しあわせだと、思ったのだ。あの一瞬、ほんの束の間。

がくぽが生身で押し込んで、その欲望の丈を存分に吐き出す。

腹に吹き出す熱を感じながら、がくぽのものだと強く主張されたような気がして、言ってみればマーキングされたような感じで、ひどくうれしかった。

しあわせで、しあわせで――

腹が立った。

違うのに。

War of Bride Pride-6回戦-

タイミングの問題で間に合わずに吐き出してしまっただけで、がくぽはカイトを所有する気などない。

がくぽにとってカイトは手の掛かる『兄』――同居人でしかなく、行為の根底にあるのは愛情よりも同情だ。

そんなものでしあわせを感じた自分にこれまでになく怒りが涌いて、行き場のない感情は瞬間的にがくぽにも向かった。

――おまえが、こんな同情の仕方をするから!

それでも、抵抗もなく殴られ、反論も言い訳もせずに謝罪を残して追い出されてくれたがくぽを見送ると、すぐに罪悪感が突き上げた。

八つ当たりだ。

自覚すればするほど自分が情けなくて、がくぽに申し訳なくて、ただひたすらに泣くしかなかった。

泣いてないて――

考えが変わったのは、リリィが人形をくれてからだ。

羽織一枚より余程、抱き心地のある人形をぎゅうっと抱きしめていると、荒れ狂って悔悟に沈むだけだった思考に余裕が生まれた。

なにが悪かったのか、省みて先に生かそうとする思考に切り替わった。

過剰に怯えたことが、いけなかった。

自信のなさを言い訳に曖昧にしていたことが、いけなかった。

甘えさせてくれるのをいいことに、己を怠惰にしたことがいけなかった。

やりもしないうちから、なにもかもを諦めていたことがいけなかった。

愛されることだけ望んで、こちらから行動を起こそうと考えもしなかったことが――

同情でも、こうまでしてくれる相手などそうはいない。なにかしらの望みはある。

消えきらない悔悟と、先の予測がつかない行動を起こすことの恐ろしさに、すっかり緩んだ涙腺は涙をこぼし続けたが――

がくぽのパッチが取れて、傷が消えたときにはと、決めた。

そのときにはきちんと向き合って、言うと。

「がくぽと、あいしあってる、せっくす、したい…………………っ」

「うすらぼんやりが…………」

カイトの告白を半ば呆然と聞いていたがくぽは、ようやくそうつぶやいた。

つぶやいてから顔を引き歪めると、苛立ったようにがしがしと己の頭を掻く。

「くそっ……………違うか。うすらぼんやりは、俺か」

「ぅ………っ、ぇ、ひく………っ」

ここ数日泣きっぱなしでいたせいで、カイトの涙腺はがたがたに緩んでいる。大事な告白中なのだ。泣きたくないものの、咄嗟には涙を止められない。

人形に半ば埋まりつつも、どうにか顔を上げて見つめるカイトの歪む視界に、がくぽは袖から取り出した紙を突きつけた。

「……………え?」

「責任を取ってやる。名前を書け」

「え…………………」

瞳を瞬かせて涙を弾き、カイトは歪む視界を懸命に凝らした。

どうにか表題を読んだその瞳が、驚きに涙を止める。

「こんいん、とどけ………………」

正式な書面など見たことがないから、これが『本物』かどうか、カイトにはわからない。

一見したところ、それはひどく古臭いスタイルの、無味乾燥な紙切れで、素っ気ないことこのうえなかった。

そこに書き入れられているのは、がくぽとマスターの名前――

「ロイドの『結婚』にはな、未成年者の結婚と同じくその保護者――つまりこの場合は、『マスター』の署名が要る」

瞳を丸くして見つめるだけのカイトに、がくぽは紙切れを突きつけたまま説明した。

「まあ、………こうやって正式に書類を出したところで、人間同士の結婚ほどの法的拘束力はない。せいぜいが条例程度のものだ。そのうえ同性同士は、人間であっても認められていない。提出の当てもない、ままごとだ」

