恋より遠く、愛に近い-第２０話-
五分後、リビングである。
夜には出宵のベッドとなるソファに名無星がくぽと明夜星カイトが並んで座り、そのソファ（ベッド）の主たる出宵はといえば、手前に置いたリビングテーブルに上半身を預けるような姿勢で、床に直に座っていた。
両手にはココアの入ったマグカップが抱えられており、すでに結構めに冷めているはずだが、それでも油断することなく、慎重に温度を確かめている。
この慎重さを猫舌対応以外のところでも発揮してくれれば、どれだけ面倒が減ることか――
と、期せずして名無星家のきょうだいがそろって考えたりしたりしていたわけだが、口に出すことはなかったため誰にも知られることはなかった。それこそ、そんなことを考えられてしまうマスター当人のみならず、期せずして思考が同期した不仲のきょうだいにもである。
で、さて、この家には今現在、KAITOと【がくぽ】とがもうひとりずついるのであった。ほんとうにややこしいうえに煩雑さしかない話であるが、名無星カイトと明夜星がくぽである。
ソファに並んで座る名無星がくぽと明夜星カイト、恋人たちに対し、彼らふたりはどこにどうという話をしたいわけだが、まず結論から言えば、彼らもまた、座っていた。この部屋にもうひとつある、リビングチェアにである。
ただしこのリビングチェアというのは本来、一人掛けであった。
だいたい、リビングとダイニングとの境目あたり（しかしひと続き間であって壁や間仕切りといったわかりやすい境界線はないので、あくまでも感覚の話である）となる、窓辺に置かれている。
今は内向き、リビングの、ほかの面々が座るほうへ向けられているが、これは普段、どちらかといえば外を見る向きに置かれており、そして『カイトの席だ』という暗黙の了解があった。
別に記名されているわけでなし、誰が座ってもいいはずだと名無星カイト自身は思っているのだが、この席はカイトの席、兄の席であると、マスターとおとうとには暗黙かつ強固に思いこまれていた。
そして実際、この席に好んで座るのはカイトであり、カイト以外の家族はほとんど座らない――
で、先にさらりと流したことが、実は流すわけにはいかない話であるので蒸し返すが、これは本来、一人掛けなのである。
一人掛け設定だが実は横になれるサイズだとかで、やろうと思えばふたりか三人くらいまで並んで座れる――といった種類の座面ではない。
リビングチェアとして、ダイニングチェアなどよりは座り心地もいいし、確かに座面も広いが、幼児ならともかく成人した身であればやはり、一人掛けである。
座面はあくまでも、ひとり分なのである。
が、そこに名無星カイトと明夜星がくぽ、成人型がふたりで座っているのであった。
先のカウンタチェアと、同じ様式だ（第７話の様式である）。
明夜星がくぽが先に腰を落とし、その膝に名無星カイトを引きこんだ。名無星カイトは明夜星がくぽの膝の上であり、明夜星がくぽは自分のココアのカップと名無星カイトとを、よくよく器用に抱えて座っていると。
先には出宵用の盾としてそうされたわけだが、今度はきっと兄、明夜星カイト用の盾としてそうされたのだろうと、名無星カイトは読んでいた。
諸事情あってうっかり生じさせた隙間を、ようやく思いきって埋めようとした明夜星家のきょうだいだ。
しかしまったくもって悪魔的なタイミングの良さで悟り的なものを開いたか、あるいは影の政府からの電波を受信した出宵により、その決意は儚く砕かれた。
こういったことは、勢いが大事だ。特に【がくぽ】のような、繊細であり、過ぎて慎重で、石橋をボーリングマシンで叩きながら進むような手合いにとっては（ところでだいたいの石橋はボーリングマシンで『叩け』ば崩れ、進めない。もちろんこれはそういう比喩である）。
あまえんぼうのわがまま王子であっても、明夜星がくぽも【がくぽ】である。一度熱が冷めると盛り返すのは難しく、以上に、気まずくいたたまれない思いが強い。
そういうわけで盾再び、名無星カイトである――
「マスター、この椅子、成人オトコふたり分の体重って」
