束の間呆然としたカイトは、次の瞬間、固めた拳を思いきり振るっていた。

響く、がつんとぶち当たる嫌な音。

War of Bride Pride-1回戦-

「っくっ」

「…………っ」

頬にまともに拳を受けたがくぽは、小さく呻いた。

避けられない動きだったが、ここまでまともに食らったのはおそらく、がくぽ自身が『避けなかった』せいもある。

「………っ、…………っっ」

カイトはくちびるを戦慄かせ、がくぽを見つめた。引き結ばれた口の端が、切れている。

赤い色を涙目で追いかけながら、カイトは閊える咽喉から声を絞り出した。

「な、………かに、出さないでって、……………っ、言った……………っっ」

悲痛なほどの責める響きを帯びた言葉に、がくぽはすっと瞳を伏せる。

常に傲岸かつ傲慢、不遜に我が儘いっぱい振る舞う男だが、応えた声は静かだった。

「済まない」

「すまないで済んだら、ケーサツはいらないのぢゃー☆」

きゃらきゃらと明るく笑いながら言ったリリィは、リビングのソファに座るがくぽの頬にべたんとパッチを貼った。

あまり思いやりのある勢いではない。

「ったっ、……………っくっ」

「ぁっはー♪」

思わず呻いたがくぽに、リリィはきゃらきゃらと笑うだけで反省する様子もない。

ソファの傍にある小卓に用意した、ロイドのための軽傷用補修剤やパッチ、ガーゼといったものをてきぱきと救急箱に仕舞いつつ、渋面の兄を楽しそうに見上げた。

「うちに粘膜用補修剤があって良かったわね、おにぃちゃん口の中、ざっくりぱっくりだったもの~☆」

「……………ちっ……ぅ……………っ」

リリィの言うとおり、がくぽの内頬はざっくりと切れていた。加減もせずに振るわれた拳を、まったく避けずに受け止めたせいだ。

補修剤を塗って、パッチを貼ったのでどうにかようやく血は止まったが、痛みはある。少しでも話すと、痛い。

それ以上に痛む思いがあって、あまり気にならないといえば気にならないのだが。

「ぅっふふなんでうちには、粘膜用補修剤なんてものがあるのかしら~きゃ~、やーらしーいっ☆」

「リリィ、…………っ、………」

わざとらしいうぶ子ぶりに、がくぽは眉をひそめた。しかし言葉は続かない。

しゃべると痛いが、それ以上に。

「もぉ、おにぃちゃんはいったいナニをして、『あの』カイトくんが殴るくらい、怒らせたのかしら~きっと『すまない』の一言じゃすまないほど、ヒドイことしたのよね~♪」

「……………………リリィ。あれの、手は」

うたい踊るにも似た様子で救急箱を仕舞いにサイドボードへ向かうリリィに、がくぽは呻くように訊いた。

「あれの手当ては」

「グミちゃんが行ってるわぁ♪」

端的な問いに、リリィはあくまで明るく答えた。

サイドボードに救急箱を仕舞うと華麗なターンを決めて、弾む足取りで兄の元へ戻ってくる。

俯いて頬を押さえるがくぽの足元にへちゃんと座ると、細くきれいな指を伸ばし、指の隙間から覗くガーゼをつついた。

「……っおい」

「中だけじゃなくて、口の端まで切って、挙句ほっぺたには青痣くっきりよおにぃちゃんだって痛いでしょうけど、カイトくんの拳だって無事じゃ済まないわね、こんなの。そもそも殴るための拳じゃないんだから」