「……………」

「それでもいいなら、名前を書け。貴様を俺の兄ではなく、嫁にしてやる」

「………………っ」

食い入るように届書を見ていたカイトの腰が、へたりと崩れる。恐れるようにきつく人形を抱くと、その瞳には新たな涙が浮かんだ。ぼろりと、こぼれ落ちる。

「お、およめさんに、してくれるの………ほ、ほんとに、ほんとの、………ど、どーじょーとかじゃ、なくて」

「うすらぼんやりが」

吐き出して、がくぽは美麗な顔を勿体無く歪めた。鼻の頭に皺を寄せて、カイトを睨む。

「この俺が、同情だの義務だのだけで、男を抱くか。ましてや嫁になど、死んでもご免だ。俺はそこまで人が好くも、意志薄弱でもないわ」

「……………っっ」

ずびびっと洟を啜ると、カイトはよたよたと片腕を伸ばした。長い時間、力いっぱい人形を抱きしめていたせいで、強張って痛い。自由に動かない。

それでも懸命に伸ばしたが、届く直前、がくぽによって無造作に頭を掴まれ、止められた。

「このうすらぼんやりが、まず涙と洟を止めろままごとだとは言ったが、正式な書類には違いないんだそうそう何度も、用意などできん汚したら、終いだぞ!!」

「ぅ、ぅぁわぅうっ!」

怒鳴られて、カイトは慌てて手を引っ込めた。ずびずびと洟を啜り、懸命に瞳を瞬かせて涙を追い払う。

涙腺はすっかり弱くなった。

思う以上に叶った願いにうれしくて堪らないのに、かえって涙が止まらない。

「ぁ、あ…………っ、ど、どーしよ…………っ」

「ったく、真実手が掛かるな、貴様は!」

すっかりいつもの調子を取り戻しているがくぽは、偉そうに腐す。

焦るあまりにパニック状態に陥り、さらに涙が止められなくなっているカイトに鼻を鳴らすと、その頭から手を離した。書類は一度ベッドに置いて、身を乗り出す。

「…………っ」

ちゅっと音を立てて涙を啜り取られて、カイトはぴたりと動きを止めた。

近すぎて、がくぽの顔はよく見えない。

それでも瞳を見開いて、懸命に見つめてしまう。

ちゅっちゅと音を立てて、いくつもいくつも落とされるキスの感触を追ってしまう。

「……………ぁ、がくぽ…………」

緊張に凝り固まっていた心と体がゆるゆると解け蕩けて、カイトの声は自然と甘くなった。

「カイト」

「んん………っっ」

腕を伸ばしてがくぽの首に引っかけたところで、滅多に呼ばれない名前が耳朶へと吹き込まれる。背筋を駆け抜けた心地よい衝撃に、カイトは堪え切れずに鼻を鳴らした。

「貴様が、俺の生涯唯一にして、絶対の嫁だ。義務でも責任でも、同情でもない。貴様を求める、俺の欲望ゆえに――俺のところに、嫁に来い。改めて、家族と成れ」

「がくぽ………っんっ」

喜色に震えながら求めたカイトのくちびるは、指を当てて押しのけられた。

叶えられない欲求に不満そうに、多分に不安そうに見つめる青い瞳へと、がくぽは薄く笑う。

「名前を書いてからだ。キスしたければ、名前を書け」

「っっ」

傲岸に命じられて、カイトの涙がぱたりと止まった。見開いた瞳は揺らいでいるが、それはいつものことだ。

湖面のように青く揺らぐ瞳――出会った当初からがくぽを虜にして離さない、覗き込んだが最後、どこまでも透明に吸い取られてしまう瞳だ。

笑いながら、がくぽはカイトの顔に舌を這わせた。名残りの涙を啜り、痕を舐めてきれいにしてやる。

それでも宣言通り、くちびるには触れない。

「書ク」

「応」

急に、起動したばかりのロイドのごとくプログラム的に告げ、カイトはぎくしゃくとがくぽから離れた。

応えてがくぽはベッドから書類を取り、腰を浮かせると飾り棚からペンを取ってカイトに差し出した。

床に置いたクッションに、一度は取り落とした人形を丁寧に座らせたカイトは、スラックスでごしごしと拳を拭う。

気持ちだけきれいにすると、がくぽから書類とペンを受け取った。

机もあるがそのまま、床のきれいなところに書類を置く。

爪先まで優美に整えられたがくぽの指が伸びてきて、ひとつの枠を差した。

「ここだ」

「うん」

頷いて、カイトはゆっくり丁寧にペンを走らせ、言われた場所に自分の名前を書き込んだ。

「……………んっ」

書き終わってからもカイトはしばらくじっと眺め、納得してから顔を上げた。

対面に座るがくぽを窺うように見ると、偉そうに頷かれる。

「良し」

「っ」

書類を取り上げると、がくぽは楽しそうに笑って間近に眺めた。並んだ名前を確認してから元のように折り畳み、再び袖に仕舞う。

――我ながら莫迦なことをしていると思いつつも、署名して持ってきて良かった。

がくぽは己の準備の良さに、ようやく及第点をやってもいい気になる。

「…………」

完全に緊張が解けたカイトは、床に手をついてなんとか体を支えつつ、がくぽの袖をじっと見た。

ロイド同士での婚姻届も、地方によっては嫌がる。ましてや同性同士ともなれば、人間ですら法整備が成っていない。

どこに届けられるでもない。当てもなく、まさにままごとだ。

これまでの口約束と、なにも変わらない――

それでも構わないが、どこに保存するのかくらいは知っておきたかった。

「………どぅ、するの、それ?」

「リリィに渡す」

訊いたカイトに、がくぽは迷う素振りもなく即答した。

「たぶん、アレに預けるのがいちばんだ。なにを罷り間違うか、わからんからな」

「?」

前半はカイトにも理解可能だ。

軽佻浮薄、蝶のようにひらひら飛んで落ち着かないように見えるリリィだが、家事を一手に担っているだけのことはある。家族の中では意外にも、最年長であり社会人であるマスター以上に世の中に通じている。

彼女に渡せば悪いようにはしないということは、カイトも同意する。

しかし後半は、よくわからない。

なにを罷り間違うと――いや、そもそも誰が罷り間違うと。

罷り間違って、その先はどうなるというのか。

「がく、っ」

問おうとしたカイトの腰に腕が回ったかと思うと、強く引き寄せられ、がくぽの膝に乗せられた。

久しぶりだ。

こくりと咽喉を鳴らすカイトを、がくぽはうっすらと笑って見上げる。

固まったカイトの後頭部を掴むと引き寄せ、がくぽはくちびるを重ねた。

「ん…………っ」

ぴくりと跳ねたカイトは、すぐさまがくぽの首に腕を回す。伸ばした舌は拒まれることもなく相手に絡め取られて、やわらかな粘膜の感触と互いの味を、久しぶりに堪能した。

「ぁ、は…………っ、ぁ、……………っ、っ……………っ」

「………………カイト」

束の間、くちびるが離れたその隙間。

がくぽはやわらかにカイトの名前を呼び、短い髪を梳いてやった。赤く染まった耳朶をつまむと、かりりと掻く。

「生涯、俺に愛されて、愛していろ」

「ん……………っ」

カイトが反応するより早く、再びくちびるが塞がれた。今度は隙もなく、余裕もなく貪られる。

懸命に応えるカイトは、がくぽの背中に爪を立てた。