「ががががががっくがっくがっくんがっくんっっ!!」
朝から常軌を逸した叫び声を上げて、へきるが家の中を走り回る。
「落ち着かぬマスターぢゃのう」
がくぽは呆れたように肩を竦めた。
落ち着いて冷静で思慮深いマスターなど、決して求めはしないが。
そんなマスターに、なんの面白みがあるだろう。
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「がっくんがっくんがっくん、カイトがいない……ひぎゃあっっ!!」
「んきゃ?!」
叫びながらダイニングに飛びこんできたへきるの悲鳴に、お馴染みとなりつつある、か細い悲鳴が重なる。
悲鳴を上げたへきるは蒼白になって後ろへと倒れかけ、『エクソシスト』ばりの不気味な動きで身を起こした。
人間として限界を超えそうな顔で、わなわなと震え、ダイニングチェアに『仲良く』座るがくぽとカイトを指差す。
「か、かかかかかかかっ」
「不気味な笑い声ぢゃのう、マスター。見よ、カイトが怯えておる」
「ふにゅ」
「がはあっっ!!」
限界を超えたらしい。
へきるはがっくりと、床に膝をついた。
がくぽの膝の上に、カイトがいる。それはこれまでにも、結構頻繁にあったことだ。
騙されやすく流されやすいカイトは、うまく丸めこまれては、がくぽに好き勝手されるからだ。
だがそういうとき、カイトは極度の緊張に身を強張らせて、びくびくぶるぶるのうさぎちゃんと化していたのだ。
今のように、甘えてがくぽに擦りついたりなどしない――どんなふうに丸めこまれたときも。
「ま、マスター!俺、怯えてませんよっ」
床に頽れたへきるに、カイトがカン違いした答えを寄越す。今さらカイトに怯えられたくらいで、めげるへきるではないというのに。
問題は――問題は。
「か、カイひょ。ちょっとそこに座りなひゃい」
噛んだ。しかもすでに座っている。
しかしへきるは大まじめだった。対してカイトも、そういうところに細かにツッコミを入れるタイプではなかった。
「は、はい」
いいこに返事をしたカイトは、あくまでもがくぽの膝の上で居住まいを正す。
そのカイトを、へきるはイっちゃった目で見つめた。
「カイト、昨日の夜、どこで寝ましたですか」
「どこの外人ぢゃ!」
がくぽが思わずツッコんだが、へきるはカイトを見つめたままだ。
問われたカイトのほうは、ほんわりと頬を染めて、がくぽを振り返った。がくぽも応えて、笑い返す。
「ぐほっ」
「ひぎっ?!!」
ダイニングの床にうずくまったへきるに、カイトは悲鳴を上げてがくぽにしがみつく。
カイトの背をよしよしと撫でてやって、がくぽはテーブルの上のカップを取った。
「徹夜明けの童貞には、刺激が強過ぎるかの」
徹夜明けの『マスター』ではないらしい。
へきるが反論に顔を上げ、マグカップを持つがくぽに瞳を見張る。
朝のがくぽは、緑茶派だ。
主に教えていないからだが、なにも台所仕事が出来ないがくぽでも、これだけは自分で淹れることが出来る。冷蔵庫にミネラルウォーターがあることが前提だが。
目を見張ったまま、へきるは蒼白でがくぽを指差す。
「が、ががががが」
「どこを工事中ぢゃ」
「がっくん、なに飲んでんのっ?!」
ツッコミはスルーして悲鳴を上げたへきるに、がくぽは舌を出し、マグカップをわずかに傾けて中身を見えるようにした。
「コーヒーぢゃ」
「ぎゃふんっ!!」
「口で言った?!」
へきるの叫びに、がくぽは目を剥く。
まさか『ぎゃふん』と、本気で口にする人間がいるとは思わなかった。しかもそれが、自分のマスターだとか。
「びっくり博覧会ぢゃの」
感心するがくぽに、人間であることが怪しくなってきたへきるが、ふらふらと踊る。
「な、なんで今日に限って、コーヒー………」
「知らぬ」
「ぬわにぃっ?!!」
即答に目を剥くへきるに、がくぽはコーヒーの入ったマグカップを揺らした。
「母御殿がな、今朝はどうしてもコレを飲めと言うてな。苦酸っぱくて好きになれぬのぢゃが、母御殿の言いつけゆえなあ………」
「かーちゃ………っ」
絶句したへきるは、棒のように固まった。
どうやらがくぽは知らないようだが、母親がわざわざ、緑茶党だとわかっているがくぽにコーヒーを飲ませるなら、理由はひとつだ。
これが伝説の、『モーニングコーヒー』。
母親の世代が、これを逃すはずがない。
つまり結論。
「お……………おおおおおおっっ」
「どうした、マスター。神秘なる力に目覚めでもしたか」
「え、すごいです、マスター!」
頭を抱えて唸るへきるに、がくぽは素知らぬ顔で茶化し、カイトは天然で感嘆する。
これまでになく、落ち着いてリラックスした状態だ。それはそれで、カイトのためには良かった。
