仕事から帰って来たマスターは、顔の半分をガーゼで覆ったがくぽの痛ましい様子を見て、意識を失いかけた。

War of Bride Pride-2回戦-

リビングのソファにがくぽがふんぞり返っているのは、常態だ。

しかし今日は、どちらかというと悄然とした空気でソファに沈み込み、そのうえ顔を負傷している。

いくら普段、ちんぴらだ、こんな子に育てた覚えはないと男泣きしていても、それと愛情の有無は別だ。

いや、愛があればこそ懲りもせずに、いいこにしなさいとお説教しては、逆襲の憂き目にあってグミやリリィ、カイトに慰められる、なんだかなループ。

そうやって報われない愛を懸命に注ぐ、がくぽが――

普段から無為かつ無駄にしているが、その飛び抜けた美貌を、痛々しいことこのうえないガーゼで覆い隠している。

しかも、判明した『犯人』だ。

「がぁあくぽ………………………………っ!!」

それ以上なにも言えず、マスターは床に頽れた。

うちのかわいいがくぽにナニしてくれる。しかしナニしてくれたのは、まさかのかわいいカイト。

うちのかわいいカイトにナニしてくれた。しかしナニしたのは、うちのかわいいがくぽ。

いくら普段、ちんぴら化したがくぽに振り回されていても、さっぱり感化された様子のなかったカイトだ。意味もなく暴力など振るわない。

貰われっ子であっても、そこの信頼はすでに出来上がっている。

相当に追い込まれたからこそ、カイトは拳を振るったはず。

そこまで追い込んだのはやはり、顔半分を負傷したがくぽ――

自分を信頼して預けてくれた旧友に、なんと言って詫びるべきだろうか。

詫びたところでもう、声も届かない。がくぽに頭を下げさせるにしても、その相手は――

「……………ちっ」

がくぽは苦々しい顔でそっぽを向いたまま、小さくちいさく、舌打ちを漏らした。

ソファの前では、頽れたマスターが床に両手を突いた状態で項垂れている。言葉も失くしてだ。

なんだかんだと言っても、『マスター』だ。きつく当たりはするが、嫌いではない。多少の不満はあっても、それなりに尊崇の念を抱いている。

その相手が、ほとんど土下座状態で項垂れているのだ。がくぽが原因で。

よくあることではあるが、今回の場合はカイトが絡んでいる。

きちんと金を払い、買い取るという体裁にはしたものの、マスターにとってカイトは旧友からの大事な預かりものであり、忘れ形見に等しい。

本来は好みから外れるラボのロイドでありながら、溺愛するにまで至った理由には、そこの事情も大きく絡む。

他の『家族』に向けるものとは多少、趣の違う『愛情』に、カイトも薄々気がついている。無理からぬ理由だと本人は諦めているが、だからこそがくぽは――

「………………がくぽ」

そっぽを向いたがくぽを、半土下座状態のまま情けなく見ていたマスターだが、ふと口を開いた。

呼ばれても頑固にそっぽを向いたままの、まるで幼い子供のようながくぽに、ちょこりと首を傾げる。

「写真を撮ってもいいか」

「っっ!!」

――あまりにも場にそぐわない発言に、がくぽは亜光速でマスターを振り返った。

相変わらずの情けない顔だ。ずびずびずべずべと洟を啜り、目尻には光るものがある。

男泣き寸前のそんな顔で、マスターは生真面目に首を捻った。

「それとも、動画のほうがいいのか…………」

「なにを言っている、そなた」

問いかけるがくぽの声は、地獄を進むように低く這った。そこまでの声を出すのは、余程不快に思ったときだ。

いくら普段の言動がちんぴら化していても、こうまでになることは滅多にない。

しかしマスターが構うことはなかった。

ずびずぶぶっと洟を啜りながら、床に正座する。

まるでハラキリサムライのように居住まいも表情も正したうえで、表情を空白にしているがくぽを見つめた。

「やっぱり写真、静画のほうがインパクトあるかな。環境問わずに、見やすいし見せやすいし」

「マスター」

真面目に相談されているらしいが、中身だ。

低くひくく這うがくぽの声に、マスターはわずかに身を乗り出した。

「だってさがくぽ今、見たこともないくらいに落ち込んでるよ世紀の奇跡並の、落ち込みっぷりだよカイトにさ、部屋から出てきてこれ見てくれって言うのも、アレだからさ。だったらせめて、写真に撮って、がくぽはこんなに後悔して反省していますって」

