パジャマは普通だ。少なくとも、カイトのものは。
がくぽは襦袢をそのまま、寝間着にしてしまっている。浴衣とはまた少し違ううえ、がくぽは着物系をわざと、だらしなく着崩す癖があった。そのため、まるで女郎のようになっている。
だがとりあえず、今のところ、カイトのパジャマはごく一般的な『パジャマ』だった。――きちんと、男物の。
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御多分に漏れずへきるの母親の手作りだが、すべてのロイド用の服に共通しているように、パジャマにもきちんと冷却シートを使用している。
特殊なシートのため、値段が張る。そのうえ、一般的な家庭用洗濯機での洗濯が出来ない。
専用のクリーニングに出すか、専用の洗濯機と洗剤を買う必要があるため、よほど汚れない限り、デフォルトの服を着の身着のままにしているロイドも多い。
しかし母親は、コスプレに命を賭けていた――コスプレの衣装の値が張るのも、洗濯に向かないのも、常識だ。
そんなことでは、彼女のコスプレ魂を阻害する要因にはならない。その程度の理由で同じ服を着たきりなどということは、ロイドであっても赦さないのだ。
彼女はがくぽに嵌まると同時に、洗濯機を買い替えた。今さらカイトが増えたところで、すでに投資済みなのだ。
そういうわけで、カイトも起動して一週間しか経っていないのだが、結構な衣装持ちだった。
別に一週間で作ったわけではない。
購入の決定から実際の購入までに時間があったため、母親はせっせと作り置いていたのだ。
汎用ロイドだから、サイズは規定値だ。購入してから改めて採寸する必要がないために、可能な仕事だった。
ちなみに今のところ、今日の撮影で使った衣装以外に、奇抜なものは渡されていない。
いわゆるカジュアルな服も渡されていないが、あそこまでぶっ飛んだ衣装でもない。
そういうものは、徐々に馴らしていくのだ。
パソコン画面に向かってにやにやしているへきるの後ろで、カイトは床に延べた布団に座って、膝を抱えていた。
マスターに構ってもらえず、暇を持て余しているわけではない。
杉崎家には、ゲームもマンガもDVDも、床が抜けるほどある。一家的にオタクだから、少なくとも三人分の趣味が詰め込まれているのだ。暇つぶしには事欠かない。
ゆえに、暇を持て余しているわけではなく、考え事中なのだ。
座るカイトの傍らには、護身術の入門書が詰まれていた。へきるの私物だ。読みこんだ跡があるのが、微妙に痛々しい。
「……んっ」
なにかを決心したように頷き、カイトは顔を上げた。
「あの、マスター」
思いつめた表情で声を上げたカイトに、へきるは応えない。
パソコンから流れている音は小さいが、熱中しているへきるの耳にはほかの音が入らないのだ。オタクの集中力は舐められない。
パソコン画面に向かってにやにやしているばかりのへきるに、カイトは悲しそうに首を傾げた。
指を折る。
カウント1。
「マスターマスターねえマスター」
カウント2、3、4。
か細い声で遠慮がちに呼んで、カイトは指を折っていった。
がくぽから教えられたルールだ。
一度呼びかけてマスターが応えなくとも、五回は『マスター』と呼びかけろ、と。そして五回呼んでもまだ応えないようなら、名前で――
「マスター」
カウント5。
カイトは膝立ちになってへきるの傍らに行くと、そっと肩を揺さぶった。
「へきるさん」
「ごはあっ!!」
「ひきゃっ?!」
白目を剥いて倒れかけるへきるに、カイトはぺたんと尻もちをついた。
へきるはその、ホラー映画に出そうな顔のまま、泡を吹いてカイトを振り返る。
「ちょ、カイトカイトカイト?!俺のことは『マスター』って呼ぼうねって約束したよね?!そんな『へきるさん』なんて、どこの新妻さんかと思うでしょ?!!」
興奮してそこまでまくし立ててから、口を噤む。自分の発言を振り返って、自分の顔を張り飛ばした。
「にぃづまってなんやねんっっ!!」
「ひぅうううっ、ますたぁああ…………っっ」
マスターの狂態に、カイトは涙目でじりじりと後退さる。
それに気がつき、へきるは慌てて顔を揉んだ。
きりりと引き締まった表情を作ると、おとこまえにカイトを見る。
「どうした、カイト」
声まで、当社比おとこまえだ。
「ひぐ……っ」
カイトは懸命に嗚咽を飲みこむ。
なんだかんだ言って、これが常態だ。がくぽがいると、こういうマスターをつついて遊んでもっと収拾がつかなくなるから、今はまだいいほうなのだ。
カイトは軽く瞼をこすり、涙の痕を拭った。
「あの、マスター」
「うん」
基本的に、マスターは善良でやさしい。
ただ、どうしようもない変態でオタクなだけぢゃ。
と、がくぽは言った。
カイトにもともとある知識から言うと、善良と変態は並び立たない。
しかしこの家に長いがくぽがそう言うのだから、マスターはきっと、善良でやさしい変態オタクなのだ。
少なくともカイトは、理不尽に虐げられてはいない。
か?
