4月1日である。杉崎家である。
「っっがくぽさぁあんっっ!!」
愚者の誠実-前編-
家の中に轟くのは、常にない気迫を漲らせたカイトの叫び声だ。
もちろん気迫に満ち満ちているのは、声だけではない。いつもはおっとりほやんと緩んでいる表情も、厳しく引き締まっている。興奮に頬は紅潮し、湖面のように青く揺らぐ瞳には涙――
追い詰められている。
いつも通りであった。
で、いつにない気迫ながらいつも通り、追い詰められているカイトである。
ところは、杉崎家のリビングだ。つくりは平均的日本家屋なのだが、ひと目収納ブツを見れば、この一家がスレスレのラインで生きているとすぐにわかる、そんなリビングだ。
もちろんそれはリビングだけに限らず、杉崎家全体の話なのだが――
ただし、なにをどう収納した挙句の、どこをどう『スレスレ』であるのかは、明言しない。
そんなリビングの、ほぼ中央に仁王立ちしたカイトだ。
室内だというのに裾丈の長いコートを羽織り、床にまで届きそうなロングマフラーを装着している。プラスで下はスラックスという、完全デフォルト服姿もとい、戦闘態勢を整えていた。
当家におけるカイトの普段の装いは、概ねミニスカートで定着した。そこを合わせて考えるに、服装からしても、今日のカイトの気合いの入りっぷりが窺えるというものだ。
補記すると、本来であれば重力に従って大人しく床へと向かって垂れるはずのコートやマフラーの裾は、風もないのにはたはたとはためいていた。カイトの漲る気合いに煽られているのだ。
もしもカイトがいつも通りのミニスカート姿であれば、完全におぱんつが見えていたことは間違いない。
そういうはためき具合であり、カイトの普段のスカートの短さでもあった。
「んっ、んんっ……っ!!」
――それほどの気合いをもってしても足らず、次の言葉、決定的なそれを告げる勇を得るため、カイトは仁王立ちを支える足にぐぐっと力を入れた。
わずかに腰を落として踏ん張ると、左の拳を固めて脇を締め、右の拳から人差し指を立て、びしいっと突き出す。
突き出した先にいるのは、悠然とソファに腰かける貴婦人、もとい、本日もぶれなくもれなくヴィクトリアンドレス姿のがくぽだ。
いつもは甘く蕩けた賞賛だけを向ける最愛の恋人へ、カイトは宣戦布告を叩きつけた。
「がくぽさぁんっ!!ぉっ、おれのウソっ!見抜いてみろですぅううっっ!!」
――4月1日なのである。エイプリルフール、もしくは四月莫迦の日、ウソツキの日なのである。
絶対的な愛のもと、唯一誠意らしきものを与える恋人からの宣戦布告に、がくぽは深紅のルージュで殊更に際立たせたくちびるを、妖しく吊り上げた。
笑って、応える。
「善し、カイト!どーーーんと来るが良いっ!!」
とてもわくわくと期待に満ちて、がくぽはカイトからの宣戦布告を受けた。
化粧や衣装だけなら、麗しくも危険な『妖女』として仕上げた、本日のがくぽだ。『エイプリルフール』という日の特性を考えるに、実に相応しい見た形につくり上げたのだが、その完璧な見た形を完全に裏切るのが、浮かべた表情だった。お子さまだ。
花色の瞳は無邪気な期待に輝き、表情もとても生き生きとしている。並外れた美貌のせいもあるが、きらきら飛び交うお星さまが幻覚ではなく見える。
「ぅううっ!!」
貴婦人らしからぬ、かもーんと指招く下卑たしぐさで煽られ、カイトは青く揺らぐ瞳をさらに潤ませた。追い詰められた涙が、今にもこぼれそうだ。
もとから細い退路が、容赦なく埋め立てられていく感覚。
となればもはや、進む先は『前』、窮鼠はねこを咬むしかない。
が。
「ぇえええっと、あのすみません?!なんかすんげえ張り切ってるとこに悪いんですがッ」
盛り上がりも最高潮、あわや激突寸前――そんな緊迫するコイビト同士の間に割って入った愚者は、二人のマスター、へきるだった。
年齢イコール恋人いない歴、ついでに両親含む一族すべてが救いようのないレベルのオタクという、サラブレッドオタクである彼は、愚者でもあるが、馬に蹴られる程度のことはまったく恐れない、勇者でもあった。
まあ、オタクも生まれたときからやっていると、馬に蹴られるくらいは軽傷に数えるようになるのだ。もちろん、オタクの数ある傾向のひとつとして、単に空気が読めないということもあるが。
