恋より遠く、愛に近い-第21話-
「でさ?結局、どこまで話は進んだの。ってか、話は進んだの?」
ココアをひと口啜ってからの名無星出宵の確認ほど、この残念な『会合』の真実を突いているものもなかった。
そう、どこまでもそこまでもない――基本、話はまったく進んでいないのである。進んでいないどころでなく、もはや行方不明と言って過言ではなかった。
これだけ長い時間をかけて――いや、言っても明夜星カイトが突然に訪問してきてから、まだ三十分程度しか経っていないわけであるが。
きっとそう言われても信じられないことだろう。三十分?もうすでに何日も何日も経過したような、そんな気がして仕様がない。
しかして少なくとも明夜星カイトが来てからは、時間にしておよそ三十分程度しか経っていないのである。
絶望しかないとはこのことだが、核心を突いた出宵の問いに、名無星カイトと名無星がくぽとが顔を上げ、目を見交わした。
問いを放ったのが自分たちの『マスター』であるということもあるが、ここまでに判明した、明夜星家のロイドきょうだいの説明能力である。説明無能力ぶりである(特に顕著であるのは第14話だろうか)。
明夜星家のきょうだいの内訳には【がくぽ】も含まれるはずなのだが、この衒いなきあまえんぼうのわがまま王子ときたら、気が進まないことを『説明する』という面倒を全力で避ける。それもまったく悪びれず。
今もそうだった。
問いを放った出宵からしらりと目を逸らし、椅子に座る前にいくつか確保していた菓子の個包装の、ひとつを破る。それで取り出した菓子を、幼子がおもしろがって給餌するような雰囲気で、名無星カイトの口に運んだ。
そう、名無星カイトの口に菓子を――
深く考えもせず、ほとんど反射の動きで菓子を咥えてしまった兄を責めるのが酷だというのは、不仲のおとうとにもわかっていた。
あんな無邪気なしぐさで運ばれたら、名無星がくぽとてきっと、反射的に口を開けてしまうからだ。拒めない。
いや、明夜星がくぽは名無星がくぽにだけはああいった無邪気なしぐさを決して見せないだろうから、この問題は永遠に仮定のままとなるわけだが、だからといって別に悲しくなんかない――
ほんとうだ。ほんとうに、悲しくもないし悔しくもないし複雑な胸中だとか意味がわからないにもほどがある!(ところでそういった理由でなぜか鉛を飲まされたような心地となった名無星がくぽは知らないが、彼の兄はこの明夜星がくぽを、意味不明を成型して服を着せたものだと思っていた。見ていて意味不明な気分になったとしても、それで当然なのである)
さて、とにもかくにもそういうわけで、いかにも渋々ながら名無星がくぽが口を開いた。口を開いたが、だから話はまったく進んでおらず、発端は行方不明なのである。
「そうだな」
そこで一拍置き、名無星がくぽはちらりと、隣に座る恋人を見た。さすがにずいぶん余韻も抜けて、ぽやぽやしながらも俗世にお戻りになった天使である。
「甲斐が………、カイトと――兄で、曲を書き下ろしてみることになった」
「え?カイトラさん?カイカイ曲って」
驚きから咄嗟に声を上げたものの、うちの子の言い回しに引っかかりを覚え、出宵は眉をひそめた。
ずいぶん、持って回った言いようだった。はっきりしない。それがほんとうに確定事項であるなら【がくぽ】はそう言うし、確定しきらない予定であるなら、それもそれで『そう』言う。
旧型の物難さとはまた別に、几帳面なのが【がくぽ】というものなのである。
だというのに、なんだかずいぶん、複雑な言い回しをした。これでは確定事項なのか非確定事項なのか、よくわからない。
よくわからないが『カイカイ曲』、明夜星カイトとうちの子カイトの曲だという。
うちの子である。
非公認チートスキル、KAITOころりなKAITOキラー持ちの、うちのカイトと。
「………ええと、うん?もしかして、カイトくん?」
「え?ああ、うん。カイトさんとうたいたいからいい曲つくってって、マスターに」
あやふやに口にした出宵の推測を、明夜星カイトはあっさり肯定した。
そう、明夜星『カイト』――KAITOである。
それで出宵には概ねすべてが理解できた気がしたのだが、隣に座るもうひとりのうちの子がくぽだ。なぜかひどく気忙しげに、おっとりぽやぽやと答えた恋人を見た。