「カイトが暴れなければいけます。たぶんね。その子は覚えてるだろうけど、前のおうちから使ってる子で、そこまでオトコノコ仕様意識して購入してたわけじゃないから自信はぐらぐらだけど、とりあえずカイトが暴れなければだいじょうぶなはずっていうかやっぱり気にするのそこなんだ？そこだけなんだ？！」
そこ以外に気にするべき問題は、名無星カイトには思いつかない。いや、違う。今回はあった。
名無星カイトを抱えこんだ明夜星がくぽが逃げた相手、このあまえんぼうのわがまま王子の兄だ。明夜星カイトである。
こちらもこちらで、一時の激情はなんとなく落ち着いたようであった。
然もあらん――あの出宵のテンションに晒されて、それでも激情に駆られたままであるならむしろ、どこか不具合だ。よほど問題は深刻だ。
いってもこのきょうだいの断裂は未だひと月ほどのことであり、それも名無星家のきょうだいほど、目に見えてはっきりとしたものでもない。もともとの仲も良好で、だというのになんとなくふんわりと、微妙な違和感が付きまとうという程度の。
なにあれ少なくとも今の段階では、出宵のテンションと張り合うほどの深刻さはない。
だとしてもだ、いかなる問題であれ、小さいうちに対処しておくにこしたことはないというのは確かである。ほんとうはあそこで互いに互いの思いをぶちまけ、解決に至らないまでも、せめて次へと繋ぐ架け橋とできれば良かった。
が、こうなった以上は仕様がないというものだ。
これで出宵に当たったところで解決するわけでもなし、時は至っていなかったのだと、潔く諦めて次の機会を模索するほうが建設的というものである。
いや、基本、KAITOはこういったことを早急に片づけたい傾向にあるから（なぜなら片づかない問題は片づくまで記憶容量を食う）、騒ぎが落ち着いたところで、明夜星カイトは話の続きをやりたかった。
しかしながら、おとうとのほうがご覧の通りである。結構めになりふり構わず、防御姿勢に入ってしまった。
いくらどうでも、きょうだいとしての付き合いは深い。こうなったおとうとに下手に無理強いしても、事態が悪化することはあれ、軟化することは決してないと明夜星カイトも理解していた。
理解しているが、こうして恋人の兄たる相手、――いくら憧れの『カイトさん』とはいえ、兄である自分ではなく、他所様のKAITOを抱えこんでいるおとうとを見ると、どうしても胸がもやつく。
胸はもやつくが、もちろん、名無星カイトが悪いわけではない（少なくとも現時点で、彼が悪意をもってなにかをしたと明夜星カイトは認識していない）。
そして当然だが、おとうとも悪くない。
悪いとしたら、察してやることのできない、至らない兄たる自分――
思って、明夜星カイトの思考に蘇るのがつい先ほどの、名無星カイトの笑みである。
――なんでおまえ、卑下する？俺はおまえのおとうとから、『大好きな兄さん』の自慢しか聞いたことないぞ？
きれいだった。
同じKAITOで、こんな表情ができるのかと、こんな繊細な感情が表情に乗るのかと、ただもう至高としか言いようのない――
「……っ」
傍らに座った恋人が、案じている。頼りにもなるが、なにより繊細で、優しいひとだ。カイトはがくぽを困らせたくない。
【がくぽ】を困らせる自分に、なりたくない。
卑下するくらいなら、目指して、進まなければ――
卑下するよりも、目指して進む自分になりたい。なるのだ。たとえどこにどうという、目的地がまったく不明でも！
決意とともに、明夜星カイトはココアのカップを抱える手に力をこめた。
こくりとひと口、決意をも腹の底に沁ませるべく、ココアを含む。
「――っ！！」
「カイト？」
「ん？兄さ…？」
――誰も知ることはないまま潰えた、明夜星カイトの健気な計画を一応、説明しておく。
それはだいたい、こういったものだった。
ココアをひと口、飲むとともに胸にわだかまるものをも飲み下し、密かな決意を腹に沁ませる。
そうやって気を切り替えたなら、案じる恋人と警戒心の塊になってしまったおとうとへ、なにもなかったかのように笑いかけ、安心してもらうのだ。
