければ幾重にもまず過ぎる。

さらに欲を言うなら、今後を考えても持ちこしたくない懸念をきれいさっぱり片づけたうえで、である。

素早く計算して口を噤んだ名無星がくぽは、いわば出宵にとっても計算の内だった。

計算し、今回に関してはよほどは怒られないだろう(少しは怒られるかもしれないが、激怒はないということである)と見こめばこそ、ギロチンを目の前に勇気を振り絞ったのだから。

そんな主従の思惑も緊張感もどこ吹く風と、渦中の台風の目たる明夜星カイトといえば、けらりと明るく笑った。

「ふたり相手には、やったことないよー。ふたりとも、おれよりよっぽど、気がつくもやりそうになる前にちゃんと止めてくれるし、だいじょぶなんだよー」

――それは安堵で目の前が明るくなるような心地を一瞬呼んだものの、次の瞬間には名無星がくぽを地の底まで叩きのめす答えであった。

明夜星がくぽは下心を隠しもしていなかった(それでも向けられた兄は華麗にスルーした)

となれば当然、するはずのないミスでも誘発し、いずれの甘露を味見していたことだろうと思ったものを。

それは逆に反せば、自分ならきっとそうするという話だ。

けれどむしろ、明夜星がくぽは兄がやらかしそうになるのを逐一丁寧に、止めていたという。

相手のほうがよほどに紳士であり、――

ほんとうに、大切にしていたのだ。

ただ満たしたい欲があったのではなく、大切にたいせつにするなかで、ほんの少し、想いが過ぎ越した。

過ぎ越したのはなぜかといえば、だからほんとうにほんとうに、大切にたいせつに思っていたからだ――

明夜星がくぽとは、下心を隠しもしていなかったとしても、下世話ではなかった。下衆でもなかった。

それを下衆のように思い、警戒し、挙句こうして疑った自分こそがまさに下衆であり、厚顔無恥も甚だしい。

こんな相手に大切な相手を奪われたのだから、明夜星がくぽはよほどに無念であり、業腹も極まることだろう。

だからといって、返してやるわけにもいかない。もはや返すことなど、決してできはしない。

たとえ相手に及ばずとも、名無星がくぽとて明夜星カイトを想うこころに偽りはないのだから。

であれば可能なことは、やれることは、やるべきことは――