いや、『なぜか』ではない。諸々、道が逸れに逸れて棚上げとなっていたが、つまりだ。
「カイト、その…」
「え?」
「兄が、そこに」
「え」
――明夜星カイトとて、まさかすぐそこにいる名無星カイトのことを忘れていたわけではない。そうでなくとも憧れのひとであるのに、うちのかわいいかわいいエンドレスかわいいおとうとと、なんだか詳細不明なセットだ。
忘れたくても忘れようがないが、さっぱり忘れていたことがあった。
だから、『マスターにいい曲つくって』とお願いした、その一件だ。
「ん?どしたん?」
きのこ化→違う、たまごカラな簡易シェルターにお篭もりし(うたた寝までし)ていたがために、出宵はことの詳細を知らない。
きょとんとして、固まった明夜星カイトと、(明夜星がくぽの上でだんだん姿勢が自堕落になっていく)うちの子カイトとを見比べた。
それで、名無星カイトだ。
あまえんぼうのわがまま王子の膝に乗せられた挙句、無闇な甘やかし攻勢に遭い、なんだか退廃的なムードを醸し始めてしまっていたが、これでようやく我に返った。
ぱちりと瞬くと可能な限り姿勢を直し、ソファで固まる明夜星カイトを改めて見る。
――ところでこのとき、抱えていた明夜星がくぽが小さく舌打ちをこぼしたような気がしたが、下手に突けば下手なことになるに違いないと直感したカイトは、聞かなかったものとしてきっぱり流した。
ロイドに直感が働くかどうかは未だ結論の出ていない議論のひとつであるが、KAITOはごく頻繁に直感様のものを見せるともっぱら巷間に言われている。
らしからずらしからぬと言われていても、名無星カイトもKAITOだ。可能性は否定できない。
それはともかくだ。
「そうだった、明夜星カイト――おまえ、俺にどうしてほしい?忘れとくか?覚えとくか?」
「ぅあ、ぁああぅうっ!」
「へ?」
出宵はさらにきょとんとして、頭を抱えてしまった明夜星カイトと、体勢にさえ目を瞑ればいつも通りなうちの子カイトを見比べた。
見比べてすぐ、なんとなし、察した。
KAITOらしからずらしからぬうちの子カイトに対し、まさに純正品なKAITOである明夜星カイトだ。
きっとマスター:カイトラこと明夜星甲斐に、『カイトさんを驚かせたいから、ないしょでつくって』とでも頼んだのだ。本人の目の前で。
都市伝説をすべて現実化する、ジョークの破壊者、それがKAITOである。
というわけで、明夜星カイトだ。
棚上げにして忘れていた大問題に直面し、目も思考もぐるぐる回った。
ぐるぐる回るなかで思い出すのが、なんだかよくわからないが荒れたおとうとを(残念ながらほんとうに明夜星カイトには、おとうとが荒れた原因の芯を察してやることができない)鮮やかになだめた名無星カイトの手腕、そしてその後に取ってみせた態度である。第18話だ。
――おまえがなにを心配しているのか、俺にはわからない…
あのときも明夜星カイトの思考はいい加減、ぐるぐるに亜光速回転していたが、それでも鮮明に残っている。
自分にはできないし、してもやれない態度だった。
だからといって器用極まる恋人、あるいは【がくぽ】であっても、まねはできないやり方だ。
ああも美事に、ほんとうにまるでなにもなかったかのように振る舞うことは――
いや、明夜星カイトだとて、なにもなかったように振る舞うことはできる。ただしそれは、忘れてしまうからだ。
ので、より正確に言えば『ように振る舞う』わけではない。忘れているから、結果、同じような振る舞いに見えるだけという。
なにかのきっかけで思い出せば、あぶおぶしてしまう。相手にも筒抜けだ。思い出したなと。
【がくぽ】のようにすべて記憶しながら、KAITOのようにすべて忘れ去ったものとして振る舞う――
明夜星カイトが頼めば、名無星カイトはまた同じように振る舞ってくれるということなのだろう。あんなにはっきりと聞いたものを、聞かなかったときっぱり貫く。
そうやって明夜星カイトのことも、まるでほんとうのおとうとのように甘やかしてくれるこころづもりで――
「……っ」
頭を抱えていた明夜星カイトは、きゅっと、くちびるを引き結んだ。
――なんでおまえ、卑下する?
蘇るのは第19話、やわらかな声だ。やさしい笑みとともにこぼされた、やわらかに、厳しい。
――俺はおまえのおとうとから、『大好きな兄さん』の自慢しか聞いたことないぞ?
