「……………」

「……………」

「……………」

俺にカイト、それにマスターの三人は、タカコ――マスターの母親だ。声楽家の彼女は現在、海外公演中で不在だ――の部屋で、沈黙に陥っていた。

しかしながら、三人の沈黙の意味はそれぞれに、違う。

女さんのためのブリオッシュ加糖版

マスターは、うっとり見惚れるあまりに。

その幼い顔は目いっぱいの喜色に輝き、桃色のくちびるを興奮にうっすらと開いて、胸の前では小さな手を組み合わせた乙女ポーズ。

現在のマスターは、俺が髪を弄って化粧を施し、カイトがドレスを着せて、リトル・プリンセスと化している。そんなポーズを取ると、絵になり過ぎる。

学校から帰って来たマスターとの今日の遊びが、お姫さまごっこだった。

幼い少女らしく、マスターはお姫さまごっこが大のお気に入りだ。おままごとと共に、頻繁に強請られる。

今日に関しては、マスターをお伽噺の姫のように着飾ってやる、お姫さまごっこを選んだ。

幼い彼女は素材ままでも十分だが、飾り付けると甲斐のある愛らしさを伴って、こちらに応える。

対して、そのマスターの視線の先にいるカイトはというと、床に直に座りこんで手を突き、完全に項垂れていた。

カイトも、俺が髪を弄って化粧を施した。そのうえでマスターと共謀し、タカコのドレスを着せた。

男と女、身長差等の問題はあれ、ドレスは作りによっては、ある程度の体型の差はカバーできるものがある。

タカコのドレスの中で、そういったひとつをマスターに持って来させ、二人で強請って着せた。

髪の毛を弄る段階ですでに、派手に抵抗していたカイトだ。ドレスまで着るともはや、言葉にもならないらしい。

カイトが抵抗する理由は、わかっている。女装が厭なのではない。

自分がかわいらしい恰好をしても、絶対に似合うわけがないと、固く信じているのだ。

俺も侮られたものだと思う。

この俺が、愛しい情人のスタイルを弄って、笑い者になるように仕上げると思うのか。

それはそれはもう、誰が見てもうっとりせずにはおれない、極上の美姫に仕上げてやったとも!!

いや。実際のところ俺の腕など、大したことではない――やはり素地の良さが、ものを言っている。

しかしカイトは、拒絶しきれなかったことを激しく後悔中だ。もはや言葉にもならないほどに、落ちこんでいる。

そうやって憂える表情は色香を加えて、ますますもって艶めかしい。

ちなみにベッドに座る俺が沈黙しているのは、保身のためだ。

ここでなにか言うともれなく、カイトから激しい反発を食らう。褒めようが慰めようが、貶そうがなんだろうが、中身はまったく関係がない。

俺から口を開くという状態が、まずい。

ついでに言うと俺も俺で、自分で髪を弄って、化粧を施した。

さらには、リュウ――マスターの父親だ。こちらはそもそもニューヨークに基点を置いているので、この家にはイベントがないと帰って来ない――が、昔、ネタとして着たドレスを引っ張り出してきて、着ている。

一応、カイトに配慮したということもあるが、俺はそもそも、ドレスに抵抗がない。

たとえ子供の遊びであっても、やるならとことんやるのが、俺の主義だからだ。

まあ、そんなこんなで、沈黙中の俺であり、カイトであり、マスターだ。

「とってもきれいだわ、カイトせかいいちよ!!こんなきれいなお姫さまなんて、せかいのどこにも、ぜったいにいないわ!!かみの毛なんてみじかくても、ぜんぜんへーきなのねちゃんとお姫さまになれるのね!!」

「ぅ、ぅううっ!!」

沈黙を破ったのは、うっとり眺めることに満足したマスターだった。妥当だ。

いくら幼く、ナニーとして接している『マスター』とはいえ、マスターはマスター。

褒められたならとりあえず、ありがとうございますとでも返すのが、物堅い旧型機であるカイトの本来だ。

だが現状、くちびるからこぼれたのは、情けない呻き声だけだった。

興奮から視野が狭くなっているマスターは、そんなカイトに構わず、俺のこともきらきらと見つめてくれる。

「がくぽもよとっても美人だわ!!パパが着たときには、こんなへんてこりんなドレスが、よくもあるものだわって思ったけど、人がわるかったのねそのドレス、そんなにすてきなドレスだったなんて、ぜんぜん気がつかなかったわ!!それもこれも、着ているがくぽがとっても美人だからよ!!」

