「マスター」
カウント1。
「マスター。ご主人様。あるじ。ぬし様」
カウント2、3、4、5。
応答なし。
蛇行×錯綜=キューティ-01-
がくぽは肩を竦め、怪しい顔でパソコンに向かっている『マスター』の肩を掴んだ。
「へきるへきるへきる杉崎へきる!!いい加減にせいよ、ぬしっ!!我を無視するとは、良い度胸ぢゃな!!」
「のわっ?!!」
肩を掴んで強引に振り返らされただけでなく、耳元で絶叫までされて、マスターこと杉崎へきるは悲鳴を上げた。
だがその悲鳴は、単純に驚いただけのものに止まらない。
その顔は悲痛に歪んで、瞳がぐるりと回った。
「ちょちょちょ、がっくがっ、がっくん?!俺のことは名前で呼ばないでって言ってんでしょ?!『マスターマスターねえマスター』、はい復唱!!」
金切り声を上げて、へきるはがくぽの肩を掴んで揺さぶる。
「もうほんと、俺がこの名前でどれだけいやな目に遭ってきたか、一から語らないとだめ?!いやむしろ語らせて、何度でも!!」
「落ち着け」
「親が重度のオタクでさあ!俺が生まれたとき、椎名へきるの大ファンだったんだよ!椎名へきる、俺も嫌いじゃないよ?!嫌いじゃないけど、その奇抜な名前をマジ貰っちゃった子供の末路ってもんを考えろよ!超悲惨よ?!」
「落ち着けと言うておろうが、この駄マスターがっ!!」
喚き散らすへきるの頭に容赦なく平手をお見舞いし、がくぽはふんぞり返った。
「マスターの家系が救いようのないドオタクだという話なら、もはや耳タコぢゃ!ついでにマスターがドオタクのエリートとして育てられたサラブレッドの変態ぢゃということもようわかっておるわ!今さら逐一説明するな!」
「容赦ねえな、がっくん!仮にもマスターに向かって」
痛みで我に返ったへきるが、別の意味で悲鳴を上げる。
それから、す、と視線を横に流した。
「まあ否定しねえけど」
しないのか。
パソコン画面を凝視していて凝った肩を軽く揉み、へきるはため息をついた。
「それに俺は最近、気がついたことがあるんだ。俺はまだ幸せだったんだと」
「なんぢゃ?」
椅子に座り直したへきるは、深刻ぶって机の上で手を組み、その手に口を当てた。そのまま、鋭い瞳でパソコンの画面を見つめる。
がくぽには見覚えのあるポーズだ。
この間の休みに、へきるといっしょに一気観したエ○ァンゲリヲンの司令が、あんなポーズを取っていた。
救いようのないドオタクのへきるは、その深刻ぶった表情のまま、言った。
「もう少し、俺が生まれるのが遅かったら、――俺の名前は、『ゆきる』になっていたかもしれないんだ!」
「…………………」
がくぽは少しだけ考えた。
しかし。
「違いがわからぬ」
現在の名前、『へきる』と、たかが一字違いだ。それのなにがどうだと。
至極まっとうなツッコミを入れたがくぽを、へきるは信じられないというように瞳を見張って見上げた。
「なに言ってんの、がっくん?!俺の名字知ってるよね?!杉崎だよ?!杉崎プラスゆきるったら、もう、救いようがねえだろ!オタク街道直進じゃなくて驀進だってバレバレだよ!!」
悲痛な声で訴えられて、がくぽは秀麗な眉をひそめた。
訳が分からないが、わからないということはつまり。
「マスター、話題がオタク過ぎる。その時点でオタクぢゃということを隠し果せぬのぢゃから、名前ごとき、無用な心配ということぢゃ」
杉崎プラスゆきるがどういう効果を生む技なのかわからないが、へきるは基本的に、まともに会話が出来ない。
つまり、標準的な日常会話や、まっとうなファッションの話が――
そこまで思いを馳せてから、がくぽは自分がへきるの部屋へ押しかけた用事を思い出した。どうしてわざわざ面倒を押してまで、へきるをパソコンからもぎ離したのか。