あれは、だから自信を持てという話ではなかった。慰めでは。
おまえはおとうとをウソツキにするつもりなのかという叱咤、叱責こそが本題の。
少なくとも明夜星カイトには『そう』聞こえた。『そう』聞いた。
明夜星カイトが自分を『ダメなおにぃちゃん』と卑下することは、いつも『いいおにぃちゃん』だと自慢しているおとうとの言葉をウソにするものだと。
おまえはそれでいいのかと――
いいわけがない。いいわけがないが、言い訳はある。おとうとは兄を慕うあまりほかを疎かに、兄を過大評価しがちな面がどうしてもあるから――
それに、やはり卑下ではなく、名無星カイトはいい『おにぃさん』だと思うのだ。
恋人から話を聞いていただけのころにもうすうす感じていたが、こうして自分のおとうとまで平然とあやしきる姿を目の前で見れば、余計に、強く思う。
自分などよりよほど立派で、すてきな『おにぃさん』だと。
憧れは尽きず、まぶしくて、とても敵う気はしない。それはおとうとも自分が、『おにぃちゃん』のことが物足らなくなって当然だと、どうしても思ってしまう。
だとしてもだ。
ならば問う――自らへ、自分へ、明夜星カイトから、明夜星カイト自身へ。
明夜星がくぽの『兄』であることを、誰かへ譲れるのか?
自分以外を『兄』と呼んで慕うおとうとを、容れられるのか?
自分のおとうとへの想いとは、そんな程度のものであったのか!
――そう。
答えに従うなら、ここでまばゆさに眩み、憧れまま、自分まで『おとうと扱い』に堕してはいけない。
自分まで名無星カイトに甘やかされるわけにはいかないのである。
「覚えてて、ください」
きゅっと拳を握り、きっとした顔を上げ、明夜星カイトは決然と告げた。
端然と見返して、名無星カイトはわずかに首を傾げてみせる。
「難易度、上がるぞ?構えるからな」
「だいじょぶですっ」
力強く即答してから、明夜星カイトは少し、いつものおっとりぽやぽやとした空気を取り戻した。
「あ、えっと、ほんとはあんまり、だいじょばないかもなんだけどっ!でもっ、あのっ、マスター、いい曲かいてっていって、かくよって、いってくれたからっ!だったら、ほんとにちゃんと、いい曲だし!だからおれ、がんばりますっ!」
並びも流れもぐちゃぐちゃな、明夜星カイトの宣言だ。ただ一所懸命であることだけが伝わる、それ以外は伝わりにくい。
受けた名無星カイトは、どう答えたか?
「おまえやっぱり、すごくかわいいな」
蕩けるような笑みで言い、ひらりと手を振った。
「じゃあ、たのしみにしてるから。おまえが口説きにくるの」
「くどっ……?!」
推測はしても、正確な話の経緯は知らない出宵がそこで吹く。
念のために補記しておくが、この『吹く』とは『笑った』ことの比喩ではない。むしろ心境として、出宵はまるで笑えなかった。洒落にならない。
なぜならうちの子カイトといえば、KAITOころりなKAITOキラーだ――今さら明夜星カイト、おとうとの恋人にまで口説いてもらわずとも、親衛隊でもフリークでもグルーピーでも、相手には事欠かないというのに。
これこそ下手に突けば下手なことにしかならないとわかりきっていることだ。
さすがの出宵も続けたかった詰問をココアとともにごくごくと飲み干した。
いろいろ飲み干すためのツールが残っているものは、幸いである。
先に、ついうっかり飲み干してしまった明夜星カイトには、逃げ場がなかった。逃げ場もなくKAITOころりでKAITOキラーな相手の、蕩ける笑みに晒されたのである。
しかもだ、かわいいだのたのしみにしているだの、『期待』せずにはおれないことばかり言ってくれる――
「あんたはさあっ」
「ったっ」
多少、いらついたように声を上げたのは、明夜星がくぽだ(ちなみに、もはや天災同義であるスキル持ちの名無星カイトの、そのおとうと、名無星がくぽといえばすっかり涙も枯れ果てて、もうなにを言える状態でもなかった)。
くり返すが、明夜星がくぽは名無星カイトのチートスキルに詳しくない。それ以前で、まず存在から知らない。
ために、追いこまれ度も追いこまれ方向も名無星がくぽとは違い、いわば、まだまだ『元気』だった。
というわけで明夜星がくぽといえば、声同様、荒っぽいしぐさで名無星カイトの顎を掬い、揺らぐ瞳とかっちり目を合わせた。
「さっきから、ずっとそう!そうほいほいと気軽に、ひとの兄さんを口説かないでくれるっ?!いや、兄さんはほんとかわいいから、口説きたくなるのはもう自然の摂理で、仕様がないんだけど!でもさ、そもそも恋…」
――勢いの良かった明夜星がくぽの抗議が中途半端に途切れて消え、名無星がくぽは片手で両目を覆うと天を仰いだ。
先に補記しておくが、お気遣いしたわけではない。ただいろいろ、もはや極めたと思った絶望的な気分が底抜けに深まったため、なんとかして鎮めようとしただけのことである。
強引に振り仰がされ、抗議された名無星カイトは、いったいどうしたというのか?
――この無理な姿勢をこそ幸いとばかり、明夜星がくぽのくちびるを自らのくちびるで塞いだ。
それで物理的に、一瞬で、抗議を止めたわけである。賢いかどうかの判断は、先送りとする。