「なんで敬語ぢゃ」
「ヒエラルキーに従って!」
呆れたように腐したがくぽへ、へきるは自信満々、堂々胸を張って答えた。
蹴る馬は恐れないし空気も読めるようにならないが、ヒエラルキーだけは骨身に叩きこまれているのがオタクだ。この学習のでき如何が、オタクの生存率や社会適応率を決めると言っても過言ではない。
ゆえにこの年までオタクを止めることなく生き延び、また学生としてではあるが、未だ社会と関わり続けている歴戦のオタクたるへきるには、己のヒエラルキー判断に疑いがなかった。
ちなみに『ヒエラルキー』というのは、日本語に直すと『序列』とされ、一般的には身分の上下、地位の高い低いを表す言葉である。
ところで社会的基準に照らして見たとき、へきるはがくぽとカイトの『マスター』、主人格であり、がくぽとカイトはへきるに従属するロイドである。
しかして今、これ以上註記すべきことは特にない。
「成程」
がくぽもこっくり頷いて納得してみせると、テレビゲームを一時中断して振り返っていたへきる(*註:床に座っている。尻の下に座布団を敷いてはいるが)を、殊更ソファに背を預けた姿勢で睥睨した。
「で?なに用ぢゃ、シモジモなマスターよ」
「より格下げされた?!いや待て俺!ねえそれと『駄マスター』ってどっちが格上?!格下?!」
上半身だけ振り返っていたへきるだが、この呼び方には震撼し、尻の向きから変えてがくぽに正対した。
ヒエラルキーに従ったというへきるを、がくぽは『下々の者』と呼んだ。あからさまに己の『下』に置いた呼称だ。
それはそれとして、がくぽは普段、マスターのへきるを腐す際には『駄マスター』と呼んでいる。『駄目マスター』とか『駄馬マスター』とか、とにかくそんなような意味だ。どちらにしても、ろくなものではない。
その『駄マスター』と、『シモジモなマスター』と、どちらが格上で格下かという――
がくぽは深紅のルージュで彩るくちびるを歪めて笑みのかたちをつくり、とてもやさしくへきるを見た。
「答えが要りようか?本当に?」
滴るような声で、甘ったるく問う。
頑固な猫背であるへきるだが、震撼のあまりしゃっきりと背筋が伸びた。
「ぃいいぃいいっ」
要りません、とヒエラルキーに従って最高敬礼とともに答えようとしたへきるだが、がくぽは聞いていなかった。やさしい笑みまま、思案げに首を傾げ、もったりと口を開く。
「そもそも我は今日、真実のみを述べよと、事前に厳命されてもおることぢゃ。我とてロイド。ここはやはり、大人しうマスター命令に従い………」
「いぃやめてぇええええっっ!!」
――へきるのくちびるから、恐怖の絶叫が迸った。
佳日、本日である。
4月1日なのである。エイプリルフール、もしくは悪ふざけの日、別名、杉崎家がくぽの日なのである――
そのがくぽだが、すでに数日前にはマスター:へきるから、4月1日に嘘をつくことを禁じられていた。
より正確には、『エイプリルフール』への主体的な参加、仕掛け側に回ることをだ。なぜといって、危険だからだ。
日本生まれの日本育ちながら、がくぽの『エイプリルフール』は本場外国人並みか、彼らをも上回る悪質さを誇った。
直接命に関わることはしないが寿命は縮むから、結局のところ、長期的には命が奪われたとも言える。さらには精神崩壊を招くは、社会的生命を絶つは――
というわけでへきるは、数日前にはがくぽにエイプリルフール参加権を与えない旨を通告していた。
「すでに仕込み済みのものも、ちゃんと全部もれなくすべて残さず、解除しておきなさい」
「………まあ、構わぬが」
自室の机の前に座ったへきるは、珍しくもパソコンの電源を落としていた。そしてこちらも珍しく、きびきびとした、教師のような口調でがくぽに言いつける。
対して、へきるのベッドに腰かけたがくぽだ。一年でもっとも『がくぽ』向きのイベントへの参加を禁じられたわりには、比較的大人しく応じた。
もちろん言葉で了承しただけではなく、すぐさま上目となってログを漁り、『解除』しておくべき、すでに仕掛け済みのトラップをリストアップもする。
――つまり、数日前にはすでに、リストアップできるほどの数を仕込み済みなのが、がくぽの『エイプリルフール』だった。
当日では、もはや決して止めること叶わない。