「ああ、ありがとう、マスター。もちろんだが、マスターもこれ以上なく愛らしい姫ぶりだぞ」

補足すると、ニューヨークに定住して、幼い娘を一人、日本に残しているリュウだ。これだけ聞くと眉をひそめたくなるが、リュウは一人娘のマスターのことを、それはそれは深く愛している。溺愛だ。

愛情が過ぎて、ナニーと妻の双方から、娘への接触禁止令が出された。

肝心の娘からも五十歩ほど引かれ、同居を拒絶された、哀れな父親なのだ。

「みんなとってもすてきだわ!!パーティがあったらいいのに!!」

「ひぃいっ!!」

きらきら顔を輝かせつつも残念そうに言ったマスターに、カイトは小さく悲鳴を上げる。

マスターにしろ俺たちにしろ、おもちゃ屋などで売っているような、ちゃちなドレスを着たわけではない。

セレブリティが集うパーティに着ていってもまったく遜色のない、素材からデザインからすべてが洗練された、まさに『本物』のドレスを着ている。

タカコがマスターへの土産とするドレスは、自分がステージやパーティに出るときに、もしなにかの弾みで娘もいたらと無駄に想定して用意したものを、そのまま持ち帰っているだけだからだ。

そしてタカコは世界的な知名度を誇る、声楽家。

ステージひとつ、パーティひとつ取っても、気の抜けたドレスなど着られない。もし出るなら、娘も。

さらに言うと、リュウはイベントのネタとしてドレスを用意したが、そのイベントはマスター、娘のお祝いだった。すべてはその一言に尽きる。これ以上の説明は、やりようがない。

「せめて、写真だけでもとっておきたいわね、がくぽ!!」

「ひぃっ、ますた、んんんっ!!!」

「いいな、マスター。冴えているぞ」

止めようとしたカイトを強引に抱えこみ、俺はマスターへとにっこり笑いかけた。

「カメラの場所はわかるか?」

「ええもちろんよ!!」

「ちょ、だめっ、ますた、がく」

膝に乗せて抱えこんでも、カイトはもがくのを止めない。

俺は指が食いこむほどの力でカイトの顎を捉えると、強引に目を合わせた。

「が、ぃっ、っ」

「俺はカメラの置き場所を覚えていないが、危険な場所か?」

「え?」

真剣な顔で訊くと、カイトはぴたりと動きを止めた。

今の場合、行かせようとしているのが『マスター』だという、前提がある。場所によっては幼い彼女を近寄らせられないので、ナニーであるカイトはこういう質問をされると、即行で意識が向く。

「………ううん。大丈夫。危なくない」

――そしてとても、素直だ。己の保身のために、事実を偽ることはしない。

こいつを守るために全身全霊を尽くし、命惜しみなど決してしないという誓いを改めて心に刻みつけつつ、俺はマスターへとにっこり笑いかけた。

「よし行け、マスター俺はカイトを説得しておく!」

「はぁいっ!!ヒメハナいっきまーすっっ!!」

「ひ、ちょ、が、………マスタぁああ!!」

普段はカイトの絶対的な味方で、嫌がることは決してさせないと固く誓い、それを守り通しているマスターだ。

その胆力は幼い少女とは思えないほどで、俺は驚きとともに、自分の認識の甘さを正すことも多い。

が、今のマスターはどうやら、その大好きなカイトの、日常とは違う『綺麗』に眩んでいるようだ。

いつだったか、俺が戯れで教えた口上とともに敬礼をすると、部屋を飛び出して行った。

小さくとも女、綺麗なものが好きなのは、悪いことではない。

男なのにドレスなんか着て、などと憎まれ口を叩くような性格でもなし、綺麗なものは綺麗だと、きちんと評価することができる素質は、得難く貴重だ。

ここまでまっすぐ素直に育ったのは、ひとえにカイトの、ナニーとしての苦労の賜物。

「がくぽ………っっ!!」

「訊くが、カイト。おまえ、俺が綺麗だと思うか?」

飛び出して行ったマスターを追うことも出来ず、押さえこまれながらきっと睨みつけてきたカイトに、俺は真面目な顔で訊く。

瞳を微妙に潤ませたカイトは、未だきつく尖りながらも、こくりと頷いた。

「うん、きれい。すっごくきれい。でも俺は」

「具体性に欠けて、どんなふうに、どれくらい綺麗なのかわからん。もう少し具体的に、言葉を尽くして言え」

「えええ………?!」

俺の求めに、カイトは瞳を見開く。そうでなくても大きめで綺麗な瞳だが、今日は睫毛もきちんとカールさせ、マスカラやらなにやらで装飾している。与えなくてもいい力を与えた感すらある。