「………………っ」

リリィが傷口をつついているせいではなく、がくぽは壮絶に顔を引き歪めた。ふいと、そっぽを向く。

常にちんぴらモードで凄み、せっかくの絶大な美貌を無駄にしていると周囲を泣かせているがくぽだ。しかし今のそれは、いつもとは意味が違った。

己の痛みなど、なにほどのこともない。

痛む、傷むカイトの拳――自分などを殴ったせいで。

なによりも、痛んで傷んでいるのはきっと、カイトの心――

「こういうときのカイトくんはね~、リリィよりグミちゃんのほうが適任なの~それでおにぃちゃんには、グミちゃんよりリリィのほうがいいのよ~♪」

「…………そなたの判断は信頼している」

笑って言うリリィに、そっぽを向いたまま、がくぽはぼそっと吐き出した。それから、苛立ったように頭を掻く。

カイトの手当ては、グミがするだろう。

傷ついたであろう、拳の手当ては――しかし、それ以外の、『後始末』は。

「くそっ」

「ぅっふふ☆」

思わず罵倒を吐き出したがくぽに対し、リリィは悪戯っぽく瞳を煌かせた。床に座って、そうでなくても目線が低くなっているというのに、さらに屈んでがくぽを覗きこむ。

「で、おにぃちゃんいったいカイトくんにナニをして、そんなに怒らせたの~?」

「…………………」

きゅっとくちびるを引き結ぶと、がくぽはさらにリリィから顔を背けた。首の稼動限界ぎりぎりだ。

ある意味子供っぽいしぐさに、リリィは瞳を細めた。顔を逸らされても追いかけて、ぷにぷにと傷口をつついていた指を戻すと、己のくちびるに当てる。

「まあ、言わなくても大体、想像はつくけど☆」

「っっ!」

相変わらず笑ってはいても、いつもより多少低められたリリィの声に、がくぽは慌てて振り向いた。

リリィの浮かべる笑みは、いつもと変わらない。無言で焦る兄へと、屈託なく笑いかける。

「おにぃちゃん、まさかナニしてたか、リリィやグミちゃんに筒抜けじゃないとでも思ってるのおんなじ家に住んでて?」

「………………っ」

再び苦い顔になると、がくぽは引き結んだくちびるを歪め、リリィから顔を逸らした。

わかっているとしても、言えないことはある。

言ってはいけないことが。

がくぽは約束を破ったのだ。カイトとした、大事な約束を――

がくぽの言うさまざまな我が儘を、概ねすべて聞いてくれるのが『兄』であるカイトだ。

その一環として、ほとんど押し切られる形で、カイトはがくぽに抱かれる。

兄だ弟だとうるさく言うのは、がくぽだ。兄なのだから弟を甘やかせと、兄を立てる素振りもないままに傲然と命じる。

カイトは微妙にうんざりしたような顔をしつつも、いつもがくぽの求めるまま、我が儘を聞いてくれた。

完全に兄弟の枠を逸脱している、セックスという行為ですらも――

ただしカイトは、黙って虐げられるだけの性格でもない。がくぽに押し倒されたときに、必ずひとつ、出す条件があった。

――中には、出さないで。

押し切られてあたふたおたおたしつつも、カイトは必ず、それだけは言う。貫かれて意識もおぼろになりながらも、がくぽが限界に達する寸前には、必ず。

カイトは男だ。

なんだかんだと流されてはくれるが、男のがくぽに抱かれることに、なにも思わないわけもない。

そこの抵抗が表れて、おそらくは『中に出すな』という条件に繋がるのだろう。

我が儘三昧に振る舞うがくぽだが、この条件に関してはきちんと聞いてきた。押し切ってはいても、カイトを抱いていることに罪悪感があったからだ。

兄弟だと主張しながら、カイトを求めて堪えられない己のことは、正直疎ましい。

穏やかに暮らさせてやりたいだけなのに、伸びてしまう手は切り落としたい。

カイトが本気で嫌がって抵抗したなら、すぐにも止めるつもりで――

ずるずるとだらしなく、自分を甘やかしてきたツケを払ったのが、今日だった。

