「マスター」
がくぽはにっこりと笑う。
「それは我に、なにもするなということか?それとも我を、エスパーかなにかとカン違いしておるのか、どっちぢゃ?」
「どっちって………」
へきるはきょとんと、瞳を見張った。
どうやら腹が括りきれていないがゆえの、混線発言だったらしい。
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ややして自分の発言の意味を悟り、へきるは気まずそうに視線を泳がせた。
「いやまあ、……………だってさー…………」
「マスター」
口ごもるへきるへ、がくぽは左手を胸に当て、右手を軽く掲げて、宣誓の形をとった。
「我とて、かわゆいカイトを見たいのぢゃ。もちろん、なにもせぬでもカイトは十分にかわゆいが………。ゆえに、きちんとやる。うたうたう、この声に賭けて誓おう」
「がっくん………」
ボーカロイドにとっては最上の価値に賭けて誓ったがくぽに、へきるは感極まった顔になった。
「わかった、がっくん」
力強く頷くと、成り行きを見守るカイトを、きりりと引き締まった表情で見た。
「カイト、いざってときの対処法の一から三まで、ちゃんと覚えてるか?」
「え?ええっと、はい」
問われて、カイトは上目遣いで記憶を漁った。起動して最初に、覚えろと厳命されたことだ。
「一、大声で叫ぶ。
二、股間・目つぶしなど、急所を攻撃する。
三、安全なところまで逃げる。
……………ですよね?」
――最初の厳命がこれだ。いや過ぎる。
戸惑いながらもきちんと答えたカイトの肩を掴み、へきるは真剣に告げた。
「実行を躊躇うなよ?」
「ええと…………………………………………はぃ」
がくぽは生温く笑った。
「なにが『わかった』んぢゃ、マスター?」
そのつぶやきはスルーして、へきるはスタジオの隅の椅子を指差した。
「んじゃ、ちゃちゃっとやっちゃってよ、がっくん。時間ないから急いでね。誓い破ったら、『がくこ』にするからな」
「容赦ないの!!」
震え上がるがくぽに、へきるもこれ以上なく嫌そうに、顔をしかめた。
「俺だっていやなんだから、やらせないでよ」
「厭ならやらねばよいのぢゃ」
ぶつぶつこぼしながら、がくぽは荷物の中から化粧道具を取りに行く。
へきるは不安げな表情のカイトの肩を叩き、笑った。
「大丈夫だよ、カイト…………がっくんだってあれでいて、ちゃんと痛覚あるから。股間蹴るなり握り潰すなりすれば――ぅぐぅ」
自分で言って自分で竦み上がる。へきるも男の一員だ。
気を取り直し、へきるはカイトへ頷いてみせた。
「なんとかなるって。俺だっておんなじスタジオ内にいるんだしさ」
「………………………………はぃ」
カイトは大人しく頷き、未練がましく短いスカートを引っ張った。
マスターの思考回路に、『普通の服に着替える』という発想がないことだけは、よくわかった。
カイトはドナドナの仔牛よりも哀れっぽく、スタジオの隅の椅子へと歩いて行った。
そこで待つがくぽに、会釈する――体を折ると、もれなくスカートからお尻が見えてしまう。ゆえに腰を曲げられないのだ。
「よろしくお願いします………」
「うむ、任せよ。やさしうするからの」
やに下がって言われると回れ右して逃げたくなる台詞に、しかしカイトは懸命に耐えて椅子に座った。
じーっと、訴えかける眼差しで、がくぽを見上げる。
頭を飾る、ふんわりしたレースのボンネットを手にしたがくぽは、笑って首を傾けた。
「案ずるな。必ずかわゆうしてやるゆえ。我の腕は母御殿仕込みぢゃからの。間違いはないぞ」
そう言われて悦ぶ男は、特殊性癖の持ち主だけだ。
しかしカイトはこれにも、無垢な瞳で素直に頷いた。
がくぽは笑顔でボンネットを脇の小机に置くと、ティッシュ箱を鷲掴みにした。中から大量のティッシュを取り出すと鼻に当て、うずくまって首の後ろを叩く。
当てたティッシュはみるみるうちに赤く染まった。
「沸点低いな、がっくん!」
カメラの点検をしているへきるが、呆れて叫ぶ。
「大丈夫ぢゃ。止めるコツは掴んでおる」
くぐもった声で応えるがくぽに、へきるは心配そうな顔になった。