ポイントは、『ひと口』というところである。
あまりなん口も含んで時間をかけるようでは、心配してくれている相手に申し訳ない。あるいは一気に飲み干してしまえば、傍目には逆に、自棄を起こしたと映ることだろう（そして今回、明夜星カイトはそれを否定できる根拠がうすい）。
それではいくらにっこり笑っても、自棄の笑顔と受け取られて終わる。むしろ意図に対して逆効果だ。
挙句、時間と労力とをかけてつくってくれた名無星カイトに対しても礼を失すること、甚だしい。
いいことなどなにもないのである。
しかしだ――
くり返すが、この計画はあえなく潰えたのである。
そう、ポイントである『ひと口』、この段階でもう完全に、完璧に、完膚なきまでに、ぺったんこに潰された。
あれほど禁じてこころに銘じたというのに、明夜星カイトはココアを一気飲みしてしまったのである。こくりではなくこくこくと、こくこくこくこくこくこく……――
なぜか？
「ふひぁあああ………っ、ここあぁあ………っっvvv」
「まぶしいっ？！」
「ぅわほんとだ、カイトくんがまぶしい…っ！」
――止めることなどとてもできず、最後のさいごのひとしずくまできれいに飲み干し、ようやくカップから口を離した明夜星カイトは、遠目に見てすらきらきらだった。
遠目でもきらきらであるので、そばに座る恋人と出宵であれば、なおのことだ。
本来的にこの『きらきら』は錯覚なのだが、ふたりとも洒落でもなんでもなく物理的に目を細め、あるいは正視できず、思わず目を覆った。
椅子の配置が配置で、若干、遠目となった明夜星がくぽでもわずかに目を細め、それから彼は、膝に抱えこんだ相手を胡乱に見た。
ずりずりと、自分のココアを非常にマイペースに啜っている名無星カイトである。
だからといって名無星カイトが明夜星カイトの反応を見ていなかったわけではない。見ていたが、彼にとってこの結果は当然であり、いわば成すべくして成し、起こるべくして起こったことでしかなかった。
そう、名無星カイトこそ明夜星カイトがこうなるよう味を調えたのだから、ならなかったときのほうがきっと反応した。
ただし書きをしておくなら、名無星カイトの成しようは悪意に基づかない。純然と、いわば、職人のプライドというか、そういったものに因る。
つまり、先の味見だ（第16話である）。
【がくぽ】にとっては十分、十二分に天使→違う、満足と見えた明夜星カイトの反応だが、名無星カイトにとっては不足の表明としか映らなかった。
まず、口に入れてからだ。タイムラグがあった。『これはココアである』と認識するまでに、一瞬の間を要した。
飲みこんでからもだ。正気だった。そう、――正気だ。ごく普通に、話が続けられた。
しかして今の明夜星カイトを見よ。
陶然の度合いが違う。まともな言葉を発することすらできないではないか。
しかも、ただ陶然とするだけでなくきらぴかきらぴかしており、頭の周囲には花びらとヒヨコとお星さま的なものが仲良く手を取り合い、輪になって踊る様子までもが見える。平和だ。これぞまさに平和の体現で具現というものだ。でなければばかの極みだ。
しかし大丈夫、明夜星カイトの付属としてなにが見えていようとも、すべて錯覚なのだから。
すべて錯覚であり幻覚であって思いこみでしかないのだが、そうとまでの反応を明夜星カイトは起こしている。
そう、名無星カイトにとって『大好きなもの』を口にしたKAITOの満足の反応とは、こうあるべきであった。
固い信念と深い理解とがあり、基づいて名無星カイトが味を調えた結果である。御覧じろ。
「ひゃぅううううんん……っ」
口に残る味で、未だ明夜星カイトは夢見心地だった。いわば昇天召されて天国だ。先までの憂いなど、きれいさっぱり消し飛んだ。なぜなら天国とはそういうところであり、そういうことだからだ。
わだかまりをココアごと無理やり腹に流しこみ、飲んで、消化したのではない。
恋人とおとうとと、安心させるために笑みかけてやることまでも含め、完全にすべての目論見が雲散霧消した。昇華ですらない。まったくもとからなかったが如しの消え具合なのだから。
