舌で口の中を探る。クリア。

「っつっ」

頬に貼っていた、ガーゼとパッチを剥がす。粘着テープで一瞬痛みが走ったものの、それ以上ではない。

鏡を覗き込んで、肌色を見た。クリア。

オールクリア、だ。

War of Bride Pride-5回戦-

「っし!」

思わず小さな快哉を漏らし、がくぽは剥がしたガーゼとパッチをゴミ箱へと放り込んだ。リビングのテーブルに念のために広げておいた救急セットも、手早く仕舞う。

「まったく、この程度の傷を治すに五日もかけおって………後でラボに、救急パッチの性能について苦情を入れてやる」

ここ数日、さっぱり形を潜めていた尊大さが、うきうきと弾みながら覗いている。

逸る心を隠しもせず、愉しそうに腐す兄を、ちょうどリビングにやって来たグミは胡乱な目で見た。

「ほう、ラボのせいか、兄者………感心じゃの………なにゆえ斯様に時間のかかる傷を負ったか、そこの原因はどん無視なのじゃものな!」

「あれはどうしている」

ネチネチと言われたが、がくぽはあっさりと聞き流した。

ある意味、まったく通常営業だ――きちんと聞いてもらえていた、そちらがむしろ異常なのだ。

グミは肩を竦めて、体を反した。道を広く開けてやって、顎をしゃくる。

「己で見て来い」

「言われいでも」

開かれた道を、がくぽは大股で歩いていく。

急ぎながらも堂々と張る背を見送り、グミはぷくりと頬を膨らませた。

「ようやくか!」

「そうね~♪」

答えたのは、洗濯物を畳んでいたリリィだ。床にちょんまり正座した彼女は、家族の洋服を手早くきれいに折り畳みながら、朗らかに笑った。

いつもと同じといえば同じだが、より以上に雰囲気が弾んでいるようにも見える。

「おにぃちゃん、カイトくんが気にするからって、傷が治るまではって決めて我慢してたのに。結構、掛かったものよね~♪」

「ふん」

愉しそうなリリィに対し、グミはどこまでも不満げだった。

もはや姿も見えない、音も聞こえない兄の行く手を睨みつける。

「罪悪感から赦されるのは嫌だなんて、おにぃちゃんも無駄にオトコだわ~ぅふふ、顔を逸らすときだって、カイトくんにガーゼのあるほうを見せつけないようにって、わざわざいつもと違うほうに向けてたし♪」