と、言えなくもない。
言えなくもないがしかし。
「さ………っ先を越された…………!」
『弟』に先を越された『兄』の悲哀たっぷりに、へきるは項垂れる。その相手が男でもなんでも、『先を越された』ことに変わりはない。
『弟』側にはまったく想像不能なその悲哀に、へきるは床に懐いた。そもそもが徹夜明けだ。眠い。
がくぽは同情することもなく、コーヒーを啜った。
「………やはり、好きになれんのう」
豆はキリマンジャロだ。酸味が強い。そしてコーヒーなので、苦い。
まさに苦酸っぱいの競演。
「がくぽさんも、アイス入れてもらえば良かったのに。コーヒーフロート、甘苦でおいしいですよ」
ほわほわ笑うカイトのマグカップには、こんもりとアイスが盛られている。トールグラスにせずに、あくまでマグカップであるところは、母親のこだわりだろう。
スプーンで溶けかけのアイスとコーヒーを掬って口にし、カイトは再びがくぽを振り返る。きらきらしい笑顔で、首を傾げた
「ね?」
「そうぢゃのう」
笑って、がくぽはカイトに顔を寄せた。舌を伸ばし、くちびるを舐める。
「苦いか?甘いばかりぢゃがのう」
「ふゃや」
「うっうっうっ、ぐすぐすぐす」
赤くなって首を竦めたカイトの背後で、床に懐いたへきるが愚図り出した。
振り返ろうとしたカイトを押さえ、がくぽは甘いくちびるに舌を差しこむ。
「ん、んんっ、ふゃ」
従順にキスを受け入れて、カイトはがくぽに縋りつく。
「ふゃあ……」
「ぬしはまこと、どこもかしこも甘いのう」
「うっうえっ、ひぐひぐ」
愚図っていただけのへきるが、本格的に泣きだした。
ぼんやりと蕩けたカイトを抱いて、がくぽはそんなマスターを愉しげに見やる。
「泣かずとも。マスターとて、覚悟を決めれば良いだけぢゃろう」
がくぽの言葉に、へきるは跳ね起きた。びしっと背を伸ばして、正座する。
「いいかがっくん!俺が覚悟を決めた日には、失くすのは童貞じゃなくて処女だ!しょ……っ」
自分で自分の言葉にダメージを受け、へきるの体が傾ぐ。
構うことなく、がくぽは呵々と笑った。
「この際、それでも良かろう。思うより大したことでもないぞ。のう、カイト?」
「ほえ?」
水を向けられても、話が見えないカイトは瞳を瞬かせるだけだ。
がくぽはそのカイトの顎をくすぐり、意味深に笑った。
「『入れられて』気持ちよかったろう?」
「…」
カイトは瞳を瞬かせる。
ややして言葉の意味を飲みこんだ顔が、真っ赤に染まった。表情が、ふんにゃりと甘く蕩ける。
「はい………すっごく、気持ちよかったです………」
「さのばびぃいいいいっっちっっっ!!」
へきるは叫んで、再び床に懐いた。そうでなくてもカイトはやさしくてほだされ気味だったのに、属性が好物だとか。
「しっかりしろ俺………男は論外………男はノーサンキュー………」
「たとえオールクリアぢゃったとしても、カイトはもう、我のものぢゃがな」
「あああああっっ!!」
どちらに転んでも救いがない。
床に懐いたまま、へきるは頭を抱えた。
がくぽはそんなマスターを鼻で笑い飛ばし、コーヒーを啜る。眉間にしわが寄るのに飲むのをやめないのは、母親が怖いからだ。
シンクに捨てて後始末をきれいにしても、『飲んだ?』と訊かれて飲んでいないと、がくぽはあからさまに態度がおかしくなる。
おかしなところで、嘘がつけない性格なのだ。
「あ、あ、がくぽさんっ」
そんながくぽを見たカイトが、自分のマグカップからひと匙、アイスを掬う。にっこりと笑って、がくぽの口へ運んだ。
「あーん」
「…」
素直に口を開け、がくぽはぱっくりとアイスを食べた。同時に、手が素早くテーブルを彷徨う。
「ひきゃっ?!!」
「ってがっくん?!そこまでの関係になっておいて、まだ鼻血?!」
カイトの悲鳴に顔を上げたへきるは、口元に当てたティッシュをみるみるうちに赤く染めるがくぽに、呆れた声を上げる。
「ひょれと萌えは別次元ぢゃ!」
くぐもった声で堂々宣言し、がくぽはだらしなく目尻を下げた。
「ほんに愛いのう~」
「ひ、ひぅひぅ」
膝の上のカイトは強張って、泣きべそを掻いている。
確かに関係は進展したはずなのだが、基本は変わらないらしい。
「あー…………………なんだかなあ……………」
へきるは床に懐き、目を閉じた。
気が抜けた。
そして徹夜明けだ。にやにやしている最中は二日くらい徹夜しようともまったく眠くないのだが、リアルに戻ってくるとだめだ。
床に寝ると体が冷えるとか痛いとかいう理屈すべてを忘れ去り、へきるは眠りの国へと旅立った。
ちなみに今日の講義は、一限からだ。
がくぽに踏み起こされ、家から蹴り出されるまで、あと一時間。