「……………マスター」

「見せたら、カイトもちょっと、がくぽのこと赦そうって気になるかもだってさ、普段、結構無茶苦茶過ぎるがくぽの我が儘を、カイトってあっさり聞いちゃうだろ。それってやっぱり、それなりに愛情があるってことだから」

「マスター!」

声を荒げて、がくぽは言い募るマスターの言葉を止めた。

すでに泣き出していたマスターは、しゃっくりとともに言葉を飲み込み、表情を悲痛に染めるがくぽを見つめる。

「……………同情を買っていいことと、悪いことがある。今回は、悪いことだ、マスター」

「ぅひぇっく」

一度は荒げたものの、説いたがくぽの声は静かに沈んで、やわらかかった。マスターは応えられず、ただしゃくり上げる。

うちの子はちんぴらだちんぴらだと思っていたけれど、ちゃんと善悪の別がある子でした。

しかしそれが判明したのは、カイトをひどく傷つけてのことでした――

「がくぽ…………」

「なにをしたかと訊くなよ。答えんからな」

「………………」

マスターは軽く、天を仰いだ。

そうとは言っても『マスター命令』となれば、いくらがくぽでも言わざるを得なくなる。

カイトは大事な大事な預かりもので、大切なかけがえのない家族だ。

振るうはずのない拳を振るうほど追い詰められたというのなら、その咎は、カイトがそこまで追い込まれる前にがくぽを『止め』なかった自分にもある。

ここで事情を調べることもなく放置することは、その罪をさらに重ねることだ。

たとえがくぽとの信頼関係が崩れようとも、『マスター』であるからには、やらなければならないこともある。

それが、ロイドの『マスター』であるということ――

「がくぽ」

マスターは一際大きく洟を啜ると、再び顔を背けたがくぽをしっかりと見据えた。

「傍から見てダメだと判断したら、俺は介入するよ。がくぽが嫌だと言っても、しゃべることはしゃべらせる」

「……………」

「二人とも、俺の大事な家族だ。関係が修復できないからと、どちらかを――手放すなんてこと、考えたくない。考えられない。それくらいなら、俺が泥を被るから」

きっぱりと言い切ったマスターに、がくぽはちらりと視線を流した。

修復も利かないほどにこじれた場合、手放されるのは、おそらくカイトだ。

マスターは明言しないが、本当にそういう事態になったなら――

一度すでに、手痛い記憶とともに『マスター』と『家族』を失ったカイトが、また――

「……………ふん」

鼻を鳴らすと、がくぽはさらに顔を背けた。

「そなたの裁断に任せる。………………多少は、男振りを上げたか」

「がくぽ…………」

ぼそっとつぶやいたがくぽに、マスターの瞳がぶわっと潤んだ。すぐさまそれは滝のようになって流れ落ち、ついでに鼻からも啜りきれない汁が垂れた。

男泣きの状態で、マスターはソファに座るがくぽにがっしと抱きついた。

「がぁくぽぉお~~~っオトナになっちゃってぇ~~~っっ!!うれしいけど悲しいぞぉ、ますたぁわぁあああっっ!!」

「っのっ、きたな、五月蝿いっっ!!離せこら、この駄マスターがっ!!耳元で喚くな汁を垂らすなぁあっっ!!」

――さすがに、加減もできない。

がくぽは喚きながら、ぐりぐりと擦りついてくる汁塗れのマスターとの『プロレスごっこ』に突入した。

***

夕飯を終えると、がくぽはいつもより早くに自室へと引き上げた。

この顔でいつまでもリビングにいると、マスターが落ち着かない。

なによりも、今日は遅くまで起きている必要がない――さすがにこの状態で、寝入ったカイトの布団に潜り込む勇はない。カイトもまた、がくぽの布団に潜りこんではいないだろう。

やっていいことと悪いことの区別は、ついている。いみじくも、マスターに言ったように。

「…………っ」

ロイドの居室が集まる一階に下りたところで、がくぽはくっとくちびるを噛んだ。

カイトの部屋から、ちょうどグミが出てきたところだった。グミが片手に持つ重ねられたプレートの上は、きれいに空になっている。

素早く見て取って、がくぽはわずかに胸を撫で下ろした。きちんと食べたのだ、カイトは。

部屋に篭もったカイトのために、リリィが用意したのはワンプレート――グミが片手ずつに自分とカイトの分を持って、危なげなく持ち運べる大きさの皿一枚に、さまざまな料理を盛り合わせたものだ。