基幹部分が揺らいだまま、カイトは潤んだ瞳でへきるを見つめた。
「あの、俺……………がくぽさんと、いっしょの部屋に、してください」
「んなっ?!」
上目遣いでお願いするカイトに、へきるは目を剥いた。
「なななな、なに言ってんの、カイト?!」
「でも、初めはそういう予定だったんでしょう?俺とがくぽさんを、おんなじ部屋にって」
「そうだけど!!」
叫んで、へきるは椅子から下りると、カイトの前に正座した。真剣な顔で、びくびくうさぎちゃんなカイトを見つめる。
「カイト、やっぱマスターとおんなじ部屋じゃ、くつろげないか?でもな、がっくんとおんなじ部屋になんてなったら、間違いなく本気で食われるぞ?!……っくわr」
食われる、の意味を頭に閃かせ、へきるは一瞬、体を折った。なにが悲しくて、男が男に。
「いくら俺といっしょが窮屈でも……」
「マスターといっしょ、いやじゃありませんよ!」
ロイドの沽券に関わるため、カイトは珍しくも大声で主張した。
『マスター』といっしょにいることが苦痛だなどと思われるのは、心外だし屈辱だ。
びくびくしていたのをきりっと引き締め、身を乗り出して強調する。
「くつろげないなんてこともないです!そうじゃなくて、ただ、俺は……」
そこまで言ってカイトは、手をお祈りの形に組んだ。乙女ポーズだ。
「がくぽさんになら、食べられてもいいやって」
「カイトぉおおおおお?!!」
夢見る乙女ポーズでとんでもないことを言ったカイトに、へきるの意識が一瞬、飛びかける。間違いなく、魂は飛び出た。
確信するへきるに構わず、カイトはあらぬ方を見つめている。
「だってだってあの俺、がくぽさんのこと考えるとドキドキして胸が苦しくなって頭がわーってなって」
拙い言葉で、口早に言い募る。
「くらくらのふらふらになっちゃうんです。これってこれって、恋じゃないですか?!俺、がくぽさんに恋しちゃってるんです!!」
「カイトカイトカイト!!」
あらぬ方を見つめて、シャレにならない結論に着地したカイトの肩を掴み、へきるは懸命に揺さぶる。
「そういうことは顔を赤くして、うっとりしながら言おうな?!真っ青でイっちゃった目をして言ってる時点で、それは恋じゃないから!!ただ凄まじくトラウマっちゃって、異常起こしてるだけだから!!い……っ!」
叫んで、へきるは布団の上に頽れた。
異常起こしている――何気なく言ってしまったが、シャレにならない。
起動一週間ですでに、精神が崩壊しかけているとか。
そんな過酷な環境だとは思いたくない。オタクの全容どころか、欠片のさらに破片を覗かせた程度だ。現にがくぽはきちんと順応している。
しかし思うに、がくぽのときにはがくぽがいなかった。
あの個性は強烈だ。誰がそうしたと言って、それはもちろん、へきるの育成の賜物なわけだが。
「マスター?」
布団にうずくまって犯人探しに躍起になるへきるへ、カイトは遠慮がちに声を掛けた。応えはない。
カウント1。
「マスターマスターねえマスター?」
カウント2、3、4。
カイトは再び祈りの形に手を組んだ。うずくまったまま、何事かを高速でつぶやいているへきるを悲痛に見つめる。
「マスター」
ささやくように呼んだ。
カウント5。
カイトは手を伸ばし、へきるの肩をそっと揺さぶった。
「へきるさんへきるさんねえへきるさん」
「がはぁあっっ!!」
「ひきゃっ!!」
覚悟していても、驚くものは驚く。
両手を降参の形に掲げて仰け反ったカイトに、イっちゃった目のへきるが迫る。
「だから『マスター』って呼ぶお約束だよね、カイト?!!そんなおっとりやさしく『へきるさん』連呼されたら、どこの新妻さんのおねだりかって興奮しちゃうでしょ?!!」
鼻息も荒くまくし立て、勢いそのままに自分の頬へと張り手を飛ばす。
高らかな破裂音が鳴り響き、へきるは衝撃で布団に倒れ込んだ。
「だれがにぃづまやっ!!」
「ひぐぅう、ますたぁあああ…………っ」
だんだん自分へのツッコミが激しさを増すへきるだ。
カイトはべそを掻いて、白目を剥きかけているへきるを見つめた。
お笑いの修行中だと言い張るへきるだが、持っているのはボーカロイドだ。うたうたうもので、自身でも曲を作って公開しているのだから、そんなに体を張らなくても、と思う。
「う、ひくっ、ぐすっ」
「いやいやいや、カイト!よーしよしよしよし、怖くなーい、こわくなーい」
「ぅ、ひっく」
しゃくり上げるカイトに、へきるは我に返った。
慌てて起き上がると、完全に子供を騙す口調で、カイトの頭をいいこいいこと撫でる。
「ぐすっ」
「よしよし、いーこいーこ」
「ふにゅ……」
カイトの表情が、ほわわんと和む。撫でられるねこの顔に、へきるは胸を撫で下ろした。
こうやって泣かせては騙し、泣かせては騙しの日々が続いて、一週間だ。それはストレスも溜まるだろう。
だいたい、へきるの言動がおかしい。
いくらカイトがおっとりしていてやさしくても、声は完全に男だし、服装だとて、『まだ』男物だ。
なのに、化粧もしていない、飾りもしていないカイトが、頻繁にかわいく見える。
それというのもこれというのも――