「え、えっと………その。………も、もともと、がくぽはすっごくきれいなんだからね?!かっこいいし、逞しいし、漢気もあって、………ほんとに素敵な男のひとなんだけど、それに加えてすっごくきれいで、色っぽいっていうか、艶やかで目が離せない感じで、でもやっぱり、ちゃんと男のひとで、なのにすっごくきれいで、かっこよくって、もう見るといつまでたっても、うっとりしちゃって」

「………」

「でも男のひとなんだけど、今はほんとに、絶世の美女に見えて、ええと、だから………なよってした、守られるお姫さまっていう感じじゃなくて、配下をいっぱい従えた女王さまっていうか………威厳に溢れてて、単純にきれいっていうより、ちょっと危険な感じもして、見てると別世界に連れて行かれちゃぅ、んぅっ」

拙い言葉で懸命に言い募るカイトのくちびるをキスで塞ぎつつ、俺はわずかに後悔していた。

こいつに俺を褒めさせると、際限がないということを忘れていた。しかもしょげていたくせに、褒め称えているうちに意識がすっかり俺へと入りこみ、全身から熱と甘さがこれでもかと溢れている。

本来ならこのまま押し倒して、存分に啼き喘がせたいところだが――

「ん、ん………っふ、ぁ、がく………っ」

「今そうやって、心から褒め称えてくれた俺の三倍、おまえは綺麗だ」

「そんなこ、んっ」

否定を吐こうとしたくちびるを、俺は軽くくちびるを落とすことで塞ぐ。

見つめるカイトに、首を傾げてみせた。

「俺の言葉を信じないのか?」

「そ、ういう、わけじゃ」

「俺が誰よりも愛する、自慢の恋人のことを、貶すのか?」

「そ………っっ。……………」

反論を紡ごうとしたカイトだが、ぐぐぐっと黙った。

ドレスから覗く肌がすべて、赤く染まっている。こうまで照れられると、俺としても甲斐があるというものだ。

もっともっと甘いことを吹きこんでやって、心のみならず、体まで蕩かしてやりたい。

「………いくらおまえでも、俺がもっとも愛する、自慢の恋人の悪口を言うなら、赦さんぞ二度と言うことがないように、反省するまでキスで口を塞いでやる」

「ま、マスターが」

「反省するまでだ、カイト。言った以上、俺はやる」

「………っ」

複雑な表情で口を噤んだカイトは、ややして俺の肩に顔を埋め、縋るように胸元を掴んだ。

「ずるい、がくぽ……………そんな、お仕置き。…………してほしくなっちゃう………」

「ふ」

くちびるからは余裕の笑いをこぼしたが、俺の腹の中はどんちゃん騒ぎだった。

この天然口説き魔が、俺の自制心をそんなに磨き上げて、どうする気だ。

押し倒したい欲求が過ぎれば、幼いマスターに衝撃映像を提供することになる。

彼女の健全育成のために、磨きに磨かれてもはや目も眩むような俺の自制心を、取り出して見せてやりたい。

「反省したと言うなら、褒美をやるぞもっとおまえが好きで、もっとおまえが欲しいものを………俺の愛おしい、自慢の恋人が求めるまま、求めるだけ、存分に………」

「ぁ………」

殊更に熱っぽくとろりと吹き込んでやると、カイトはびくりと震えた。縋る手に、力が篭もる。

もはや力づくで押さえこむ必要もなく、俺は支えるだけとなった手で、凭れるカイトの体をやわらかく辿った。

「……仕置きがいいのか、カイトキスだけ褒美のほうが、欲しくないか………?」

「ぁ、ほし」

欲しい、と言おうとして、カイトはぴたっと口を噤んだ。

慌てて体を起こし、ついでに俺の胸を押して、抱擁から逃れようともがく。

「がくぽーカメラ見つけたわ!!あら」

次の瞬間にデジカメを持ったマスターが部屋に飛び込んできて、座ったまま格闘中の俺とカイトに目を丸くした。

「よし、マスターでかしたぞ!!いや大丈夫だ、説得なら終わっている!!」

「がくぽっっ!!!」

「これはあれだマスター照れ隠しとかそういうものだ!!」

「がぁああくぽっっ!!!」

すっかりいつもの通りに喚くカイトは、俺の膝から下りようと暴れる。俺は下ろすまいと、懸命に抑えこむ。

戸口に立ったままのマスターは、しばらく瞳を瞬かせてその様子を眺めてから、落ち着いた様子で頷いた。