とはいえ、これはこれで良かった。
そもそもあまり隠しごとに向かないKAITOが、わだかまりを無理に飲みこんだうえでいかにもな笑みを浮かべたとして、繊細で、機微に敏い【がくぽ】は必ずそうと読み取るからである。
読み取れば、憐れに思うことはあれ、それで慰められることはない。いや、気遣わせた己の不甲斐なさを責めるという逆効果に働き、さらに痛々しいまでの気遣い合戦が幕を開けたことだろう。
しかして明夜星カイトは飲みこむ必要もなくわだかまりが雲散霧消して微塵も残らなかったし、わだかまりだけでないあれもこれもついでな感じでいろいろがっ飛んだがとにかく、浮かべた笑みにはなんの偽りもなかったのである。
ただひたすらに快楽があり、享楽があり、悦楽だけがあった。
ここまでとなると、実は明夜星カイトが健気にも過ぎる計画を立てていたという前提すら、もはや如何なる情報処理能力を駆使したところで読み取れるものではない。
ひたすら天使であり、天国だ。理想郷はここにあった。いや、なかった。
隣に座る恋人、名無星がくぽである。彼は地獄に片足を突っこんだような表情を晒していた。
またしても兄の姦計を疑ったわけではない。ただ、隣に座る恋人が非常に愛らしく、とてもこう、突き抜けて愛らしく、まあ、そう――
ひたすら愛らしいがゆえである。
恋人がとても愛らしいところに持ってきて、名無星がくぽは青年体、男声型であった。そしてなんの機能不全も抱えていなかった。むしろ機能的にはとても健康で、元気であるのが名無星がくぽであった。
あなたはなんの機能かと訊くだろうか。訊くのだろうか――どこのなんの機能の話であり、それが健康で元気であると名無星がくぽはどうなるのかと。
これが明夜星カイトとふたりきりであれば、この愛らしさを恋人らしく堪能することもできたから、名無星がくぽもまた、天国であっただろう。ここがまさに理想郷で間違いない。
しかして今、この場といえば、ふたりきりとは程遠かった。しかも単に人数が多いだけでなく、メンツが最悪であった。
自分のマスターに、兄に、恋人のおとうとだ。さらに言うなら、恋人のおとうとは密かに兄へと想いを寄せていて、自分の兄も兄で――
――誰だこんな七面倒な面子を一同に会そうなぞと企んだやつばらは！
ごく普通に集ったところで面倒しかないところに持ってきての、これである。なにかと訊くだろうか。これとはなにかと、あなたは訊くだろうか。
迂闊に罵倒すれば、言い訳の面倒な体の反応が周囲の注目の的となる。そういうところ、目敏い連中ばかりである。さらに厄介しかない。恋人は除く。
おかげでわずかな声すら出せず、名無星がくぽはただひたすら、こころの内で悶えもがいていた。
そんな様子をやはり遠目に見て、いろいろ察することができてしまう明夜星がくぽは（彼も【がくぽ】である）、少し疲れたように膝の上へ視線を戻した。
膝の上、横座りに抱えた名無星カイトだ。
無心にココアを啜る姿は、たとえるなら水槽に泳ぐクラゲを眺めているに近い心境へ誘う。癒されるといおうか、落ち着くといおうか――
これから目を離した瞬間、危うい均衡で保たれていたものすべてが崩れる予感に目を離せなくなると言おうか。
「あのさ」
「ん？」
明夜星がくぽが口を開くと、名無星カイトはすぐ、顔を向けてくれた。妙に邪気のない、無防備な表情を。
なにかの居心地の悪さに逃げ出したいが、ずっと見入ってもいたいという複雑なこころもちに駆られつつ、明夜星がくぽはソファへ、夢見心地の兄へと軽く、顎をしゃくった。
「あんたあれ、最後に入れたの、ハチミツだよね？ハチミツと、生クリーム。普通の、市販されてる……。なにか、――非合法なものとか、混ぜてないよね？」
「……」
念を押され、明夜星カイトへ改めて視線をやり、しばらく観察してから、名無星カイトは明夜星がくぽへと目を戻した。
端然と、頷く。
「もちろん全部、そこらのスーパーなんかで売ってる市販品で、合法だ。………少なくとも現行法上は、な？」