リストアップが済むと、がくぽはちょこりと小首を傾げてへきるを見返した。非常に幼く、あどけない表情だった。
「ところで、マスター?ぬしは我が『我が述べることはすべて真実にしてまこと、嘘偽りの一片も含まれぬ誠実なる直言である』と誓言したとして、まさにその通りと信じるのかの?」
己への信頼を問うロイドに、へきるはにっこりと笑い返した。
「ムリ。きっとほんとに嘘じゃなくて真実なんだろうけど、信じないというより信じたくない」
きっぱり、答える。それこそ一片の迷いも躊躇いもない、即答だった。
『真実はやさしくない』とはよく言うが、がくぽが告げる真実のやさしくなさ加減ときたら、ちょっと過ぎ越している。
それこそ、寿命が縮んで精神崩壊、社会的生命の損失も甚だしいレベルだ。
「やれやれぢゃの!」
マスターから容赦のない否定を突きつけられたがくぽといえば、軽く肩を竦めただけだった。この程度では、へこたれもしない。まだまだ序の口、喩えるなら『やさしい真実』だからだ。
それ以上にがくぽの思考を占めていた重大事といえば、では4月1日をどう過ごすかということだった。
『不参加』という選択肢は、端から存在しない。
今回へきるから禁じられたのは、がくぽが仕掛け主となることだ。巻きこまれることまでは禁止されていないから、では誰にがくぽを巻きこませるべく巻きこむかという――
「カイトかの?」
「カイト?」
「ひゃいっ?!」
大好きなマスターと最愛の恋人、カイトに対しては甘々の甘ちゃんな二人から呼ばれたのだが、当のカイトが上げた声は怯えきっていて、すでに追い詰められたうさぎだった。
「ぇ、えとっ、おれっ?!おれっ、がっ、なんっ?!なんですっ、かっ?!」
ちなみにカイトはマスターのベッドを占領し、寝転がってマンガを読み耽っていた。名前を呼ばれたので反応はしたが、へきるとがくぽ、二人の会話はまったく把握していない。
ぷるぷる怯え震えるうさぎさん姿に、その性格や思考傾向も考え合わせ、へきるは眉をひそめた。
「いや、カイトだろ?無理じゃね?嘘なんかつけないだろ」
一般に旧型機と呼ばれ、物堅いプログラムの傾向が強いのが、カイト――KAITOシリーズだ。ロイド草創期のプログラムは柔軟性が少ないうえ、繊細にして綿密な計算を要求される『嘘をつく』という行為は、難易度が高い。
拍車を掛けるのが、KAITOシリーズの性格傾向に、『カイト』自体の気質だ。
考えるまでもない結論だと首を横に振ったへきるに、がくぽもまた、首を横に振った。否定に対する否定だ。
「だからこそぢゃ、マスター。逆に安心できよう?カイトがつく嘘なぞ、たかが知れたもの。どうせ大したことにはならぬ。であれば、事前にあれこれと気を揉むこともなく、当日を過ごせようが」
――愛はある。大事なことなので註記しておくが、がくぽはカイトをとても愛している。
ただ、それと能力評価は別のところにあり、そういった点でがくぽは冷静だった。
ご本人を前にして大変失礼な評価も、きっぱり言い切る。
そしてそんな冷静かつ失礼極まりないロイドを育てたマスターも、マスターだった。
「言われてみれば、そっか……」
「えっ、あのっ、ぁっ、あのっ?!」
がくぽの説明と、納得の声を上げるへきると。
己の意思を無視したところで事態が進んでいくのはいつものことだが、カイトはあたふたしながら口を挟もうとした。
遅かった。
いつものことである。
「じゃ、カイト。今年はカイトがエイプリルフールのウソツキ当番な!無理はしなくていいけど、がんばれ!」
「えっ、えっ、えっ?!」
マスターから矛盾している期待を負わされ、カイトは今にもこぼれそうな涙目で傍らの恋人を見た。他の相手には酷薄でも、カイトにだけはやさしい相手だ。
救いを求めるうさぎさんに、おおかみさんはにっこり笑った。
「我はマスターに禁じられてしまったゆえな、手助けしてはやれぬが……まあ、所詮お遊び、余興ぢゃ。気楽に」
「えいっ!」
「ん?」
がくぽの言葉を遮り、カイトは叫んだ。気合いを入れるような、喝破するかのような掛け声とともに、がくぽの胸座を掴む。
きょとんとするがくぽを、青く揺らぐ湖面のような涙目が、困惑と恐怖を宿して見つめた。
「えいぷ、るーるってっ、……………なんですか?」