「……………」

はしゃいで言うリリィを胡乱に見やり、グミは大股でリビングに入った。ゴミ箱を覗き込んで、眉をひそめる。

いちばん上にあるのはもちろん、がくぽが捨てたばかりのガーゼと傷用パッチだ。

「言っても、カイ兄者の力じゃぞ。そんな程度の傷で五日もかけるなぞ、不良品もいいとこじゃ………ラボに苦情を入れてやる!」

ぶすっと吐き出された言葉に、リリィは一際高く笑った。

「それは八つ当たりなのぢゃー☆」

***

揚々とリビングを出たがくぽだが、真っ先にカイトの部屋に行ったわけではなかった。まず向かったのは、自分の部屋だ。

そこに置いてある姿見でもう一度、肌の色を見て――

「…………」

我ながら莫迦なことをしていると思いながら出て、ようやくカイトの部屋に行った。

しかし扉の前でまた、止まる。

しつこく、舌で口の中を探った。つるりとしてきれいなものだ。

「っし」

己に小さく気合を入れると、がくぽは手を上げた。

中にいるひとを脅かさぬよう、けれどきちんと届くよう、力加減して扉を叩く。

「俺だ。入るぞ」

――すでに、入っていいかという問いかけではない。

束の間待ったものの、予想通り、答えはなかった。ここで入って来るなと言われたなら、そちらのほうがかえって安心したのだが。

傷が深いのは、仕方がない。

補修剤もパッチもあるがくぽの傷と違って、カイトが負った心の傷に、塗る薬も貼れるパッチもない。

苦情を言われる由もなく、ラボはロイドの滞りない日常生活のために全力を尽くしている。

がくぽを殴ってできたカイトの拳の傷は、パッチと補修剤の効果で、翌日にはほぼ消えていた。

けれど、心の傷は――

「ふん」

鼻を鳴らすと、がくぽはノブに手を掛けた。必要もないものの、緊張からどうしても手に力が入る。

もはやノブを回すというより折り曲げるような気持ちで、がくぽは扉を開いた。

「…………っ、っ……………っぇっく」

「ち…………っ」

案の定、カイトは泣いていた。

ベッドの傍らの床に座り込み、――腕に、リリィが作ったがくぽ人形を抱いて。

がくぽのデフォルト衣装を簡略化したものを着ていた人形だが、今は小さな体に余る、正式な羽織を着せられている。

入れ替わりはしているものの、ここ数日、常に羽織が一着足らない状態だったがくぽだ。

誰が入れ替えているといって、――おそらくがくぽとマスター以外の、家族三人が。

諸々重なった思いに舌打ちをこぼしたがくぽに、カイトは人形を抱く腕にきゅううっと力を込めた。

――それは、がくぽではない。

けれど、『がくぽ』だ。リリィは兄の形代として、人形を作ったのだから。

がくぽではないが、=がくぽであり、そして≠がくぽではない。

巡って結論は、=がくぽ。

結論が語るのは、まったくなにもかもが修復不可能ではないということだ。

これからの努力次第で、もう一度関係を築くことができる。やり直しの余地はある。

縋るようにきつく人形を抱きしめて見つめるカイトから、がくぽは束の間瞳を逸らした。後ろ手に、扉を閉める。

「っっ」

ぱたんと響いたあえかな音に、カイトの肩がびくりと跳ねた。

ノブを持つ手を一度固く握って開き、がくぽはカイトへと視線を戻す。

傍に寄ることはできない。迂闊に寄れば、怯えさせる。

だからといって、これまでの積み重ねというものがある。下手に低姿勢となり過ぎれば、カイトの不審を買う。

でありながら大上段に構えれば、反感を買う。

つくづく厄介なと心中で己に舌打ちしつつ、がくぽは口を開いた。

「…………済まなかった」

「っ」

重く落とされた言葉に、人形を抱くカイトの腕に力が入る。怯えるうさぎそのものの様子で、ふるふると震えながらがくぽを見つめ、戦慄くくちびるが開いた。

「ゆ、るさ……なぃ…………………」

予測済みの返答だ。

口約束でも、約束は約束。なによりも、対象とされたものがものだ。

軽々しく破って、一言謝れば済むものではない。

だからがくぽはめげることも戸惑うこともなく、もう一度口を開いた。

「済まなかった」

「ゆるさなぃ……………っ」

くり返された言葉にくり返しの答えが与えられ、謝罪は堂々巡りとなる。

このままでは埒が明かないと、がくぽが気持ちともども半歩踏み出したときだった。

これ以上なくきつく人形を抱きしめたカイトが、戦慄いて自由にならないくちびるから、懸命に言葉を吐きだした。

「せ、…………せきにん、とってくれなきゃ……………ゆ、ゆるさなぃ……………っ」

「責任?」

言われてがくぽが咄嗟に思い浮かべたのは、あまりに自分に好都合で、あまりに莫迦らしい責任の取り方だった。

この期に及んでもこうなのかと、表情には浮かべないまま己にうんざりしたがくぽに、カイトはわずかに身を乗り出した。

「せ、………責任、取って……………俺のことっ…………がくぽの、およめさんに、してっ……………」

「まさかの?!」

――まさに今、己に甘い思考に反省したところだというのに、そのものずばりでどんぴしゃりな責任の取り方を要求された。

珍しいほど素直に花色の瞳を見張るがくぽに、カイトは腰を浮かせ、さらに身を乗り出す。

「が、がくぽ、俺のていそー、うばったんだからね………っ。俺のジュンケツ、がくぽにあげちゃったんだから…………っ。ちゃんと責任取って、俺のこと、およめさんにしてっ」

「貴様…………………このうすらぼんやり……………っ」

呆然としつつ、がくぽはようやくつぶやいた。

そのがくぽにも、カイトはめげない。赤く泣き腫らした顔のまま身を乗り出し、懸命に言い募る。

「ほ、ほんとはもっと早く、責任とってくれないと、だめだったんだから………もっとはやく、おれのこと、がくぽのおよめさんにしてくれないと、いけなかったんだから、ね……っ!」

泣き腫らしただけでもなく顔を真っ赤に染めて、カイトはがくぽを詰る。

しかし答えを得るより先に一転、揺らぐ瞳は懇願と媚びる色を含んで、立ち尽くすがくぽを見つめた。

「お、俺のこと、およめさんにしてくれたら………っは、はだかえぷろん、してあげるしっあと、あと、せ、せっくす、の、ときも……おなかの中、出していいし……っ、口でだって、のんであげるしっ」

「待て貴様、このうすらぼんやりが!」

並べ立てられる『カイトをおよめさんにしたときのメリット』に、がくぽは壮絶に顔を歪めた。

ずかずかとカイトの傍に行くと、対面にどっかりと腰を下ろす。

勢いに怯えて身を引いたカイトを、これまでになくきつい瞳で睨めつけた。

「貴様、俺をなんだと思っている?!貴様の体だけが目当てだとでも?!」

「っっ」

抑えてはいても怒鳴られて、カイトはびくりと竦んでさらに身を引いた。

ぷるぷると震えながら人形の頭に顔を埋めると、へちゃりと床にへたりこむ。

すでに泣き腫らして哀れな瞳から、一度は止めた涙が再び溢れだした。

「………が、くぽと……してる、ときに…………おにぃちゃんだから、おとーとを甘やかすとか…………そーいう、義務とか、じゃ、なくて………っが、がくぽにあいされてるから………っ、がくぽと、あいしあってるから、……せっくす、するんだって、……………おもいたい………っ」

「っっ」

瞳を見張るがくぽを見ることも出来ないまま、カイトは思いの丈を吐き出した。

「おなかの、なか……………出されたときに……………おれは、がくぽのものだからって……あいしあってるんだって…………すなおに、しあわせになりたいよぉ…………っ」