「がっくん、鼻血の残量、大丈夫だろうね?タンク空になってないよね?」
訊かれて、がくぽは顔をしかめた。
「思うのぢゃが、マスター」
目を閉じて上を向くと、首の後ろをとんとんと叩く。
「そもそも血のりを補充せねば、鼻血の出ようもない。衣装の汚れようもないのぢゃ。なにゆえ、補充する?」
ロイドの体は、有機素体と機械部品の融合体だ。有機素体部分はいわば『イキモノ』だが、人間と同じ血液が流れているわけではない。『血管』の配置も違う。
鼻血を噴出させる機能はあくまでもオプションで、出てくるものもつまり、血のりだ。
一定量を使い切れば、補充が必要となる。補充されなければ、宙に浮いた機能となるだけだ。
衣装を汚されると困るとかなんとか、言う前に補充を止めればいいのに。
もっともな問いに、へきるは暗い瞳であらぬ方を見つめた。
「いや、なんかさ…………………鼻血出さないと、がっくんがキレたのがわかんないじゃん…………。唐突に襲い掛かるようになると、そっちのほうが…………」
鼻血は現在、ストッパーとアラートの役目を兼ねているらしい。
「苦労しておるようぢゃの、マスター!」
他人事のように言って、鼻血を止めたがくぽは、爽やかな笑顔でカイトを振り返った。
「さて、かわゆうしてやるからの!」
「ぅうう……………っ」
もはや震える段階も超えて固まるカイトに、がくぽは手慣れた様子で髪を整え、ボンネットを付ける。
普通、自分のものをやりなれていても、いざ他人のをやろうとすると勝手が違って戸惑ったりするものだが、そういうこともない。
淀みのない手つきで、きれいに整えられていく。
しばらくは様子を窺っていたへきるもわずかに安堵して、カメラワークのシミュレーションに没頭しだした。
「カイトは、そうぢゃのう。地が愛らしいゆえ、それを活かすように作るかの」
楽しそうに言いながら色を選び、がくぽは優雅に化粧筆を操る。
「愛らしいなんて……………」
好き勝手されながら、カイトは涙声を上げる。
「そんなことないです………………。こんな、かわいい服着ても…………」
カイトの手は往生際悪く、短いスカートを伸ばし続ける。
「ぜったい、がくぽさんみたいにきれいにはなりません………ぐすっ」
「これこれ」
思いきり瞳を潤ませるカイトに、がくぽは呆れたように筆を止めた。
「なにもしておらぬうちから、泣くな」
「すびばぜ……………でも、ぐすっ」
「やれやれ」
肩を竦めると、がくぽは一度筆を置き、懸命に涙を引っ込めようとするカイトの体を抱き上げた。
「っ?!」
「よしよし、いいこぢゃの」
固まるカイトに『おにぃちゃん』の口ぶりで言いながら、椅子に座る。
抱き上げた体を膝の上に下ろすと、横抱きにして、きれいに整えてやった頭を宥めるように撫でた。
「マスターもマスターの母御殿も、ついでに言うと父君まで揃いも揃って、救いようもなく変態でオタクぢゃが」
「ぅくっ」
悲惨な現実に、カイトはしゃくり上げる。がくぽはやさしく笑って、そんなカイトを抱きしめた。
「心根は、素直でやさしいおひとらぢゃ。意味もなく我らを虐げるようなこともなく、むしろ、家族の一員として愛しんでくれる」
「………」
カイトはスカートを引っ張る。がくぽはその手を軽く叩いた。あやすようなしぐさだ。
「奇抜に思えても、母御殿の目も腕も確かぢゃ。これを『カイトに』と作ったなら、それはきっとぬしに似合う。似合わぬものを着せて笑いものにするような、下衆ではないのぢゃ」
「………んく」
カイトは涙を飲みこむと、改めて自分の服を見下ろした。
「――おかあさま、の、手作り……、なんですか………?」
ちなみに、カイトに『おかあさま』と呼ばれると、母親は人目も憚らずに萌え死ぬ。
どこまでも逃げ場がないカイトだが、それなりに『おかあさま』に対して憧れや思慕の情といったものを持っていた。
少し落ち着いたらしいカイトの様子に、がくぽは再び化粧筆を取った。膝に乗せて横抱きにしたまま、器用に化粧を施していく。
「そうぢゃ。母御殿が、カイトのためにと作ってくれたものぢゃ。そして我の化粧術も母御殿仕込み――不安など、なにもないぢゃろう?」
「…」
むしろ不安だらけだ。