基本、パソコンに向かってにやにやしている『マスター』の傍は近寄り厳禁だ。
へきるが禁じているわけではなく、がくぽが自主的に避けているのだ。
上の空で話にならないし、なにより、気持ち悪い。
「なに言ってんのかな、がっくん………杉崎ゆきるはメジャーどころだってのに」
「メジャーもマイナーもジャマーもどうでも良い」
ぼやくへきるの言葉をばっさりと切って捨て、がくぽはきりっと表情を引き締めた。
「それよりも聞け、我の話を!マスター、ぬしな、なんぢゃ、この新しい衣装は?!」
「お?」
再び肩を掴んで揺さぶられて、へきるは今初めて気がついた顔で、がくぽの全身をしげしげと眺めた。
オタクは視野が狭いのだ。視力に関係なく。
その顔が、喜色に輝いた。
「パねえ!!」
歓喜の悲鳴が上がる。
「がっくんがっくん、さすがだよがっくん!さすがは俺のがっくんだ!!着こなしパーフェクトだよ、そのドレス!!」
――そう、現在がくぽは、王宮の舞踏会にでも出かけようかという、ヴィクトリアンなドレス姿だった。
白と濃い紫を基調として、フリルとレースがふんだんに使われ、スカートの腰は大きく膨らんでいる。完全に男のがくぽが着ても違和感なく見えるよう、ウエストも肩周りもデザインが計算された代物だ。
合わせて宝石のように輝く長い髪には、ゆるやかなウェーブが入れられて高く結い上げられ、ボリュームを増して艶やかに流れている。
化粧もきちんと施し、くちびるは誘うようなピンク色で、グロスを塗って艶やかに輝く。紫に透ける睫毛も黒のマスカラで覆い、目元をきっちりと際立たせた。
どこからどう見ても、ヴィクトリアンレディ。
のりのり。
きらきらと顔を輝かせて手放しで称賛するへきるに、がくぽはそっくり返った。
「そうぢゃろう、そうぢゃろう!心ゆくまで感嘆し、感動し、感涙に咽ぶが良い。そうやって我を存分に褒めて称えたなら」
得意満面で鼻を高くしていたがくぽは、くるりと形相を一転させると、へきるの胸倉を掴んで持ち上げた。
「我の話を聞くが良い、この駄マスターがっ!!なんぢゃこの衣装はっ?!我は男ぢゃと再三再四言うておろうがっ!!母御殿に、新しい衣装が出来たから着ろと言われて着てみれば、またか!!また女物か、この変態がっ!!」
「かーちゃ………ぐっじょb………」
締め上げられて苦しい息の下、それでもへきるは、ド級のコスプレイヤーである(*現在進行形)母親を称えた。
いつもながら、こちらがイメージした以上の衣装を作ってくれる。オタ親万歳。
「ぐっじょぶぢゃないわ!衣装を作ったということは、どうせ新曲が出来たということぢゃろうが…」
「がっくんナイス推理そしていい加減手をはなして……っ」
チアノーゼを起こしかけているへきるに気がつき、がくぽはまったく気遣うことなく、唐突に手を離した。
ちょうどよく椅子の上に落ちたへきるが咳きこむ。
「まったくもって……」
憤然として、がくぽはパソコン画面へと視線を投げる。
画面は、へきるが暇があればあるだけ行きっぱなしの『にやにやしようぜ』のキャッチフレーズでお馴染みの動画サイトだ。
へきるはここのヘビーリスナーであると同時に、自分でも曲を作ってはがくぽにうたわせて動画を投稿している、Pのひとりなのだ。
その際、動画の中のがくぽが『まとも』な恰好をしていたことはない。常に女装。なにがなんでも女装。
だが声は男。
どうせなら調声も変えて女声にして、「がくこですww」とでもやればいいものを、調声はむしろ低音。でも女装。どうしても女装。
そして動画はアレだが、曲は常にガチ。
もうこのマスター、どうしたらいいのかわからない。
そんなでもこんなでもメロディと詞に一定の評価を得たへきるは、『まだ』大学生ながら、プロとして活躍するボーカロイドたちへの楽曲提供も行っていて、微々たるながらも収入を得ている身だ。