いつもなら、好きではなくても男性用避妊具をつけて、カイトを抱く。とはいえ家の中で、常にそれを持ち歩いているわけもない。

常備してあるのは、自分の部屋だ。つい盛ったのが、カイトの部屋だった。

束の間、どうしようかと躊躇ったものの、蕩けたカイトを置いて自分の部屋に行くこともできなかった。

カイトを極めさせたなら、己は抜いて外に出せばいいと思い切って、生身で腹の中に押し込んだ。

堪え切れなかったのだ。

極めて、これ以上なく蕩けるカイトの顔に、つい見入った。これまで堪えに堪えていた激情が、どうしてか今日になって堰を切り、溢れた。

――なか………………

出された瞬間の、カイトの声。

己の浅ましい願望だとはわかっているが、最上の幸福を得たように聞こえた。表情はいっそう蕩けて――

生身に吐き出す気持ちよさとともに見惚れたがくぽの前で、カイトの表情はすぐさま強張った。

快楽に蕩けてあらざるものを見ていた瞳が現実に返り、陶然と開いていたくちびるがひくついた。

「…………っ」

すべてつぶさに覚えているその瞬間に、がくぽの表情は苦々しく歪んだ。

まさか殴られるとは、思わなかった――泣かれるかもしれないとは、思ったが。

男だ。つまるところは。

がくぽの我が儘を容れて下になり、その雄に腹を掻き混ぜられることに堪えても、カイトは男だ。

忘れていたつもりはないが、軽んじてしまったのだ。しつこく念を押されて、何度も何度もした約束だというのに、がくぽは破った。カイトを裏切った。

そういう、自分のすべてが腹立たしく、いっそ憎い。

――出てけ!!

がくぽを殴った拳を抱えて、カイトは泣きながら叫んだ。

手当てをさせてくれと、腹の中の始末をさせてくれと、希うどころではなかった。がくぽは言われるままにカイトを置いて、部屋を出るしかなく――

悔悟に沈むがくぽを静かに見つめていたリリィだが、ふっと顔を上げた。

「あら、グミちゃんカイトくんの様子は?」

「っっ!」

リリィの言葉に、がくぽははっとして顔を上げた。慌てて振り返れば、救急セットを持ったグミがリビングに来たところだった。

ある意味不自然に、グミはがくぽに視線をやらなかった。それでいながら常と変わらない、端然とした表情でリリィに向かって肩を竦める。

「今日は夕飯を食いたくないそうじゃ。部屋にいさせてくれと」

「っ!」

カイトが嫌がるのはもちろん、ショックを受けていることもあるだろうが、がくぽも共に食卓を囲むからだろう。

青褪めて腰を浮かせたがくぽだが、なにか言うより先にリリィの明るい笑い声が響いた。

「じゃあ、グミちゃん今日のお夕飯はワンプレートディナーにしてあげるから、カイトくんとお部屋で食べて☆」

「ああ。頼む」

「っリリィっ」

呼んだものの、がくぽはそれ以上、言葉も続かない。

不自然としか言いようもなく視線を寄越さないグミと、いつもの通りに明るく笑うリリィとを無為に見比べるだけだ。

そのがくぽに、笑ったままのリリィは両手でぱっと口元を覆った。覗く瞳は、悪戯っぽく輝いてがくぽを見つめる。

「リリィのこと、信頼してくれるんでしょ、おにぃちゃん今のカイトくんは、グミちゃんといっしょならだいじょうぶもうひとつ言うと、今のグミちゃんは、おにぃちゃんといっしょにしたら、ぜったいダメなの♪」

「……………」

グミは特に苦々しい顔をするでもなく、がくぽに対して軽蔑や侮蔑、失望を向けるわけでもない。

いや、なにひとつとして、感情を向けてもらえない。

向けてくれなくなった、――妹。

端然とした表情のグミを軽く見やり、がくぽは半ば崩れるようにソファに座った。

額に手を当てると、過ぎた感情のせいでかえって笑いがこみ上げる。

つんと痛む鼻の奥に、濡れかけの目尻。

そして歪んだ笑みに引きつるくちびる。

手のひらで覆い隠して、がくぽは吐き出した。

「ああ、そうだな…………そなたの判断は信頼に足る、リリィ」