グミが危なげなくということになると、皿の大きさは多少、寂しい。

しかしそもそも、食べたくないと言うカイトには無理のない量だろうし、グミは後でデザートを約束されている。

グミは色気より食い気が勝る少女で、時として他人のものを奪ってまで食べる。とはいえ今日は、さすがにそういったことはしないだろう。

むしろ、カイ兄者が食わぬならグミも食わぬなどと言って、きちんとカイト自身に空にさせたはずだ。

安堵したがくぽだが、すぐにその眉はしかめられた。

出てきたグミは、一瞬は目をやったがくぽから、あまりに自然と視線を外した。

「………っ」

がくぽはわずかにくちびるを噛み、現実の痛みによって胸中の痛みを堪える。

仕方がない――グミは家族の中でも、カイトと仲が良かった。

がくぽは我が儘で振り回すだけだが、グミはカイトにとって気の置けない『遊び友達』だっただろう。

それゆえに今、『カイトにはグミ』で、『グミはがくぽといっしょにしてはいけない』のだ。

顔をしかめてすっと俯いたがくぽは、だから見ていなかった。

俯くだけの兄を見たグミは、壮絶に顔を歪めていた。

「っっ」

重ねたプレートを片手に持ち、グミは憤然と足を踏み出す。淀みもなくがくぽの脇にまで来ると、狭い廊下の通行のために道を開けようと引かれた足へ、勢いよく爪先を飛ばした。

「っいっっ!」

思いきり向こう脛を蹴られて、さすがにがくぽも呻いた。そこに人間ほどの痛覚はないが、痛いことに変わりはない。

「グミっ」

「グミの兄者が、情けない顔をするなっ!!」

ぱっと顔を向けたがくぽに、壮絶に顔を歪めたグミが叫んだ。のみならず、だんっと足も踏み鳴らす。

「なにをしたのか、なにがあったのかなど、グミは問わぬし訊かぬっ赦されることなのか、赦されぬことなのかもっ!!しかしグミの兄者なら、黙って俯くなっ俯いておる暇に、方策を考えて駆けずり回れっ!!」

「…………………」

がくぽと比べると、小さなグミだ。男と女、成人と未成年など、理由はいろいろある。

しかしがくぽを怒鳴りつけるグミは、ひどく大きく膨らんで見えた。

しょげて俯くがくぽを圧して、押し潰されると畏怖するほどに。

実際の首は下に向いているのだが、がくぽは見上げている気分で、怒鳴る妹を眺めていた。

「惚けておるなグミの兄者ならっ。……………っ」

そこまで叫んで、グミの声は唐突に、小さくささやくようになった。

「カイ兄者を想うなら、斯様な暇はない」

口早に告げてから、グミは再びきっとしてがくぽを睨みつけた。

力強く前を見据える瞳が、まっすぐにがくぽを映している。

歪んでいたがくぽのくちびるが綻び、瞳がやわらかに撓んだ。

大好きな『友人』を傷つけられた怒りと、ただ項垂れるだけで手も打たない、不甲斐ない兄へのもどかしさと――

膨れ上がる妹に、がくぽは泣いているような笑みを向けた。

「…………必ず、なんとかする。するが、グミ…………兄に、今しばらくの時間を呉れ」

「…………………ふん」

いつもとはまったく違う静かな兄の声に、グミは鼻を鳴らした。ぷいっと、そっぽを向く。

「グミは寛大な妹じゃ。兄者に多少の時間を呉れてやるくらいのこと、してやる」

「ああ」

尊大に告げたグミに、がくぽは頷く。相変わらず、泣いているような、そんな笑顔で。

そっぽを向いたグミは、がくぽをちらりと見てから、歩き出した。階段へと向かいつつ、小さくつぶやく。

「したが、長くは待たぬぞ。カイ兄者が持たぬ」

「……………」

言い置いたグミの背を見送り、その足が軽やかに階段を昇る音も聞いて、がくぽは顔を戻した。

閉じられた、カイトの部屋の扉。

いつでも力づくでこじ開けてきたが、今日はできない。

いや、あとしばらくは――

がくぽは頬に手をやり、顔の半分を覆うガーゼに触れた。くちびるが歪む。

「言われぬでも、このまま置くものか………すぐだ。すぐに、…………」

分厚いガーゼの上からでも、きつく手で押せばひどい痛みが走った。歯を食いしばれば、同じく。

傷は出来たばかりで、まだ塞がる余地も見えない。