「つまり、いつものことねあんまりカイトを恥ずかしがらせちゃ、かわいそうよ、がくぽ」

「ま、マスター…………!」

大層冷静に吐き出された幼いマスターの感想に、カイトの体からがっくりと力が抜ける。

大人しくなったところで膝から下ろすと、俺は苦笑しながらマスターの元に行った。デジカメを受け取り、機能を検索する。

「とりあえず、個別にも撮るが――その前に、三人で集合写真を撮るか。最悪、カイトはこれさえあれば…」

つぶやいた俺に、マスターが驚いたように身を乗り出してきた。

「そんなことできるの?!だって、ヒメハナとカイトとがくぽ、三人しかいないのよ?!だれがとるの?!」

「タイマーが………いや、そういえばいつもなんだかんだと、他人がいるときにしか撮ったことがないから、知らないか」

瞳を輝かせたマスターをカイトの元に向かわせ、俺は二人に焦点を合わせる形で、棚にカメラを置く。

マスターが膝に乗ったため、カイトはこれ以上の抵抗もしようがなくなった。再び夢中で褒め称えだした彼女に苦笑を向けつつ、ドレスの形を整えてやっている――まあ、先よりよほど落ち着いていることは、確かだ。

レンズ越しにその様子を眺めて、俺の口は自然と笑みを刷いた。

我ながら、いい出来だ。絵になる。マスターも、カイトもどちらも。

そしてついでに、俺も。

「マスター、ポーズを決めておけ。俺がそっちに行ったら、すぐにシャッターが下りるぞ」

「えっ、はいっ!!」

注意をこちらに向けると、マスターはカイトの膝の上でしゃっきりと背筋を伸ばした。カイトのほうも諦めたようで、ぎこちなくカメラに顔を向ける。

俺はタイマーを入れると、素早く二人のところに行った。座るとドレスとポーズを整え、カイトの腰を抱く。

カメラを見つめて時を量りつつ、笑みの形のくちびるを開いた。

「マスター、一足す二は?!」

「さんっっえっ?!!」

「も、がくぽっ!!それ違うっ!!」

固い表情だったカイトが笑い解け、釣られてマスターも笑ったところで、シャッターが下りた。

「………もぉ、がくぽったら。ほんと、策士なんだから………」

名残りで笑うカイトにウインクを飛ばしつつ、俺はカメラを確認しに行った。

撮った写真を見ると、くちびるが綻ぶ。

――やはり、いい出来だ。『姫』なのだから、澄まし顔で撮るほうがいいかもしれないが、それでも。

「ね、がくぽもっといっぱい、お写真とって!!」

「ああ、いいぞ。……と」

「あ」

マスターに強請られて、カメラから視線を移動するところで、時計が目に入った。そこで止まった俺に、カイトも目をやる。

――そろそろカイトは、夕飯の支度に取り掛かる時間だ。

まあカイトはこれ以上、写真など残しておきたくないだろう。マスター単体の撮影会にする、いい口実だ。

と、思ったのだが。

「これ、脱がなきゃ……さすがにこのまんま、料理なんかできないし」

カイトのつぶやきに、マスターが大きく体を跳ねさせた。慌てて振り返り、世界一の美人だと信じて疑わない、大好きなナニーに取り縋る。

「ぬいじゃうの?!」

「えと、マスター。この恰好だと、ごはん作れませんから……」

「えええ………ぅうう、でも、えええ………」

「……………」

ひどく惜しそうなマスターの気持ちは、わかる。俺も同感だ。

同感だが、このままの恰好でカイトに料理をしろと言うのも、無理があり過ぎるとわかる。

この場合、取るべき手段としては――

「そういえば、タカコがこの間、チケットを置いていったな。今日ならまだ……」

「がくぽ?」

「え、がくぽちょっと?」

期待を込めて見つめるマスターと、不安に瞳を揺らがせるカイトと。

二人に向かって、俺はにっこりと笑って見せた。

「マスター。今日は帝国ホテルで、本式のディナーと行こうか。あそこなら、この恰好でも驚くほど浮かないだろうし、マナーの勉強にもなって、一石二鳥というものだ」

俺の言葉に、マスターの表情は、ぱっと輝きを取り戻し。

「ちょ、が………ぃ、ぃやぁあああああああっっ!!」

――カイトの上げた悲鳴は、本気のものだった。