「どうしようもない末期のオタクぢゃが、作るものは評価しておるのぢゃぞ?ほれ、この間の……コンスタンス何某とかいう、あの、女のプロデューサにやった曲なぞ…」
「………がっくん、その名前で呼ぶと、もれなくこんさんにしばかれるよ」
がくぽの言葉に、へきるは軽く顔をしかめた。がくぽはきょとんと、瞳を瞬かせる。
「なぜぢゃ」
「いやそれ、本人全力拒否のあだ名だから」
答えつつ、へきるは記憶をさらった。
ついこの間、割と仲の良い女性プロデューサに依頼されて、叶わない恋に悶える歌詞とメロディの、切ない恋うたを渡した。
がくぽはへきるが試しに打ちこんだコードを試聴させてもらっただけだが、それでも狂おしいほどに切なく、重苦しい恋のうただった。
「我もうとうてみたかったの。切なくて、良い曲ぢゃった」
叶わない恋をうたった切ない詞とメロディが、目の前の変態ドオタクのどこから出てきたのかを考えると不気味以外のなにものでもないのだが、いい曲であったことに違いはない。
だがへきるは顔をしかめて、首を横に振った。
「あれはがっくんにはうたえないよ」
「なんぢゃと?」
瞳を険しくしたがくぽに、へきるは窓の外を見る。そこから、曲を渡した相手を見遥かすように。
「あれはこんさんのうただからさ。あのひとの恋愛をモチーフにして作ったうただから、あのひとのことをよく知ってる、あのひとのロイドじゃないと、うたえない」
「………」
そこまで深く思い入れて作っていたのか。
がくぽはわずかに感心して、己のマスターを見る目を変えてみた。
とはいえ、疑問は残る。
「人の機微に疎いオタクのぬしが、ようもあのような狂おしい恋のうたを作れるものよな?恋愛経験ゼロの分際で」
「がっくん、それはね…」
マスターに対するにしては傍若無人な言い分に、へきるは怪しく瞳を輝かせた。
「妄想だよ!!オタクの妄想力ナメんな?!ちょっと妄想すりゃ、厨二な恋うたなんざ、軽いかるい!!」
怪音で、へきるが爆笑する。
がくぽは肩を落とした。
「ほんに、なにもかもが残念なマスターぢゃ……………」
「それは褒め言葉だよね、がっくん?!」
ひーひー笑いながら言い切り、へきるは一転してまじめな顔になった。
「まあ、それだけでなくさ。単純に、俺の力量不足っての?あのうたを、あのひとのロイド以上に、負けないくらいにうたえるように、がっくんのこと、調声してやれない。さっき、がっくんも言ってたけどさ……俺、あんな苦しい恋なんて、したことねえもん。作っといてアレだけど、どううたえばいいかなんて、わかんねえよ」
「マスター……」
悔しそうでもあり、羨ましそうでもあるへきるの肩に、がくぽはそっと手を置いた。
「三十歳まで童貞ぢゃと、魔法使いになれるらしいぞ?」
「ふぐぅっ!!」
大きなダメージを受けて、へきるは椅子の上で屈んだ。
「大丈夫だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶかーちゃんもとーちゃんも結婚出来たんだから俺にも出来る俺にもチャンスはある………」
「ゆえに、イベントには足しげく通えと言うておろう」
「休みの日にネットしないで、いつするんだよ?!いやだ、半日でもネットから離れたら死ぬ!!」
「いっそバーチャガールと結婚せい、このドオタクのヒッキーが」
至極まっとうに罵ったがくぽに、へきるははたと思い出した顔になり、散らかった机の上を漁った。
そこから細長い紙切れを二本取り出すと、片方の先端を隠すように持って、がくぽへと差し出す。
「どっちか引いて、がっくん」
「うむ?」
首を傾げながらも、がくぽは素直に一本を引く。
へきるが隠していた紙の先端には、彼の象形文字で『カイト』と書いてあった。